短夜のかがひむまとめ

つめつめふくろづめ。つたなくみじかめ。







みつけてなんて言ってない

 もういいかい も言ってないのに、タツヤはときどきどこかに消える。
 始まりはいつも唐突で。こっちが「いい」と言う前に始めてる。鬼は俺。隠れるのはタツヤ。タツヤが隠れるから俺が鬼。
 送りにいった帰りの新幹線のホームで、消えてほしくなかったのにいなくなって。さんざんあちこち探し回ったのにタツヤは俺の胸ポケットにいた。残り物でつくったカレーができあがる寸前にいなくなって、砂糖入れのとなりに座ってたこともある。
 クローゼットの奥。ベランダの手すり。洗濯物かごの隅。夏に冷蔵庫の野菜室に籠もっていたときは、ちぢこまって震えていたくせに平気な顔をした。ろくに洗ってない部活のバッグは入りたくなかったみたいで、ジッパーを閉じたエナメルの上で気持ちよさそうに寝てた。みつけるのが遅くて、待ちくたびれて寝てたと、まだ眠そうな顔でぼやいた。
 タツヤはかくれんぼの名人で思いもしない場所を見つけては隠れた。タツヤとかくれんぼをして遊んだ記憶はほとんどないのに、今になってタツヤはかくれんぼをする。隠れているだけだとしても俺が見つけない限り出てこないから、やっぱりかくれんぼなんだろう。
 タツヤが隠れるから俺が鬼。いつだってそうだし、俺は隠れる気も起きないから。
 でも、もし。俺がなにもいわずにどこかへ隠れたら。タツヤは俺を見つけようとするだろうか。タツヤのことだから出かけていると思って、いつまでも待ってるかも。それは、嫌だ。
 でももし、俺がタツヤのように、何も言わずにどこかへ隠れたら。
 タツヤは俺をみつけてくれるだろうか。 
 俺がタツヤにみつけてもらう日は来るんだろうか。
 俺がかくれんぼを始めることはあるんだろうか。
 隠れるのはタツヤだから俺はみつけてもらわなくてもいいけど、俺が隠れたら、俺が隠れたことを知らないタツヤがどこかに隠れてしまって。そうなったら俺たちふたりとも隠れたままで、どっちも見つからずにじっとちぢこまる。
 それは寂しいから、なるべく俺は隠れないでいようと思う。
 でもいつか俺が隠れたら、タツヤにみつけてほしい。
 タツヤは俺が隠れたってわかるだろうか。

「みつけた」

 タツヤ。

「引き出しに隠れるとはね。古典的だけどいい手だな、探したよ」 
 開いた引き出しから見える四角い向こうで、タツヤが俺を覗き込んでる。引き出しが滑り、底が揺れた。隣には畳んで山のようにまとめた鎖と、まだ通ったままの指輪。楕円の表面は細かな傷がいくつもついて、ところどころ剥げてる。
 押し曲げた膝の皿がきしきし鳴った。俺は外した指輪の隣で体育座りをしていた。頭を下げていたから首がすこし痛む。
「タイガはきっと、タイガなら、俺を見つけてくれると思っていたからあちこちに隠れたけど、いざ見つける側になったらどうしようかと焦ったよ。本当に困ったんだ。そしてわかった。俺を探すタイガの気持ちが」
 タツヤはそう一息にしゃべると、ためらうみたいに口をつぐんで。 
「もう、見つけられないかと思った。すごく、こわかったよ」
 いつもは丁寧に伸びるタツヤの語尾が震えていて、俺はこわくなった。俺はタツヤをそこまで動揺させることをしたのかと。俺は自分が隠れていたことすら知らなくて、考え事をしていただけだったから。いったいいつから俺は隠れていたんだろう。
「ごめん、俺はいつもお前に甘えてる」
 タツヤに甘えられてると思ったことはなかった。何も言わずにどこかへ隠れるのも、俺がみつけるまで待っているのも、タツヤだけだったから。
 謝ることでも詫びることでもない。だってタツヤは俺をちゃんとみつけてくれた。俺が隠れても、タツヤは俺を探してくれたから。忘れずにいてくれたから。

 タツヤは見つけてくれただろ。だからいい。

 溢れ出しそうな感情を留めてるみたいに濡れた瞳がすこし下がった。タツヤが開いた引き出しへ腕を伸ばして手を差し出す。
「ひとやすみしてお茶にしようよ」
 タツヤに見つかったので、俺のかくれんぼはこれでおしまい。隠れる場所を探すのが苦手だし、じっとしてられない俺に隠れるのは向いてない。あちこち探し回る鬼の方が楽だ。慣れてるし。
 自覚のない俺に対しタツヤはタツヤなりに責任を感じたらしく、その日の夕飯はタツヤが作った。エプロンをして台所へ入ろうとする俺をタツヤは何度も止め、仕方ないので先に風呂に入った。かくれんぼは終わったのにあべこべがまだ続いてるみたいで落ち着かなかったけど、タツヤのカレーはおいしかった。俺が作る残り物カレーよりもずっと手が込んでて、タツヤはカレーのためにナンを焼いてラッシーを作った。
 あれからすっかり、タツヤの隠れ癖は減った。隠れても俺が着ているパーカーのフードかポケットにしか入らなくなったので、俺は積極的にパーカーに袖を通してる。隠れ場所がわかってるのに続けるのをかくれんぼっていうのかわからないけど。
 俺が隠れたのはあの一度だけ。うっかりどこかに隠れてもタツヤがちゃんと見つけてくれるってわかったから、隠れようとも思わない。ただもし、また考え事をして隠れてしまったときには、タツヤの胸ポケットに入りたい。
 そうすれば考え事をする前に、タツヤが見つけてくれるから。

