あなたがわたしを泳がせる

黒子と付き合っている氷室を縛り付けたい火神だけどもわりと暗い



 あ
  っ
   と小さくひらいた氷室の口から感嘆符が滑り落ちると、床に落ちた鍵が続けざまにかちゃんと音を立てた。まるで氷室の感嘆符が実体として鍵のかたちを伴ったように火神は思えた。天に昇ることなく中空を漂うわけでもなく地へと落ちる。彼の、不意の驚きのために発せられた、ちいさな吐息に似た一音は斯くあるべきだ。火神の願いは氷室の手から滑り落ちた鍵によって、目に見える形でこの世に降ろされた。
 彼が背を曲げて手を伸ばす前に、火神の指が輪状の金具に絡みつく。ミニチュアの靴べらのような形をした革製のキーホルダーと鍵をつなぐ輪に人差し指を通すと、ほら、という声と共に拾い上げ、眼前の兄へと差し伸べる。二つ折りの皮革を縫い止めている端の糸がゆるみ、解れかけている。
 氷室はすまなそうに顔をくすませて、手のひらを広げた。
 火神の指から氷室の手の内へ、するりと鍵が滑り落ちる。

「悪い、落としてしまった」

 いいって、気にするなよな。そうした言葉を返すが、氷室は手の内に収まったキーホルダーをなにやら眺めているようだった。
 濃紺に染められた皮革。ステッチのように縫い込まれた糸は、控えめな緑色をしている。

「お前からもらったこれも、古くなってしまったようだね。このあたり、ほつれてしまっている」

 ほら、と指で撫でながら氷室がその箇所を示す。爪を嵌め込まれた氷室の中指の腹が糸のほつれかけた端をなぞる姿に、火神は密かに唾を飲み込んだ。彼のやわらかな肉とその周囲を覆う皮膚が縫い込まれた糸の感触を辿っているのだと思うと、むずむずと下腹に熱が宿る。彼の指が味わっているのが糸でなかったとしても、火神の興奮は途切れなかった。
 氷室の手のひらで力尽きた小魚のように収まっているキーホルダーは、彼が火神の部屋に越してくる際に贈ったものだった。一本だけくくりつけられている、この部屋の合い鍵と共に。それは火神からの歓迎の印であり、同時に火神が氷室をつなぎ止めるものだった。氷室は律儀にどこへ行くにもこの贈り物を携える。鍵を持ち歩く限り氷室の帰ってくる家は『ここ』以外のどこにもないわけで。氷室が鍵を肌身離さず持ち歩くほど、氷室はこの部屋に帰属している。それは火神の願う事態だった。
 星のような銀色の金具と深い夜空のような紺色のキーホルダーを結んでいる部分の皮革は、こすれてしまって色あせ毛羽だっていた。どの辺りも同じような色のあせ方をしているというのに、そこだけ早く劣化している理由を火神は知っている。 
 飲み会の帰り、酔いの冷めないままひとりで夜道を歩く頃。ゼミに参加する人数分のレジュメのコピーが終わるのを待っている間。彼はひとりきりになった時にだけ、指を円い金具に差し入れて、口笛を吹きながらくるくると回すのだ。そこにくくられた鍵とキーホルダーが一定の速度を持って回転し擦れるために、ちょうど彼の指が当たる部分の皮革が劣化していく。彼が指で回した分だけ。
 鍵が五本の指に仕舞い込まれて姿を隠す。氷室がジャケットの上から改めて鞄を掛け直した。出発するのだろう。氷室が鍵を落としたのは、火神に出かけの挨拶をするためだった。
 大学へ向かうよりも気の遣った服装に身を包んだ氷室に、今晩の食事の有無を尋ねる。

