あなたがわたしを泳がせる

暗いぞ



 デパートへ向かうために地下の通路を歩いていると、彼は秘密を打ち明けるような調子で僕にささやきました。

「なんだか、学校をさぼっているみたいだね」

 聞き耳を立てる人なんていないのに、なんでもないことをくすぐったく喋る彼の仕草に胸をときめかせながらも、僕は普段通り振る舞うことにしました。ほんとうは、彼と歩いているだけで、踊り出してしまいそうなくらい浮かれていたのですけれど、そんな姿を直接彼に見せられるほど僕の心臓は強くありません。

「平日ですからね。僕の授業が休校にならなければ、休みでもない昼間にこうしてあなたと出歩くことなんてありません」
「自主休校じゃないよね」
「僕がそんなことをすると思います?」
「でも、本当に必要になったときは、君、ためらいなく踵を返しそうだな。大学のことなんて頭から消し飛んでしまって」
「そのときが来るのはいつでしょうね」
「さあ。でも、俺にとって好ましい事態だといいな」
「僕にとっても好ましい事態であることを願っています」

 待ち合わせ場所にした地下鉄駅の改札口からデパートに着くまでの道のりを、僕と氷室さんは、一時間もしないうちに口にしたこと自体を忘れてしまいそうな些末なお喋りで埋めていきました。彼に話したい、彼と話をしたい出来事は、話題は、抑え込んだ胸が裂けてしまいそうなほど数え切れないくらいあるのですが、いざ彼を目の前にしてみると、なぜだか僕の口はどうでもいいことばかりつぶやいてしまうのです。
 メールで、電話で、SNSで。会えない間の寂しさを埋めるために彼といくつもいくつもやり取りをしたというのに、これでは本末転倒にもほどがあります。
 僕はそっと、手を伸ばしました。
 隣に並ぶ彼の右の手の甲に、中指を。蝋細工のように透き通る彼の、やや骨の浮き出た手の甲に、触れようとしました。羽根で撫でるようにほんのすこしだけ、彼が気付かない程度の触れ方で彼に触れてみたかったんです。僕は息をつめて慎重に指を伸ばしていました。
 指先が彼の手に触れるか触れないかのわずかな隙間まで迫ったところで、僕の手はぎゅっと捕らえられてしまいました。その途端、とんでもなく息が詰まって、びくんと、僕は身体を震わせていたと思います。彼はしてやったりといった面持ちで、斜め上から僕の様子を楽しそうに見ていました。

「つかまえた」
「ここ、人通り多い、です……よ」
「誰も気にしないよ。黒子くんは、いや?」
「いやじゃ、ないです……けど、僕からしたかったです……」

 恨み言のようにちいさく口にすると、その返事がおかしかったとでも言うように、彼はあははっと声に出して笑いました。
 わかっているのです。彼のようにこうして往来で手をつなぐ勇気すら持ち得なかった僕が、なんてことのないのように手を握りしめた彼に、僕からしたかったなどと言うことほど恥ずかしいことはありません。僕は、堂々と彼に触れる自信すら未だ持ち得ないのに、願うことだけは一人前でした。彼と交際を始めてから二年も三年も経つというのに、僕は一向に彼に慣れることはありませんでした。彼と顔を合わすたびに、新鮮なときめきを以て彼に恋をし続ける、そうした夢物語みたいな理由がどうやら僕には一番しっくりくるようなのです。
 彼は握りしめた手をむやみやたらに振り回したり、水平に持ち上げて目がくらむ魔法の呪文を唱えたりなんてことなどせず、当たり前の仕草でもって僕の手を握りしめます。彼はどこまでも本気でした。僕をほんとうに恋人として扱ってくれているのです。
 見せつけるわけでもなく、隠すわけでもない。ただつなぐべきものとしてつながれた手に彼は力を加えて、僕に示しました。いたずらを企んだ子供のようなまなざしが、僕の返事を待ち望んでいます。