タイトルは『サンタナインの街角で』様から
相手を振り回していいのは自分だけだと思っている氷室と、ほんの些細なことで動揺する兄に慣れない火神





おかしのゆびわ

 三度脚を動かせば終わる段差を上がってICカードをかざし、バスの車内を見渡した。この乗り場が始発駅なので席は選び放題。俺は空席ばかりの赤いシートの間を通って、最後列の四人がけの席を目指す。ふかふかとした布張りの赤い座席が並ぶ様は劇場かコンサートホールのように思える。詰めるように窓際に腰掛けて鞄を横のシートに置いた。いつ来てもこの路線は混むことがない。バス停の前で待っていたのは俺ひとりで、出発時間までしばらく停まっていても客が来ることはなかった。
 使い古したシートの赤さばかりが目立つ無人の車内を眺める。壮齢を思わせる運転手の低く聞き取りづらいアナウンスののち、扉が閉まって出発の準備が整った。扉が閉まる際に、ぷしゅう、と鳴る蒸気の吹き出すような音を聞いて、いよいよバスに乗っていることを実感する。
 録音されたノイズの少ないアナウンスが流れ出し、車輪が動き出す。座席から響く振動と共に景色がぎこちなく滑り始めた。俺は窓に顔を向け、薄汚れたガラス越しに見える車外を眺める。窓の外はセロファンを貼ったようにかすかに灰色がかっていた。
 乗り物に乗っていると眠くなるときと目が冴えるときがある。
 今日は後者だ。朝が早かったのに眠気が来ない。睡眠時間が足りなくとも、寝るための時間を用意されても、眠れないことはままある。人間の体は大雑把で繊細で適当だ。
 俺は適当にガラス窓の向こうを見ていた。ぼうっとしていればそのうち眠りが訪れるかもしれない。熟睡しても降りるバス停に差し掛かれば目を覚ます自信があった。いつもそうなのだから今日もそうだろう。
 始まりの停留所から走って、次の停留所へ着くのはあっというまだった。そのバス停に用のある人間はひとりもいなかったので、景色はスピードを緩めることなく過ぎていく。
 気がついたときには停留所が過ぎているといった按配でバスは路線を進んでいた。あまりにも意識にひっかからないせいか、乗客が増えたり減ったりすることが車体の一部のようだった。赤いシートが誰かの頭で埋まっても、車内に掲げた日焼け気味の広告ほど気にならなかった。
 降水確率が限りなく低そうな屋外を人が歩いている。いい天気だった。進行する路線の都合で窓から入ってきた日光はほどほどに強く、肌に熱を覚えた。ストーブとにらめっこをするように頬や横顔が熱い。このまま眠ったらきもちがいいだろうと思った。暖かい日差しを浴びながら車内でうとうとと船を漕ぎ、うたたねを迎えるのは独特の多幸感がある。嫌いな人間は少ないだろう。
 目を細めずに済むまばゆさの中で見慣れた景色が記憶通りに過ぎていく。気を張る必要のない、ややくたびれた感じのする普段使いの町並み。窓の外の景色をとりたてて意識したことはなかった。降りるべき駅に向かう途中で降車ボタンを押したことはない。降車客につられるようにして席を立ったことも。バスは目的地へ着くための移動手段でしかなく、それ以外の意味を見出さなかった。
 寄り道をせずに真っ直ぐ向かっている。
 両親に頼まれたお遣いよりも真っ当に行動していた。
 寄せられた信頼と期待に応えるかのように、俺はベストを尽くしている。
「いい子だね。ぼくの知ってる君じゃないみたい」 
 いつものように一人分の空白を設けた先で後部座席の真ん中に陣取っていた。シートに背をつけず脚をそろえて座り、ぴったりと合わせた膝の上にボールを乗せて俺を見ている。決まって俺の目の届く範囲か同じ席に座りたがった。シートに深く腰掛けて、地面から浮いたつまさきをふらふら揺らすことはない。それは俺がすることじゃなかった。
「行きたくないなら来なきゃいいのに」
 休日は人通りが少ないのか歩道を歩いている人はまばらだ。チェーン店の掲げる限定メニューの紹介もパチンコ屋の賑やかな電光掲示板も景色の一部として通り過ぎていった。もしかして俺は眠っているのかもしれない。目に映るすべてがあまりにもどうでもよくて、記憶に残らない。
 半ズボンに半袖のシャツ。滅多に雨の降らない地域だったから傘を持ち歩く発想がなかった。袖や裾から伸びるやわらかい腕や脚の細さは木の枝のようで、毎日のように辺りを駆け回ったくせに日焼けひとつしなかった肌は赤いシートのせいでいやに白く映る。
 目を隠すほど伸ばした前髪は、第三者にちいさな居心地の悪さをもたらす。一房つまんで鋏でばちりと切ってやりたくなるくらいには気になった。示し合わせたわけでもないのにどちらもあの頃と変わらない髪型を続けて、そのせいですぐに誰が誰だかわかってしまった。
「ねえ、そんなにこれが大事? 君は今年でいくつになった? ぼくらはぼくらの弟に甘すぎるよ」
 首にかけた鎖をつまんで、その先にあるものを見せびらかすように示してくる。胸元に下げた大きな指輪。子供の小遣いで買える銀の光沢はぴかぴかと安っぽい。俺の顔を照らす日差しはシートの真ん中まで届いていなかった。外は明るく、街路樹の葉は青々しく茂っている。アスファルトで舗装された歩道は埃っぽいだろうなと思った。
「君はかわいそうだね」
 うるせえ。口に出さずに毒づいて、窓枠に肘をおいて頬杖をついた。窓の外は変わらず平和だ。外を歩いている人間には信号に合わせて走る車内こそが平和に見えるのかもしれないが。
 過去に哀れまれる生き方をした覚えはない。選択も行動も俺の意思によるものだ。その結果を後悔するのは筋が違う。それでもこうして過去を美化するように現状へ疑問をぶつけるのは、心のどこかで今を不服と感じているからだろうか。
 そうだとしても今日の説教は的を外していた。しばらく前から俺の指輪はクローゼットの中だ。 
 眠気を誘う型に嵌まったアナウンスで降車ボタンに手を伸ばす。あいかわらず降りるのは俺だけで、人気のなさが心地よかった。平日は人の入りがあるのだろうか。この路線が廃止されては遠回りをしてごみごみした電車に乗らなくてはならないので困る。運賃もバスより高い。
 バスを降りるために席を立ってから、離れた座席を振り返る。最後尾に用意された赤い一列には誰も座っていなかった。
 午後に向けて暑くなる暦通りの陽気を歩く。時折前髪をさらう風は寒すぎず、爽やかですらあった。表通りのコンビニを右に曲がって、二車線もない通りに入る。初めて来たわけでもないのに東京のアスファルトはいくら踏んでも歩いている気がしない。迷路みたいだ。出口はそこら中にあるが、俺は正しい進行方向にのみ進んだ。
 足音がやけに響く廊下の端で止まり、インターフォンのボタンを押す。エントランスのオートロックはちょうど外出する住人が開けてくれたのでそのまま入った。二度チャイムを鳴らさなくとも奴には一度で足りるだろう。
 スピーカーで応じる間もなく部屋の鍵が開く。
「タツヤ!」
 上気し喜色をいっぱいに浮かべた背の高い弟が飛び出してくる。俺はいつものように頬をすこし上げ、落ち度のない表情を見せた。
「道が混んでいて遅くなった。変わりはないか?」
 そうして部屋の敷居をまたぐ。ドアを閉めて鍵をかけて、俺の旅はここで終わりだ。