「今日は泊まりだから。気にしないで好きにやってくれ」

 氷室がほころんで表情を緩ませる。おそらく彼は、いま己がどれほど幸福に満ちた顔をしているか気付きもしないだろう。幸せとは訪れた者の気付かぬうちに現れ、いつの間にやらそっと飛び立っていく。
 直接口に出さなくとも、彼が誰かのために外に出るのだとわかっていた。たまにしか袖を通さないお気に入りのジャケットをわざわざ引っ張り出してきたのは、好ましい服装に身を包んだ己を、今から顔を合わせる相手に見せたいからだ。つまりは、氷室が最も会いたい人間との対面を指すわけで。
 氷室の恋人の座を占める黒子。それ以外にいるはずがない。いてたまるものか。氷室が最後に黒子と逢瀬を重ねてから、十六日が経ってる。顔を会わすのであればそろそろのはずだ。
 氷室が高校を卒業し東京に出て、火神の元から学校に通うようになってから一年。黒子もまた都内の大学に入学し、高校時代と変わらず実家から学校へ通っている。実家から通学のできる距離にあるからと、黒子は家族との生活を選んだのだ。その方がお金もかかりませんし、と黒子は些末な事柄のように口にした。
 黒子と氷室の交際は今に始まったことではない。彼らは高校生の頃から秋田と東京との涙ぐましい距離を物ともせずに、順調に交際を重ねていった。月日は流れ、晴れてふたりは遠距離恋愛を克服し、高校の時分よりも短い距離といくつかの小銭で手軽に顔を合わせることのできる環境を手に入れた。
 氷室が黒子よりも一足先にこちらの大学に通い出したことで、早くからふたりの逢瀬の舞台は東京に絞られていたのだが、彼らにとっての記念すべき一年目はあまり芳しいものではなかった。氷室は毎日埋まりっぱなしの時間割をこなした後に、大学のバスケットチームに加わり夜遅くまで練習を。一方、高校生の黒子は最終学年として部を率いていく立場にあった。ふたりはすれ違うどころか互いに自分のことで手一杯で、新幹線で行き来をしていた頃よりも顔を合わす機会を減らしていた。ひと月に一度逢えればまだ良い方で、二ヶ月おきの逢瀬などざらだった。直接会うことが叶わない分、彼らは火神が気に留めるほど密に連絡を取り合い、より一層仲睦まじくなったのであるが。
 通う大学も学科も学年も異なるために時間が合わないことの方が多いが、それでも今までに比べれば雲泥の差であると彼らは思っているようで。わずかな暇を見つけては、いじらしい逢瀬を繰り返していた。何も知らない傍目でも仲の良い友人関係を築いていると受け取られていたのだから、本人達の幸福は言わずもがなだろう。