「じゃあ次にするときは、君からして。今はまだ、俺、この手を離したくないから」
「……どうしてそういう台詞が浮かぶんですか」
「君といっしょにいるとね、いくらでも出てきてしまうんだ。だから、しっかり受け止めてね?」

 彼お得意の口説き文句は健在で、それはつながれた手のひらととんでもない相乗効果をもたらしていました。僕はのぼせ上がった頭のまま、かろうじて口を開きます。

「あなたのこいびとって、たいへんですね」

 手をつないでいるせいで、地下街を歩くひとたちも今日が平日であることも、すべて彼方へ飛んでいってしまったようでした。地面を蹴っていることすらわからなくなりそうなほど覚束ない足取りになりかけている自分を叱咤して、彼の手を握り返します。彼の指が、僕の閉じた指の間をこじあけて、きゅっと掴み直しました。僕の手のひらは、もうどろどろです。それでも彼はこんなことを、嬉しそうに言うのでした。

「ところが、君の恋人は幸せだよ」




 授業数の関係で、その日は休みなんです。
 僕の言葉によって突然降ってきた休みに、僕と氷室さんは何をしようか、受話器越しにあれこれ話し合っていました。やりたいことやしたいことをいくつも詰め込みすぎて、しまいには二泊三日の温泉旅行の計画を立ててしまい、休みが足りないことを思い出してまた今度などと遊んでいたのですが。
 さんざん時間をかけた挙げ句に話が振り出しに戻り、通話の目的を失っていたのですが、僕はたくさん彼と話をすることができて楽しかったのを覚えています。それが、いつ叶うかわからない旅行の計画だったとしても、彼とのお喋りは本当に楽しかったんです。
 またもや話が脱線を繰り返し、くだらないことなんかをしゃべりながらひとしきり笑い合ったあと、彼はまだ余韻を引きずったまま、それならと僕に持ちかけました。

「それなら、買い物につきあってくれない? ずっと前から欲しかったものがあるんだ」
「いいですよ。何ですか? 乳児用のおしゃぶり以外でしたら、何でも付き合いますよ」
「まって、それ反則……さっき俺がツボに入っていたからって、またもちだすのやめて……」

 彼は先まで笑い転げていたワードに、またも笑い出しました。しばらく彼の笑い声が僕の受話器を揺らします。その間に、やめて、だの、ばか、だのとまったくこわくない罵声が飛んでくるのを、僕もくすくす笑いながら聞いていました。ようやく、ぜえぜえと苦しそうながら息を吸うところまで落ち着いた彼が、話のつづきを始めます。

「黒子くん、おぼえてろよ……。それで、そう、財布が欲しいなって思ってたんだけど、どこがいいか迷ってたんだ。黒子くんが持ってるものって、どこのもの?」

 どこのもの、と訊かれて、僕は机の引き出しから財布を引っ張り出しました。どこへ行くにも持っていきましたから、すっかりくたびれています。黒い、革でできたしっとりとした二つ折りの財布です。それは、高校に入学したお祝いに、父からもらった品でした。中学校を卒業したばかりの僕には釣り合わないくらい上等な品で、箱から開けたとき、つんと独特な革のにおいがしました。そうした匂いを僕の物から嗅いだのは、初めてのことでした。開くと光沢のあるチョコレート色の革が覗き、その中にお金を入れるのがもったいなくて、ごねるように古い財布を使っていました。入学式の前日、とうとう決心をして折り目ひとつない真新しいお札をそっと札入れに差し込んだのですが、とてもどきどきしてしまって。そうした様々なことを、今でも鮮明に覚えています。なんてことのない財布ではありましたが、僕には思い入れのあるものでした。
 彼の言葉で僕は気にも留めていなかったその財布の製造元を探し、表面に刻まれた名前を言いました。記憶の中に残っている、かつて箱を包んでいた包装紙は見慣れたデパートの物で、僕はそのデパートの名前も伝えました。
 彼は一通り僕の話に相槌を打つと、コンビニにでも行こうと提案するような口ぶりで。