タイトルは『サンタナインの街角で』様から
あのころのぼくは君の全能の象徴
悪魔的誘惑美少年ショタツヤは最強だと思っています





なにもないから泣きたくなるの

 弟の体温が心地よかった。熱い肌に囲われて潰されて、氷室を何も考えられなくさせる弟の身体がすきだった。
 脚の間に跨って向かい合って腰かけて、隙間をなくしてしまうように抱きしめられるとうまく呼吸ができない。十分な酸素が脳に行き渡らないせいか、だらだらと汗ばかり流している。迎えた下から一定のリズムで揺すぶられると、そのとおりに声が漏れた。
「んっ、あ、はあっ、はあ、あっ、う」
 しがみつくように火神の頭を掻き抱いて離さない。広げた指のひとつひとつで濡れた髪の硬さを確かめる。腹の中でつながっているのに、まだ足りない。重ねた皮膚の端からくっついてしまうように、目の前の男が欲しい。うまく息ができないのは下から突き上げられているからだろうか、それともしがみつく弟の身体が熱いせいだろうか。
 下からとけて、上からくずれる。身体中、末端まで使い物にならなくなりたい。
「なんか、あった?」
「なにも、ないよ」
 要領を得ない短い問いかけが氷室にはひどく堪えた。
 いつもどおりのやりかたで身体を重ねているだけなのに、弟は妙なところで感がいい。火神の勘は歳を取るごとに冴えていくから、嫌だ。昔は氷室が地団太を踏むほど鈍かったのに。
 氷室よりも平生を保つ呼吸の合間。火神の声は興ざめするほどまともで、自棄を起こしたくなった。
 左耳と右耳がこすれるほど顔を寄せ、互いのかいた汗で肌を濡らして限りなく隣り合っているのに。互いにわかりあうことができない。
「明日、なにもないよな」
 火神は動きを止めて、氷室の背を確かめるように抱いた。明日の予定を聞いただけだ。あからさまなまずいことは言っていない。うなじから声が聞こえた。
「おう」
「今日は、めちゃくちゃにしてくれないか。すきにしていい」
 思いやりを込めて、身体から引き剥がされる。こちらを気遣う力の加減に、氷室は訳もなく腹立たしくなる。
 向かい合って、目と目が合う。氷室に目を逸らせまいと至近距離で強いる紅の双眸は、欲に濡れておきながら芯まで熱に溺れていない。氷室の態度ひとつで行為を取りやめてしまえる一握りの理性と自我を、よりによってこの男は保っていた。
 顔を合わせれば決まって、互いに真意を探っている気がする。
 別の中学に進学し、偶然とも必然とも思えるあの場所で再会してから、こんなことばかりだ。
 何も考えずに、意思の疎通を確かめるためだけに見つめあえたらいいのに。
 いっそ、互いに見惚れることができればどれほど幸せか。もしもを夢見て現状から目を背けるには、この弟はいささか大人になりすぎた。
「すきにって、たとえば?」
「お前がくたびれるまで、好きに使っていい。何をしたっていいんだ」
「物みたいに言うなよ」
「そうだね」
 押し潰されるように抱きしめられ、されるがまま肩口に顔を埋めた。小包を飾るリボンのように抱かれて胸がくるしいのに、火神は氷室に己の存在を伝えるかのごとく力を緩めない。 
 いよいよ面倒なことになったと、氷室は目を瞑った。焦げを噛む苦さに辟易する。どうしてこの男はいちいち物事を大きくするのだろう。氷室の言葉を額面通りに受け取って、喜んでみせればいいものを。
 取り繕えていたものがねじれて、見ないふりをしていた疲れとまともに向き合うことになる。氷室は聞き分けのよくない弟にうんざりした。そのくせ、火神の腕の中から出ていこうとしない自分には気づかないふりをした。
「……タツヤは大事にされればされるほど自分が嫌になるし、俺に気遣われんのが一番堪えるんだろ。だけど俺は、タツヤをぐちゃぐちゃにする手伝いはしたくない。あのさ、俺、これでもアンタのこと好きなんだけど」
 まるで氷室の重荷を背負い込むような口調だった。自分にはそれができるのだと信じ切っている弟が氷室には重かった。
 昔のように視野が狭ければ、与えられた玩具を素直に喜ぶ鈍さが残っていれば、余計なことを考えずに済んだのに。
 今日はボールを置いて、何もかもを放って、眠ってしまうまで火神を手にしていたかった。
 ただ身体をつなげていたい。疲れ果ててしまって、何も考えられなくなりたい。好きだからこそ時に憎悪を掻き立てるあの競技ではそれができないから、火神を選んだはずだった。
 目の前から逃げたかった。そのための手段、だったのに。
「言い方を変える。キスしてくれないか。お前にあまやかされたい。今日は一日、タイガがほしい」
 力を抜いて火神の首筋に顔を寄せた。心から火神が欲しかったのだと伝えるために。汗ばんだ前髪は容易く弟の肌に張り付いて、氷室は火神の汗の塩辛さを味わう。プライドをねじ曲げて腸が煮えくりかえる思いで、弟がその気になる台詞をそらんじた。
 好きにしていいと言っているのに、強情な男だ。性欲処理の相手を目の前にして、どうしてつまらないことを考えるのだろう。
 いまは、今だけは、火神と火神に与えられるものしか考えたくない。いまなら、火神の望みを何でも叶えてやれそうだった。
 何をしてもいいのに。どのようなことを強いても、氷室は喜んで付き合うだろう。
 はやくその首を縦に振り、欲望の滲んだ声で氷室の名を呼べばいい。はやく、はやく。
 弟に手酷く、扱われたかった。自分が氷室辰也であることを、一時でも忘れてしまいたかった。
 そうでもしないと、やっていられない。
 氷室はわざと体重をあらぬ方向にかけ、火神ごとベッドに転がった。背中からシーツに倒れ、つながったままの火神に組み敷かれる姿で横になる。身体をつなげる相手から寄せられた甘えにはいささか無理のあるやり方に、火神が怒気を滲ませている。
「タツヤ」
 伸ばした手を無碍に払われたからではなく、真剣に氷室を案じているからこそ弟が腹を立てているのだとわかった。わかっているからこそ、氷室はますますこの男が嫌になる。
 良いものは良い、悪いものは悪い。単純明快に、見知らぬ他人でも飴玉を差し出されれば喜んで手に取った弟に人並みの機微を与えたのは、おそらく氷室なのだろう。それが今の氷室をくたびれさせる。 
 火神のままごとに付き合っていられなかった。仲良しごっこも恋人ごっこもうんざりだ。
 俺ひとりくらいどうなってもいいじゃないか。お前には関係のないことなんだ。
 だから。 
「俺たち、しあわせになろう」
 ひとり苛立つ火神に向けて、心から笑ってみせた。皮肉と捉えられたかもしれないそれは、やけっぱちな氷室の本心でもあった。
 俺がにこにこ笑っていれば、お前の気が済むんだろ。
 それならいくらでも、お前の望む俺を見せてやる。
 膨れあがったありったけの憎悪の裏返し。
 