「それじゃあ行ってくる」

 氷室がつま先立ちをして火神に身体を寄せたので、いつものように火神は兄を抱きしめて頬の辺りを口付けた。氷室をこの家に招いてから生じた、こうして誰かを見送って、誰かに己の存在を認めてもらうという当たり前の習慣を、火神は心の底から喜んでいた。それが兄である氷室であれば尚のこと。慣れていたこととはいえひとりきりで生活を営むのは、どうしたって物寂しい。
 氷室の背を見送り、玄関の戸ががちゃんと閉まる音を聞いて、火神は首を鳴らした。こきっと気味の良い音を立ててなんとなしに首のこりをほぐす。高校時代の先輩の癖が移ったのかもしれないが、そうであろうとなかろうと、どうでもいい。
 台所に向かってコーヒーの準備をする。これから始まる楽しみのためには、カフェインは必要不可欠だった。なにせ、二週間と二日ぶりに用意された長いながい楽しみなのだ。待たされた分、細部まで楽しまなければ割に合わない。それに、来るクライマックスにまで好奇心を持続させるためには、こちらも悠然とした構えを取らなくては。このお楽しみはどこを取り出しても面白味に溢れているが、最も盛り上がるまでに幾ばくかの時間を必要とする。かといって終盤までひとっとばしに進めてしまっては興醒めもいいところだ。ひとつの連続したストーリーの成り立ちを知っているからこそ、イベントの成立をより深く味わうことができる。成立背景を知らなければ真に楽しむことのできない芸術作品と同じこと。
 戸棚から豆を取り出してミルに注ぐ。焙煎された豆の香ばしい香りがふわりと鼻先をくすぐった。氷室が選んだ豆は己の買う物と違って、やはりひと味違う。
 自分ひとりのために用意するのだから飲めてしまえば事足りるのだが、かといって作業を急く必要などなかった。これから火神には膨大な時間が横たわっている。その一端を消費しようとわざと時間と手間をかけて注いだ代物は、いつだって美味しく出来上がった。普段淹れるものに比べてその出来は明らかだったので氷室にも味わわせたいと思うのだが、氷室がそれを口に運ぶことはない。
 ハンドルを回すと、しんと静まりかえった部屋にごりごりと豆が挽かれていく音だけが響く。氷室がいれば談笑を交わしながら行う工程も、火神ひとりだけではそもそも口の開きようがない。もともと火神は口数の少ない男だった。ひとりごとの類いすら内側の吹き出しで済ませてしまう火神にとって、この静寂は懐かしいものだった。
 規則正しく進む時計の秒針と、二十四時間コンセントの刺さった電子機器の低い稼働音。それから思い出したように聞こえる自分の吐息。この部屋に音が満ちるためには己が動かなくてはならないという当たり前の事実を、久方ぶりに火神は味わっていた。
 こうして火神がわざわざ道具を使ってまで飲み物を用意するようになったのは、氷室がここで暮らし始めてからだ。
 ミルで豆を挽くのが好きだったんだ。
 コーヒーを淹れるのに必要な道具をひとつずつ揃えていった氷室は、そんなことを言った。
 父さんがコーヒーを淹れる時に、やらせてと強請ってね。こうして台所があるところに住むのは久しぶりだったから、つい懐かしくて。
 俺の財布から出すからタイガは心配しないでと言い含められてから、三月もしない間に氷室はコーヒーを振る舞うようになった。氷室の淹れたものは確かに美味しかった。それから氷室に淹れ方を教わって、こうして火神もまたひとりで器具を使いこなすことができる。
 氷室がこの部屋に来なければ、こうした暮らしをすることはなかった。火神の中心を支えるバスケットボールという競技から当たり前のように溶け込んでいる生活様式に至るまで、彼によって導かれている。その事実を火神は幸福に思う。ただ素直に目出度いことだと。己の人生に彼の存在が織り込まれているという事実が、こうしてかたちとなって現われている。
 ああ、と。胸の内に溜まった空気をひとつ残らず吐き出してしまうように息をついた。ハンドルを回す手を止めて、神からの啓示を受けた信徒のように色をなくす。混沌とした意識の汚泥からせり上がったある真実に、火神は喜びをもって打ちのめされた。
 己は愛しているのだ、氷室辰也を。第三者が抱く、他者へ向ける恋やら愛やらといった次元よりも深いところで。
 これは紛うことなく、肉親としての情であった。それ以外にこの感情を表すことなどできやしない。
 氷室辰也を愛しているのか、兄を愛しているのか、と問われれば、火神は兄である氷室辰也を愛していると答えた。兄という冠を自ら被ったあの男だけが、火神にとってただひとり実感を伴った肉親だった。
 俺はタツヤを愛している。心から浮かんだその意識に、火神はしばし我を忘れた。軽い酩酊と恍惚が火神を包む。彼に愛されている己が彼を愛しているという事実が、まるで地上に漂う空気のように、今に至るまで当たり前のこととして成立していた。この発見を寿がないでいられようか。