「新宿で財布をみて、そのあと本屋に行くっていうのはどうかな」

 僕が口に出したばかりのデパートのある場所を言ったものですから、僕は笑い話のつもりで言い返しました。

「僕とペアルックでもするつもりですか?」
「うん。そのつもり」

 受話器から聞こえてきた大真面目な声に、僕は一瞬固まってしまって。半信半疑で受話器の向こうを窺います。

「……本気ですか」
「ああ。嘘をついても面白くないだろう、この手のものは」
「……あなたって本当に、突拍子もないことをしようとしますね」
「俺に言わせれば君も十分突拍子もないけどね」

 平然と返してくる彼に、またまたご冗談を、などと口にしながらも、僕は自分の静かな鼓動を意識せずにはいられませんでした。先に僕が彼を大笑いさせてしまったのでやや意地の悪いお返しかもしれないと、今日が来るまでずっと疑い続けていたのですけれど、彼はほんとうに僕の持っている財布と同じ物を買うつもりのようでした。デパートに入ってエスカレーターに足を乗せ、目的の店のブースへ着くまで、僕はずっと疑い続けていたのです。店員を呼び止めて、店の名前が入った革小物の並ぶガラスケースの前で、これと同じ物が欲しいんですが、と彼が話しかけるのを聞いて、僕はふるえながら財布を差し出しました。
 結局、といいますか、当たり前に、同じものなどありはしませんでした。ずいぶん前に売られていたものです。オーソドックスな形ではありましたが、かといって何年も同じ型を売っているわけがありません。店員は新しい型のものを勧めましたが、またの機会に、と彼は断ってしまいました。軽く会釈をする店員に見送られながら、残念だな、と。誰に聞かせるでもなく滑り落ちた彼のそのひとりごとに、僕はいてもたってもいられないくらい胸が苦しくなってしまって。
 店頭に僕の持っている財布がないことなど、わかっていました。欲しいならばネットで中古品を探せばいいのだと彼に助言することはいくらでもできましたが、僕は何もしませんでした。聡くよく気のつく彼がそうした簡単なことを忘れてしまうほど、僕の財布にこだわっている。そうしたままで、いてほしかったんです。あるはずないじゃないですか、と僕が口にした途端、じゃあやめようか、と、彼が考えを改めるのがこわかった。最後の最後まで冗談ではないかと疑っていたくせに、いつまでも夢を見ていたかった。僕はほんとうに臆病で意気地がなくて、そのくせ欲張りでした。それでいて、僕は願っていたんです。もし、彼が考えるとおりに店に僕と同じ財布があったならって。

「残念だったね」

 彼は胸に芽生えた失意を隠すように、くしゃっと笑いかけました。その笑い方が、以前火神君が浮かべたものとそっくりだったので、すこし、動揺しました。忘れもしない、火神君が僕に指輪を捨ててきてほしいと頼んだ、あのときのことです。鎖の絡んだ、鈍く重い銀色のかけら。火神君は僕の願いを汲み取って、手放すことはしませんでしたけど。
 僕はほんの少し、それは首を傾げるまでもないかすかなものでしたけれど、それでもなにか引っかかりを感じました。喉にひっかかってしまった魚のちいさな骨のように、いくら飲み込もうとしても消えてくれませんでした。
 
 兄弟というものはこうして、浮かべる表情すら似通ってくるものなのでしょうか。
 
「……どうします? どこか、ちがうところを見てみますか?」

 芽生えた違和を振り払うように、氷室さんに問いかけます。彼はすこし考えて、爪先を下りのエスカレーターへと向けました。規則正しく浮上しては降りていく段の一つに足を乗せたので、僕も彼にひっついてエスカレーターに乗ります。平日なだけあって、近づいてくる下のフロアを見渡すことができました。