 氷室を囲っていた腕が離れて、思い切り振り下ろされる。
 そこで思い出したように気がついた。


 なんだ、これならただのやつあたりだ。


 差し出されたカップのアイスは弟の熱でとけていて、スプーンがすんなり入る。匙に乗せた安価なバニラのアイスクリームは氷室の舌の上でゆっくりと溶けていった。
 くちのなかがつめたい。くわえた銀の匙に熱が伝わる。
「あんなこと言うなよ」
 風呂上りの頭にタオルをかけた火神が、下穿きだけで立っている。手には氷室と同じようにカップと銀のスプーンがある。
 ベッドに腰掛けた氷室には慣れた弟の身体がよく見えた。濡れた紅と黒の髪がまざって、それだけで馴染みのない誰かを前にした気分になる。髪型ひとつ変えただけで火神に落ち着かなくなるのは氷室だけだろうか。つんと立てた短髪を何年も眺めてきたから、氷室にはそれ以外の火神の姿が想像できないのかもしれない。
 弟の、火神のことを何もかも知っている気がしたのに、ときどきこうして、何もわかっていないのではないかと自問する。
 答えはいつも出ない。軽く、あえて力を入れずに振り上げられた掌の重みを思い出す。数分もしないうちに頭部の痛みは消えたのに、心を抉られたような拭いがたい喪失があった。弟に手を挙げられるのはこれが初めてだったと、シーツにしがみついて喘ぎながら思い至った。
 望みどおり何も考えられなくなるまで揺すぶられて、くたびれた身体を湯に浸けられ、抱え込んだ不和も苛立ちも霧散した。それだのに我儘な自意識は、贅沢にも加害者意識を抱えて勝手に塞いでいる。
 弟をまともに見ていられなかったが、引き寄せられるように彼の肢体を視界に入れた。胸のあたりと、右の腰に残した吸い跡が絵の具で色付けたように鮮やかだった。身にまとった布で隠れている腿の付け根には、占有欲ゆえの吸い跡が消えないでいることだろう。左肩には衝動ゆえに手加減をせずに残した歯形が血を滲ませてくっきりと浮いている。背中には何を残しただろう。
 えぐれた平面をすくって、スプーンごと咥える。
 口のなかに残るつめたい乳製品の甘さを味わいながら弟を見ていると、性欲と食欲がまざって取り返しのつかないことになるような気がする。身体が求める素直な欲求に忠実な弟は、氷室のように欲望を間違えないだろうか。
「タツヤは俺だからああやって言うのわかるし、俺にしか言わないのもわかってる。俺にできることなら何でもしたいし。でも、なんつうか……ああいうのは俺、嫌だ」
 苦虫をかみつぶしたように、まるで自分が悪さを仕出かしたように顔を歪められ、氷室は逃げるように唾を呑む。火神の浮かべる表情だけで弟の傷ついた様が理解できた。
 氷室で傷つけられた火神は氷室でしか傷を癒せないのだろう。互いに代わりがきかないので、やりかたを間違えると簡単に傷がつく。氷室もまたきっと、火神につけられた傷は火神でしか埋められないのだ。いくら他のものを宛がおうとも、時が記憶ごと風化させるまで抱え続ける。
 面倒な関係を築いた。それでも、互いに寄りかかって甘えるのは心地よく、歳月が生んだ共通の慣れ合いを捨て去るのは惜しい。火神と付き合いを断てば、また初めから見知らぬ誰かと関係を築かなくてはならないのだから。それに氷室は火神以外に自分勝手で横暴な自分を見せたくない。
 火神は氷室を求めている。他のものに目が向かなくなるくらいには。
「ごめん、自分のことばかり考えてた。タイガと一緒じゃなきゃできないのにな」
 火神の表情は変わらない。まっすぐに氷室に向かい合っている。
 もてあましたスプーンの柄の形が手のひらでわかった。匙は氷室の体温でぬるくなっている。
「悪かった」
 苦いものを吐きだすような気分で、ようやく口に出せる。火神が氷室の前でしゃがんだ。
「あれが一番楽になれるっていうならしょうがねえけど、他にもできることあるだろ。明日、空港まで送ってく。今度会うときまで、したいこと考えといて。とーきょーかんこー、付き合うぜ」
 下から屈託なく見上げられて、心が疼いた。わけもなく唾があふれて、舌が落ち着かない。
「くう? いちご。うわ、やべー溶けてる」
 かたちを崩しはじめた表面を大きくえぐって、氷室の口元に嬉々として突きだす。毎秒ごとに液体へ戻ろうとするかけらに首を伸ばし、口をあけて、弟の差し出すものを迎えた。うすいピンクの液体で冷やされたスプーンの底はつめたい。
 舌で拭って、唾液を残して匙から口を引いた。タイミングを心得た火神が上顎にも歯にもあてることなくスプーンを引き抜く。
 ストロベリーチョコレートのようなわざとらしい苺の味が甘い。香料としてのいちご味の匂いで満たされる。
 イチゴ味のアイスクリームは好きではないが、火神に食べさせられるのならばすきもきらいもなかった。
「そっちいっていい?」
 ベッドを示され、火神が座るスペースが十分に開いているのに横にずれた。火神の体重でベッドが揺れる。隣にあるむきだしの体温が好ましい。 
 氷室は白い容器の中身をえぐりはじめた。膝に置いていたせいか火神の手にしていたものよりも溶けていて、手ごたえなしに掬える。口に含んですぐに唾液に混じるアイスクリームの味を思った。氷室はいちごよりもバニラがいい。余計なものがなくて、へんに甘ったるくない。チョコレートソースもナッツもウエハースも喜んで口に運ぶが、主役のアイスクリームは素っ気ないくらいがよかった。
 湯上りの足の甲にひえた足裏をなでつける。足の指や土踏まずで火神の足にすり寄っていれば、戯れるように親指と人差し指でつままれた。
「また、かわいがってくれるか」
 こうして肌に触れるだけでいい。弟にあまえていたい。
「無理させねーからな」
 重ねるだけのキスをする。アイスクリームを食むくちびるはどちらも冷えていたが、氷室にはそれが嬉しかった。