 この真理は過去のものではない。現在そして未来へと連なっていくものだ。火神は願うまでもなく、斯くあるべきと信じていた。時間も土地も心すらすれ違ってしまった関係をまたこうして元に戻すことができたのは、初めから番うべき間柄だったからだ。己が、氷室に手を引かれ導かれる弟として。氷室が、火神に手を差し伸べ救い上げる兄として。
 だから俺はこうして、タツヤの帰りを待っている。
 壁に掛かっている時計を覗く。長針は百八十度の彼方を越えて久しい。この時間になるまで氷室が戻ってこないということは、忘れ物をすることなく出かけることができたのだろう。火神は氷室が家に戻らないと確信して、頭上の戸棚を開けた。
 瓶や箱に詰まった調味料や、まだ封の開けていない茶葉、うっすらと埃のかぶった缶詰などをひとつひとつ下ろしていく。調理台にそっくりそのまま戸棚の中身を出してしまうと火神はそれらを一瞥することなく、奥から最後に残った紙袋を引き出した。袋に詰め込んだパウチされた調味料をひとつふたつみっつと取り出せば、黒い箱がレトルト食品の間から顔を覗かせた。
 この場所にその箱が変わらずあることに火神は安堵も落胆もしなかった。その代わり、手のひら大の黒い箱を調味料と同じように掴むと、ポケットから取り出したイヤホンを側面の穴に差し込んだ。アンテナを立てて電源を入れ、両耳をイヤホンで塞ぐ。オーディオプレイヤーをいじるように親指で周波数を合わせると、準備を終えた端末をポケットへと突っ込んだ。
 空いた両手で調理台へと移動された中身を、棚の中へひとつずつ戻していく。調味料にかぶった埃をふっと息を吹きかけて払い、湿った布巾で拭いながら。もう一度調理台を拭いて棚を開ける前と同じ状態に戻すと、火神は再びハンドルに手を置いて削れていく粒の感触とともに豆を挽く。
 今日は泊まりだ、と氷室は言った。
 氷室も黒子も火神も、もう高校生ではない。時と場所を選ばないあの行為を始めるのに年齢など露ほども関係のないことを火神は身を以て知っていたが、一般的に広く知られる盛りがつく時期というものもあながち外れてはいないようで。そうでなくとも氷室と黒子は恋仲というものだ。当人たちがそう認め合っているのだから、その恋人意識とやらは互いに高いのだろう。
 恋をしているふたりが泊まってすることといえば、当然ひとつしかない。泊まるから身体を重ねるのか身体を重ねるために泊まるのか、その辺りの順序はまちまちだが黒子と氷室の場合は後者であろうと火神は目星を付けている。この十六日間、氷室がほかの誰かと身体をつなげた形跡はない。
 氷室が泊まる、と言ったのだから、氷室はここではないどこかに宿を取るのだろう。どこで? さあ、一体どこであろうか。
 黒子は実家暮らしだ。二階に自室のある黒子が氷室と事に及ぼうとすれば、嫌でも一階の両親と祖母の存在を気にかけなくてはならなくなる。そうした環境の中で彼らが事を行うのはまれであった。黒子はティーンエイジャーのように家族の不在を伺わなければ、氷室を泊めることすらできない。
 今日、黒子の家族が不在であるのか、火神には窺い知れぬところだった。黒子の部屋以外で彼らが周りを気にすることなく情交を結ぶことができる場所といえば、月並みではあるが一カ所しかない。金銭の譲渡によってプライバシーと寝台を得ることができる、休憩兼宿泊施設。そこで交わされるやりとりを思って、火神は静かに身体を震わせた。期待のために思わず、んっと息が漏れたが咎める者は誰もいない。
 手の内から砂がこぼれるように、ハンドルの手応えがなくなった。挽き終えてしまったのだろう。氷室が不在のときはこうして物思いに耽っている間に作業が終わってしまう。把手に手をかけて、引き出しを覗いた。うまく挽けているように思えるが、こればかりは出来上がってみなくては確かめようもない。
 あらかじめ用意しておいたケトルに火をかける。コンロの火によって少しずつ熱せられていくケトルが小刻みに揺れる音を、火神が聞くことはなかった。
 何百人もの人間が立てる雑踏の中でも、彼の声だけがクリアに聞こえた。いつだって己の存在抜きで成立しているざわめきに、今日もまた火神は耳を傾ける。
 とん、とん、と単調な足取りだった足音が地面を蹴った。乱れたステップが、人身事故による遅延の案内を踏み越えていく。足音がぴたりと止まった。
 ひさしぶり、だね。黒子くん。

 「十六日ぶりだな、タツヤ」

 手をポケットに伸ばして、音量のボタンをめいいっぱいに押し潰す。激しく地面を打つ雨音のようにざあざあと鼓膜を塞ぐ人々のいきれの中で、かちゃん、と。火神は金具が触れ合う音を耳にした。それは、この部屋を出る前に彼が立てた音にそっくりだった。