「そうだね、これじゃなんだから、もう一軒。つきあってもらえる?」

 デパートを出て誘われるままに地下鉄に乗って、彼の隣をてくてくと歩きます。迷いのない彼の足取りに任せるままでしたが、その頃には僕の口も思うように動くことができて、だいぶ気持ちが楽になりました。この日のために少しずつたまっていった沢山の話の種をひとつひとつ取り出しては彼と分け合いましたが、尽きることはありませんでした。
 バスケットボールと火神君と、それから紫原君くらいしかつながりのなかった僕と氷室さんが、こうしてお付合いをする関係になるだなんて。自分から望んだくせに、僕は未だに彼と付き合っている、彼の恋人でいるという実感が持てませんでした。
 話をする傍らそんなことをぼんやりと思っていると、なんだか立派なお店の前に着きました。降りた駅からして僕には縁遠い場所だったのですけれど、僕はこの辺りを歩くのさえ初めてです。道幅が広くて石畳が敷かれて、まるで外国のような街並みに余裕を持って建てられたお洒落なお店が並んでいます。彼は臆することなくガラス張りの大きな扉を開けました。
 彼が店に入った途端、いつもありがとうございます、と店員が親しげに彼の名前を呼んで付き添います。店内には男物女物問わず服や小物が並べられていて、その佇まいだけならば黄瀬君に連れて行ってもらうお店と変わりませんでしたが、ふと眼に入った帽子の横に置かれた値段の桁を数えて、僕は考えを改めました。
 働くようになってから、もしかしたら一度くらいは入る機会があるかもしれない、そうしたお店に僕はいるようなのでした。この店にある一番安い品物を買うために、おそらく僕は銀行からお金を下ろさなくてはならないでしょう。彼はそうしたお店に当たり前のように足を踏み入れ、しかもそこそこの常連のようでした。
 幸い、中学時代から跳んだ金銭感覚の友人には恵まれていたので、その場違いさに固まってしまうことはありませんでした。ただ、こうした場所に連れてこられたときに特有の居心地の悪さ。むずむずと据わりがよくなくて、そのくせ辺りを見回してしまう。落ち着くことのできない僕に対して、彼は出たばかりの新作のズボンを勧められていました。紺に似た暗いグリーンの布地に、格子模様の赤いステッチが入っています。すっきりとしたシルエットのそれを彼は手に取ると。

「あ、ほらやっぱり。君の方が似合う」

 僕の腰にウエスト部分を押しつけました。長い裾が靴についてしまいそうだったので、僕は不自然に思われない程度の拒絶を以て彼の胸に服を押し返しました。
 僕より彼の方が似合うに決まっています。それでも彼はその服を着せたいようでした。

「ちょっと着てみようよ」
「そう言って着せ替え人形にするつもりでしょう。先に用事を済ませてください」

 首を縦に振ろうものなら、彼に爪先からつむじまで取り替えられてしまうでしょう。今まで着た服は店の紙袋に畳まれて、彼と別れるまで彼の手の内にありつづける。そうしたことが過去に一度ありました。彼と一緒に外を出歩いた初めての日です。女の子でしたらきっと、喜んで顔をほころばすのでしょうけれど、僕はあまり好きではありませんでした。
 あくまで彼と、対等にお付き合いがしたかったのです。そうした僕の気持ちを彼も汲んでくれるようになりましたが、今でもこうしてたまに十二分すぎるほどの好意を僕に与えようとします。僕に施そうとする彼の気持ちは有り難いのです。それが僕への愛情の表れであることを、自惚れではなくわかっています。ただ僕にとってそれは囲い込むかのような、まるで愛玩物を拵えるような甘やかしのように思えて、我慢がならなかったのです。それにこのズボン一着で、黄瀬君に押しつけられた衣服の数々の代金が収まってしまうでしょう。そうした高価な物を安易にもらうわけにはいきません。