火神だけはいつまでもあの頃のままだと思い込んでいる氷室






※三日前にお泊まりしました

 桜の盛りも過ぎた若々しい緑のまばゆい頃。陽は高く、抜けるような青空にちぎった綿を思わせる白い雲が流れている。初夏の行楽日和、日差しの眩しいコートに着いた火神は顔なじみの面々が集うなかに黒子を見つけた。桃井に抱き着かれた後なのか、ひとりだ。
「よう!」
「おはようございます、火神君。気合十分ですね」
「おう、絶好のストバス日和だからな。今度こそお前と青峰に勝ってやるぜ」
「僕も火神君とするのが楽しみです。全力で行きましょう」
 いつものようにリストバンドを通した拳へ、堅くむすんだ拳を重ねた。まなざしを交わして、決意と喜びに口元をほころばせる。挨拶をすませた火神はひとまず黒子と別れ、コートのあちこちにたむろする知り合いのなかから氷室を探そうとした。あたりを見回しながら歩いて、お目当ての姿を見つける。
 七分丈のシャツを軽やかに着こなした兄は、菓子をぱくつく紫原と話をしている。火神は氷室への堪えきれない熱意を迸るように片手を上げた。
「タツヤ!」
「タイガ。ひさしぶりだな。元気にしていたか?」
「おう。タツヤも変わりなさそうだ。今日はあいつらもいることだし、ガンガンいくぜ!」
「タイガ、今日のラッキーアイテムを教えてあげよう」
 紅潮した頬をあげ、屈託なく懐く火神にそう前置きすると、氷室は目の前の肢体を抱きしめた。背中に回した氷室の手で火神のシャツに深い皺ができている。黒地に色の薄い氷室の手はよく映えて、遠くでも目立った。
 目のやり場に困る傍観者をよそに、氷室は肩口で答えを知らせる。
「俺、だよ」
 今度は火神が氷室を抱く番だった。ふたりは愉快なほど堅く抱き合ったのち互いの身体から顔を離し、見つめ合う。彼らに言葉はいらなかった。もぐまえの果実を労るようにそっと、火神の手が氷室の頬を愛でる。露わになった灰青の瞳が応じるようにまたたいた。
 たまたま近くにいた降旗の腕から、逃げるように二号が飛び降りていった。紫原の手の内でチップスを積んだ筒状の容器が音を立ててへこむ。
「タツヤのラッキーアイテムは俺、だな」
「わかっているじゃないかタイガ。ゲームが楽しみだ」
 彼らにとっては拳を重ねることと同列のやりとりなのだろう。顔を合わせば行う軽い挨拶。ゲーム前の、士気の高揚を促すボディタッチと同じだ。ゆっくりと数歩後ずさり、彼らに巻き込まれない範囲まで遠ざかった紫原が誰に聞かせるでもなくぼやく。うっかり彼らを視界に入れていた青峰は紫原に同情した。
「あーあれ? あーいつものことだし。つーかいつものことだし。マジいつものことだし」
「お前んとこやべーな。感動するわ」
 紫原の長い指は筒からチップスをつまもうとするも、へこんでしまったせいでうまく届かず苛立ちを咀嚼に回せない。檻に入った動物を眺める気持ちになれる程度にまで、離れた位置で一部始終を見ていた高尾は茶化しようのない景色に苦笑した。駆けてしまった二号を追いかけられずにいる降旗の眉は下がったままだ。
「あー氷室さんのラッキーアイテムってことは、俺も火神ってこと?」
「はは……火神かあ……火神、かあ……」
「正しくは単三乾電池四本入りなのだよ。獅子座は水上バスの時刻表だ」
 眼鏡のブリッジを指で直しながら緑間が律儀に訂正を加える。その緑間の傍らには黄色のポリバケツが佇んでいた。ほかの星座のアイテムを聞くに、どうもあの占いは蟹座にのみ試練を与えているようだ。
 緑間が正しいアイテムを参照したところで、ふたりには聞こえていない。周囲が戦意を喪失したという点で、彼らの指すそれは確かにふたり限定のラッキーアイテムと言えるのかもしれなかった。
 ふたつ揃えば運勢も二倍アップなのだろうかと思いながら、降旗は二号の行方を探しに彼らから背を向けた。

自分たちがいちゃついている自覚すら持たないブラザー
しゅういの しょうきが いっせいに さがった !








ああ甘酸っぱい

 氷室は音を立てて作動するエアコンを訳もなく注視していた。時間の経過につれて変化するモニターや景色を前にしたかのように。
 天井近くの壁に取り付けられた横長の白地の機械は、設定温度に則り温暖な風を吐き出し続けている。
 都会も都会、都内二十三区の一角にそびえるマンションの一室に取り付けられているものであるから、もちろん寒冷地用ではない。関東一帯もしくは関東以南の環境を整備できるであろう暖冷房器具は、暮れの部屋をそこそこに暖めていた。
 寝転がった氷室は靴下を忘れた足を床に敷いた毛布にすりつける。器具の表面に浮かぶ、作動中を示す緑色の明かりを凝視した。室内は設定温度のどのあたりまで達成したのだろう。この部屋に温湿度計はない。
 身震いを起こすほどではないがエアコンだけの暖房では十二月の夜はこころもとない。氷室は身体に掛ける毛布を欲していた。しかしなんとなく動くのが面倒で、エアコンが吐き出す薄布のような暖かさに身を任せている。氷室のとなりに寝転ぶむきだしの親指の持ち主、いわば弟はこの環境が普通なので寒さを感じることはないのだろう。彼の爪はすこし伸びていて、靴下を穿けば穴が開くかもしれない。氷室はなぜか右足の親指の先ばかり穴が開いた。たまにかかともすり減って開くことがある。このごろは氷室が裁縫道具を開く前に火神が塞いでしまうので助かっている。まったく穴をふさぐことに長けた弟である。
 板張りの床は毛布を通して身体から熱を奪っている。大判の毛布を敷布がわりに二枚敷いてあべこべに寝転がるこの部屋の主に、氷室はぼんやりと口を開いた。いまだ目はエアコンに向いている。
「東京って寒いんだな。もっと暖かいと思ってた」
「タツヤんとこほどじゃねーだろ。それともロサンゼルスと同じに考えてた?」
 弟は眠っていなかったようで、すぐにはっきりした返事がつまさきから聞こえた。仰向けに転がった氷室はなんとなしにエアコンを眺めているが、火神はどうしているのだろうか。氷室は足の指をわけもなく曲げたり伸ばしたりした。
「気温じゃないさ、部屋の話だよ。エアコンしかないなんて。クリスマスを過ごすためにストーブを買うべきだ。不経済だよ」
「俺はつかったことねーけど関東にはトクベツな暖房器具があるぜ」
「へえ、なんだい?」
「緑間いわくのラクダの家具。こ・た・つ」
「ああ、あれかあ。……らくだじゃなくて堕落じゃないか?」
「んなこと言ってたかも」
 弟は氷室の訂正をどうでもよさそうに流す。弟のケアレスミスが多いのはいつものことなので放った。関心を向けるべきは修飾語ではなく掛かる単語とそれを示す器具だ。氷室は火神の示す道具に良い思い出を持っていない。氷室は声のトーンを落として語った。
「炬燵はだめだ。あれは座ってばかりで動かなくなる。何より腰から下が蒸れて下着が張りつくんだ……。服の上から下着が濡れる気持ち悪さはあれ以外で味わえないよ、まるでサウナだ。着衣式のね」
「タツヤ使ったことあるんだ」
「おばあちゃんの家にあったんだ。こっちに戻ってきてから行ってないな」
「こたつ買ってみっかな」
「やめてくれよ。広いリビングが台無しだ。予言しよう、お前は絶対にこたつから出なくなる。そして今以上に誠凛の溜まり場になるだろう。終電が過ぎても絶対に帰らないぞ」
「そのお泊まりフラグはタツヤにも有効だよな」
 足の裏に息を吹きかけられ、氷室は片方のつまさきでむず痒いそこを擦った。九割方事実になる脅しの返答に歯の浮くような台詞を用意する弟なので、氷室も親切心で乗じてやった。視線の先は無口なエアコンから目の前の饒舌な親指に移っている。
「新幹線のチケットは高いんだ。楽々フラグをへし折れる」
「今度さーそっち行ってい?」
「二月? 一月?」
「アフターハッピーニューイヤーな一月のどっか」
「いいけど寒いぞ。雪もある。もしかしたら知り合いに見つかるおまけもついてくる」
「おまけとティッシュはいっぱいあった方がいいじゃん。必需品だろ」
「宿と旅券とお気に入りのバッシュを用意しておけ。予定を空けといてやる。体育館の鍵も」
「サンキューサンタクロース。あいらぶゆーとぅうーまっち」
「手土産はバナナがいいな」
「とうきょう?」
 わざわざ品名を出して尋ねるので、どちらも欲しい氷室はくちびるを緩ませ含みを持たせた。相手は都民で、その前に氷室の弟だ。
「わざわざ言う必要が?」
「リボンかけて箱で持ってく、です」
「ぴったりのラテックスを準備しておくよ、ギフトボックスで」
 すこし爪の伸びた親指にふーっと息を吹きかける。くわえてやろうかと思ったが、それは寝る前のお楽しみに取っておこう。火神が寝返りを打ち、素足が目の前に迫った。
「なー」
「うん?」
「こーゆー話俺以外とできねえだろ」
「お前以外の誰とするんだ」
 氷室は声を出さず笑いながら、鼻先に突きつけられたむきだしのくるぶしを噛む。「いてえ」と叫ぶも腹を揺らして火神は逃げない。前歯のかたちにへこんだ肌を前に氷室は念を押した。
「セールスに布団を押し売られても炬燵は買うなよ。気軽に足が噛めなくなる」