「おじさんがプレゼントしてあげるって言っているのに」
「そういうのは、黄瀬君だけで十分です。つくづく思いますけど、火神君にしろあなたにしろ、経済感覚おかしいですね」
「赤司くんに比べればかわいいものだろ」

 彼は店員に服を戻しました。一度言ったことは貫く僕の態度を知っているのです。 

「でも赤司君は僕に服を買いません」
「馬は贈られるのに?」
「不可抗力だったんです。氷室さんだって贈られてみたらわかります」

 僕は京都の馬場でのびのびと育っている馬のことをひさしぶりに思い出しました。一年目のウインターカップの後に赤司君から礼として、馬主登録申請書の写しが送られてきてから随分経ちます。三ヶ月に一度、赤司君から馬の写真が届くとき以外は僕も馬主であることを忘れていますが、そういえば僕は馬を持っているのでしたね。ときどき赤司君から乗馬のお誘いが来ますが、あまり付き合えていなかったりします。
 いつだったか、氷室さんと話をしているときに話題が僕の馬へと飛んで、それで彼も僕が馬を持っていることとその経緯を知っているのでした。ジャスタウェイ一号です、と馬の名前を告げれば、君の飼ういきものには必ず『号』がつくんだね、と彼は神妙そうにうなずいていたのですけれど。
 赤司君と僕の馬と、彼が贈ろうとしていた服。彼は顎に手を当てて、僕の意見に同調するように考え込んでいました。もしかしたら彼も馬まではいかずとも、何か思ってもみないものを誰かから贈られたことがあるのかもしれません。

「確かに、ああいうものは急に言われても困るよな……なら、夕飯ぐらいはごちそうさせて。それなら形も残らないし、君の迷惑にならないだろう? 俺の方がひとつ上なんだ、ちょっとぐらいはかっこいいとこ見せさせてよ」

 おねがい、と困ったように眉を下げて小首を傾げた彼に、嫌です、なんて言えるはずもなく。

「仕方ないですね、僕が折れてあげましょう。氷室さんが連れて行ってくれるところ、どこもおいしいですし」
「やった。決まりだね。それならきちんと買い物をしなくちゃいけないな」

 店員に財布を見に来た旨を告げて、いくつかの品が広げられるのを待ちます。フロアの奥に引っ込んでしまった店員を待つ間、僕は芽生えた好奇心のままに尋ねてみました。

「ちなみに、今まで氷室さんがもらった中で、扱いに困った物ってなんです?」
「貰ってないけど星かなあ。新しく発見した小惑星に俺の名前をつけるって言われたんだけど、恥ずかしいからやめてくれって断った」

 どうしたって作り話にしか聞こえませんが、これが氷室さんだということを僕は知っていたので、茶化すことなく真面目に返すことにします。

「それはちょっと恥ずかしいですね」
「だろ? 顔から火が出てしまうよ。でも、もし君から贈られていたら、ノーとは言わなかったかも」

 ね、といたずらっぽくウインクを飛ばされます。ここがお店でなかったら、熱のともった顔を隠すために彼にばふっと抱きついていたのかもしれませんが、耐えました。こうして脈絡なく繰り出される甘いことばや仕草の数々に、僕は打ちのめされてばかりいます。彼がするそのすべてがどれも僕の胸を撃ち抜いていくのですから、オーバーキルもいいところです。射撃のように彼は狙ってやっているのでしょうか。もし彼がただの好意からこうした台詞を生み出しているのであれば、それこそ僕は再起不能に陥ってしまうでしょう。

「ぼくはあなたの方がはずかしいです」
「そうだね。夜空を見上げるたびに君のことを考えていたら、いくつも身体が保たないよ。やっぱりあの星は見送って正解だったな」
「もう、だまってください」