タイトルは『サンタナインの街角で』様から
定期的にブラザーにこういう会話をさせたくなる








肋骨ぎしぎし

 初めてのウインターカップが終わったその年、暮れと正月を弟の部屋で過ごしてから、懐かしいあの関係に戻ることにそう時間はかからなかった。
 昔の、弟が西海岸を離れてしまうまで頻繁にくりかえした、ふたりだけの関係。誰に教わるでもない、手探りでかたちづくった、ふたりの秘密。
「……っ。……ん、ん……」
 胸元に垂らした指輪が重い。癖で行き場のない片腕を口元に当てていれば、漏れた声が自然とくぐもる。
 跨がった厚い腹に手を添え、ぴんと背を伸ばす。すると火神が深くまで届いて、氷室は浮かれたように汗を流した。火神のかたちを内側で強く感じるたびに、後頭部の奥のあたりが弾けたようにとける。あくまで肉体は働きかけるための器官であり、快楽物質は脳から分泌されるのだと実感する。
 眠るときと風呂に入るときと、それからユニフォームを着てコートに足を踏み入れるとき。それ以外は外さない鎖とその先に下げたものが、こんなときにだけ重く感じる。何も身につけていないからだろうか。
 弟の上で兎のように跳ねていないのに。弟から促されていないのに。揺れることのない指輪がただ重い。首から物を下げているのだと思い出させるそれは行為を中断させるほどではないが、氷室に考える余地を残し続けた。
 唇を当てているために手の甲が湿って熱を持った。長く触れあっているために唇も手の甲も己の身体の一部に思えなくなってくる。肉体は貪欲にそのさきを求めているのに意識はこうして端々に飛び、不思議なことだと思った。どれほどひとつの行為に熱中していても、氷室が完全に没入することはないのかもしれない。
 弟はどうだろうか。氷室が彼の一部を咥えて跨がったこの男がこの瞬間何を考えているのか、尋ねてみたいような。答えを聞きたくないような。
 いつも、核心のちかくを歩き回っている。弟にはなおさら、ひとりで勝手に幻滅したくなかった。昔から氷室は、火神に弱い。
 行為に、内側にしまいこんだ弟に集中するために閉じていた目を開ける。あまい痺れが溜まった下腹の先で、氷室の屹立は濡れてそそり立っていた。弟を横たえて、すきなものをすきなだけ貪っていた結果がこうして形を持っている。その先にはこちらを見上げる弟のまなざし。誠実と親愛と、行為に見合う欲に濡れた深紅の双眸。
「タツヤ」
 弟に見られ、名を呼ばれると、氷室の中で捨て鉢な気持ちがふくらむ。それが照れ隠しなのかはわからない。己にありったけの信頼を寄せる弟に、できるかぎりの痴態を見せてやりたくなるのだ。ここまでできるのだと、お前のためならば何だってしてやれるのだと、この身で証明したくなる。弟が氷室に幻滅することはない。そうだとわかっているから、なおのこと。
 まるで飼い犬のようだ。主人に褒められたくて尾を振って行動する犬。性衝動の外ではまるっきり立場が逆なのに。
 弟に尽くす氷室は弟だけが知ればいい。他の人間に知らせるつもりはない。
 氷室は抜くことを知らないかのように、火神の眼前で腰を動かした。弟の下腹で潰れた白い尻を揺らしながら、粘液の擦れる音を伴って、内側で屹立をこねくる。まだ指輪は跳ねていない。もっとひどい音を立てて尻たぶを揺らすのはまだ、先。
 氷室の全身を眺める弟を意識しながら身体を動かしていると、とろとろと唾液が満ちて。吸ってくれる唇が遠いので、ひとりで喉を動かす。手の甲はもう唇から離れていた。
 弟を銜え込んだ内側が熱い。自ら棘に刺されるように身体を押しつけ、ぐりぐりと力を込めて奥へ奥へと。氷室が動くたびに繋がったそこから濡れた音が響いた。ひかえめな小さなそれは、氷室の荒い呼吸が満ちた部屋でよく通った。
 達したくてはちきれそうな己の屹立が根元から脈打つ。氷室は足の指をきゅっきゅっと開いては閉じて、衝動を抑えた。終わりにしてしまうには、まだ早い。
 シーツに落ちていた火神の指が氷室の屹立に伸びて。氷室はひくんと身を竦ませた。
「んっ……あ」
 敏感な先端や裏筋には触れずに、根元や茎をゆるゆると愛でて、氷室の行為を後押ししている。無理矢理終わりに導く乱暴な所作から遠い愛撫に、氷室の背は震えた。首にかけた鎖が揺れてちいさく鳴る。
 外からも内からも触れられて、保っていた自我がくずれてしまいそうだった。唇を開いて火神にかけた言葉は氷室も予想しないほど幼く、舌足らずなもので。氷室は自分の声を聞きながら、それしか出せない己に煽られた。
 とても、誰かに聞かせられない。目の前が欲で霞む。
「たいがぁ。……すき」
「俺も。タツヤ、いいのか?」
 弟の問いかけに、氷室は大げさなほどこくんこくんと頷いた。左に垂らした前髪がばらばらと散る。今だけ己が別の人間になったかのようで、何だってできてしまえる気がした。自ら課した兄の矜持を忘れ、同性であることも浅ましい欲望も肯定できる。
 欲望とは別の感情で潤みだした目頭の熱さを感じながら、氷室は己の腹を示した。臍よりも上を、汗で濡れた手で縋るように。
「たいがのが、俺の、このへんまで、きてる。俺が、たいがでいっぱいになってるのが、すごく、しあわせで。……ごめんおれ、なにいってるかわからないや」
「おかしくねえよ。俺できもちよくなってくれて、すげえ嬉しい。ありがとう、タツヤ」
 弟の広い手のひらが氷室の頬に触れる。氷室と同じように汗で湿った、あの競技のための厚い皮膚を感じて、迎え入れている内側がひとりでに閉じた。
 彼をコートに誘ってから何年が過ぎただろう。
 ひとりよがりの感情をぶつけて、彼との絆を否定して。彼が消えてできた空白をいつも隣で感じながら、もう二度と会うことはないだろうと思っていた。
 それがまたこうして、すぐ近くにいる。氷室の手の届くところに彼がある。
 兄だとかどちらの力量が上だとかもうどうでもよかったけれど、それでも彼は自身を弟として氷室を迎えてくれる。
 こうして身体をつなげることに幸福を感じるのは、その相手が火神だから。
 弟が氷室を迎えてくれるから、身体を重ねることに意味を持つ。
 火神に手を添えられたまま、氷室はぶんぶんと首を横に振った。日頃こだわりを持つ前髪が散らばろうが、指輪が重かろうが構いやしなかった。弟の手が散った前髪を左に寄せようと氷室の額をなでる。氷室はもう少しだけ、前髪の影で隠れていたかった。
「礼を言われることしてないよ。おれは、たいがとこうやって……。ずっとこうしていたい……」
「好きなだけしていいぜ。タツヤがしたいだけ、俺もしてえ」
「たいがあ……」
 感情のまま弟に抱きついた。中にしまいこんだものが深く氷室をえぐろうと気にならない。初めからそうするつもりで唇を探し当て、己のそれと重ねた。氷室が贈った指輪が、己の胸元に当たっている。
 すぐに開いた唇の先で舌を絡ませ合うのがひどく、いい。互いに渇きを潤すように弄って求め合って。
 舌を動かすたびに、舌で弟に触れるたびに、頭がちかちかと瞬く気がする。下で弟を咥えこんでいたときよりも濡れた音が響いて、それで鼓膜が塞がれる。氷室のふくれた欲望が弟の腹とこすれて、腰から頭にかけてとけるような喜びが駆ける。もう、抑えが効かなかった。
「たいが。うごいて……」
 引きはがすように遠ざけた唇で涙ながらに訴える。氷室は自分から腰を動かしたくてたまらなかった。はやく、すべてを真っ白にするあれで、氷室を満たしてほしい。弟が荒い呼吸の間に、気遣わしげに念を押す。
「いいのか? 俺まだいけるけど」
「がまんできなくなった。っ……だから」
「わかった。じゃあ動くな」
 額にくちづけを落とされながら、尻をぐにゅっと掴まれたことを感触で知る。氷室は火神に覆い被さりながら、深く、貫かれはじめた。深い抽出の合間に曲げた脚を自分から広げて、より奥まで弟を招き入れる。鷲掴みにされた尻の肉で感じる痛みが快楽に拍車をかけた。
「あっ、あぁあ、たいが、いっ、すきぃ」
「タツヤっ……」
「んーっ、はっ、あっ、たいがぁ」
 出来上がっていた粘膜を待ち望んだかたちで擦られ、穿たれ。膨れていた欲が声となって部屋に響く。乱れた呼吸で切なく己の名を呼ぶ弟の声が氷室には何よりの褒美で。
 閉じきれない唇の間から垂らした涎を手の甲でぬぐい、自ら上体をあげてふたたび弟の腹に跨がる。火神は氷室の望むままに律動を止めた。それでも尻から手を離すことはない。
 氷室は熱でくらくらと酩酊する頭で、ふたたび弟を見下ろした。
 欲で紅潮させた頬でのたまう。
「こっち、の、ほう、が、いっぱい、きて、いい」
 そうして促すように自分から腰を動かした。上げて下ろすそれは弟からの律動を求めるサイン以外の何物でもない。
 薄紅に染まった氷室の胸元で銀の指輪が跳ねる。氷室は横たわる弟の指輪に人差し指の先を通すと、爪で肌をひっかいた。薄皮をこするだけの戯れ。生じる痛みは弟を焚き付けるための手段。
 飽きるまで、こちらが疲れ果ててしまうまで、思うさま跳ねさせて。
 貞淑など、氷室には似合わない。