 自立するストーブと化していた僕は消え入りそうな声でそれだけを言うと、頭を抱えることのできないこの状況を嘆きました。心の中でいくつもの罵詈雑言を彼に向けましたが、思うたびに胸がいっぱいになってしまって。じわっと目蓋のあたりが熱く滲んでしまいましたが、それでも耐えました。
 ガラスケースの上に並べられたいくつかの財布が、どれもぼやけてしまっています。どれがどの色をしているかぐらいしか、僕にはわかりませんでした。
 彼の方を向けない僕に、彼が語りかけます。

「この中だったらどれがいいと思う?」
「氷室さんのお財布ですよね。僕が選んでいいんですか?」

 声だけはうまいこと、いつも通りに出せたと思います。このまま涙がどうかこぼれ落ちませんように、と僕は必死に願いながらガラスケースの上に置かれた財布を見ていました。
 でも彼は、僕の心中などまったく気に留めもしないで。

「黒子くんが選んでくれたなら、どんなものでも使いこなせる気がする」

 なんて当たり前のように言うのですから、いよいよ僕はひねくれることにしました。

「それは責任が重すぎるので、せめて長財布か折りたたみ式か選んでください」
「えー」
「えー、じゃありません。黒子くんが選んだもの、使いづらくて困っているんだ。なんて泣き言を漏らされたら、困るのはこっちです。あなたが使うんですから、あなたが使いやすいものじゃないと」

 僕はもう財布どころではなくなっていて、これも彼へのいじわるでした。ほんとうは彼と一緒になって、あれこれ話をしながら選びたかった。そうして僕の財布とそっくりなものを勧めて、それを彼に持たせたかった。ペアルック、なんて言葉にしてしまえばこれほど恥ずかしいものもありませんが、叶うことのなかった彼の望み通りにしてみたかったんですね。たとえ彼がそのことをすっかり忘れていたとしても、僕は彼に、僕の持ち物に似たものを携えさせることができる。ひとり、優越に浸ろうと思っていました。
 それを恋愛感情と呼ぶには、いささかどころではない浅ましさがあるでしょう。そうしたことを自覚した上で、僕は彼の財布を選ぼうとしたんです。つい、さっきまで。
 でもいまの僕には、そうした振る舞いをすることができそうにありません。僕がすきな彼にたくさんの愛情でもって接せられている。その幸福だけで息が詰まりそうな程しあわせなんです。それが僕の一方的な解釈でも構いません。ひとは自分の見たいものだけを目に入れて生きていくいきものですから。
 僕は、まっすぐに向かってくる彼の好意に、彼自身に、自分の愚かしさをまざまざと見せつけられました。彼をすきになればなるほど、僕は厭らしい人間になっていきます。どうして僕は、彼のひとさじ分の純心さえ持ち得なかったのでしょう。
 ごめんね。
 物思いに沈む僕の隣で、彼が口を開いたような気がしました。それはいつもの、僕に話しかける快活な調子ではありませんでした。ぽつりとひとりごとのようにちいさく、自分で口に出したことすら後悔するような、そうした気配を漂わせた吐息のようなことばでした。
 でも、確かに彼はそう言ったような気がしたのです。四文字の謝罪の言葉を。僕は眼球の器の中でゆれる涙に構うことなく、彼を伺いました。はずかしい顔を見せてしまいましたが、気にしていられません。

「どうかしました?」
「うん。黒子くんに出会えてよかったって、思ってるとこ」

 彼の声の調子は、全く変わりありません。さっき聞いたと思った言葉が、本当に彼から発せられたのか疑ってしまうほどに、彼はいつもの氷室さんでした。 
 僕は彼に顔を向けたことを後悔しました。でももう遅い。

「……ご託はいいので、形だけ、選んでください」
「うーん、じゃあこっち」
「でしたらこれで。いいですね、後戻りはできませんよ」
「最後の確認までしてくれる君を持って、俺は幸せだね」
「すみません、こちらでお願いします」

 僕が店員に指で示すと、氷室さんは自分の財布からカードを取り出しました。値段をまったく見ないで決めてしまったと、今更のように思い出したのですけれど、止めようもありません。氷室さんからカードを受けとった店員は財布を携え、心得たように奥へと引っ込んでいきました。おそらく、包んでくれているのでしょう。広い店内には、また僕と氷室さんだけになりました。
 店員が背を向けた途端、僕の顔はぼふっと彼の胸のあたりに押しつけられました。氷室さんの両腕が僕の背中をぎゅっと捕まえて離しません。僕は、彼のジャケットに染みを作ったことでしょう。目蓋からどろっとあついものが零れていってしまいました。
 他にもお店の人やお客さんがいるかもしれないのに。でも僕には、彼の腕を振り払うことなどできませんでした。

「ごめん、いじめすぎた」

 どうしていいかわからない。そうした声がぼそっと頭から降ってきて、僕はそれだけで鼻をすすってしまいます。

「自覚があったんですか」
「人並みには。君が馬を持ち出すからついムキになって、今のいままで忘れてた星のことなんて言ってしまった。馬鹿だな、俺」

 どうしてこのひとは、こうなのでしょう。どうしていつだって、僕のことしか考えないのでしょうか。僕は彼が思う以上に浅ましくて愚かしくて、恥ずかしい人間なんです。それなのに、彼は自分が悪いという。自分が悪いと考える。僕は改めて彼という人間の深さに、ただただ立ち尽くしていました。

「……僕がおこっていたのは、それじゃないです」
「じゃあ、なにに?」
「ひみつ、です」

 言えるはずがありません。この気持ちは墓場まで持っていくことでしょう。たとえ彼がいつか僕の元から離れていって、ただの知り合いになったとしても。
 戻ってきた店員が僕らを前に気遣います。僕からは見えませんがきっと、包装の済んだ紙袋を携えてきたのでしょう。僕が役に立ちそうにない唇を開く前に、彼がやんわりと断りを入れます。彼に、広げた手のひらでやさしくぽんぽん、と。窘めるように頭を叩かれながら僕は彼のことばを聞いていました。

「すみません、ちょっといじめてしまって。ずいぶん我儘を聞いてもらったので、その代わりこれから俺が彼に付き合う番です。本の山で引きずられてきます」

 だいじょうぶ、と尋ねられて、僕は彼の身体から離れました。本当はもっと彼にあまえたくて抱きついていたかったのですけれど、誰かが見ている前でいつまでもそんなことができるはずありません。僕は彼の後ろに引っ込みました。でも、また彼に手をつながれてしまったんです。僕はいてもたってもいられませんでした。今度は僕からつなぐ、という約束を彼は破ってしまったんですね。でも今の僕には、彼のその手のひらが温かかった。
 お辞儀をした店員の姿を振り返ることなく店の外に出た僕に、ハンカチが添えられます。うっすらと跡の残った頬や顎のあたりを拭われましたが、僕はされるがままでした。何かをする気力がすっかり失せてしまった僕は、茫洋とした気持ちのまま、ぽつりと息をもらします。

「……もうあのお店、行けませんよ」
「それで入店拒否されたらこっちから願い下げだよ」

 僕の手をしっかりと握りしめる彼は、負け惜しみでもなんでもなく、当たり前のことのようにそう思っているようでした。

「それで、よかったんですか」

 彼の反対の手に引っかかっている紙袋の中身を暗に示すと、彼は背をかがめて、こっそりと耳打ちして。

「どうして俺があれを選んだかわかる? 君がいま身につけている物と同じかたちだからだよ」

 彼のくすぐったそうな、それでいて嬉しそうな声が耳介にぱらぱらと当たって弾けていきました。僕はきっと長生きすることはできないでしょう。彼と過ごした分だけ、二倍も三倍もの速度で心臓が動いて、僕の世界はめまぐるしく色鮮やかに染まっていきます。僕は浮かれていました。風に乗るたんぽぽの綿毛のように、どこまでもどこまでも舞い上がっていたのです。
 僕がぼやけた視界の中で選んだ色は、父から贈られた財布と同じ色をしていました。