「っていう夢を見たんですよ死にたくなりました死んでいいですか」
 話にオチをつけると、黒子は空になったカップの底でシェイクを吸い上げ続けた。なにもシェイクを飲みたくてストローから口を離さないのではない。夢の中で味わわされた不快を音として表現するために、ずぶぶずぶずずーとやかましくこの場の空気を震わせているのだ。それとは別にシェイクのおかわりは欲しいと思っているし、自殺をするなら古典的に桜の枝に縄を括って首吊りがいいと思っている。もちろん満開の桜の木の下で。
 向かいの席に腰掛けられたと思えばまったく身に覚えのない話を聞かされ、真顔でずぶずぶとカップの中身を吸い上げながら目を皿のようにして非難されれば誰だってすこしはたじろぐものだが、意に介さないふたつの指輪、ならぬふたりがここに。朝早くからストリートのコートで汗を流し、慣れたファーストフード店で腹ごしらえをしていた火神と氷室は黒子の妬みをあっさりといなした。否、黒子の悪夢を惚気の材料として俎上に乗せる。彼らに自分たちが惚気ているという自覚はこれっぽっちもない。ないからこそ、バーガー片手に自分たちが主役の詳細なベッドシーンを聞いていられるのだ。
 火神はふくらんだ片頬を揺らしながら、バーガーの包みをはがした。大きなひとくちをかじった拍子に、ケチャップがちょこんと鼻の頭についている。
「すげーな。俺らお前の夢まで出張すんのか。愛されてんな、タツヤ」
「いいなあそれ。帰ったらしようかタイガ。一時間なら平気で乗っていられるよ、お前はメリーゴーランドの木馬より乗り心地がいいからな」
 隣でポテトをつまんでいた氷室はあらかじめ気づいていた火神の鼻先を指でひょいと拭ってやる。その後自然な動作で指を口に含み、ふたたびポテトをつまんだ。一度に二三本ほどぴよーんと長いものをつまんでも絵になるのが氷室辰也という男である。
 氷室がポテトをつまむ間に火神の頬がぱぁっと色づくのを黒子は見逃さなかった。頬に食べものを収めた火神に顎の動きすら止めさせるのは、氷室だけだろう。
 瞳をうるませた火神が恥じらいを滲ませて隣の兄へ顔を寄せる。火神ときたら力が入りすぎて、手にしたバーガーの包みに指でくぼみができていた。
「っ……タツヤ、俺っ……タツヤのためならゴーカートになるぜ!!!」
「カントクに怒られない程度に抑えてくださいね」
「ほんとうに? タイガのゴーカートはぶっちぎりで速いんだろうね。ハンドルを握るのが楽しみだ。ねえ、タイガ」
 熱量の違いこそあれど交わされる愛の囁きに、黒子の瞳から光が消えた。会話の合間にねじこんだ黒子の声は彼らには届いていない。まさに今の黒子は眩しすぎるふたりの影であった。
 彼らのこのあとがどうなるのか。おそらくは今し方の会話を実行に移すのだろう。その場所までを考える義理はないし余裕もないしそんなことに脳の容量を割く意味もない。黒子は彼らの胸元で輝く揃いの指輪の扱われ方を思って、言いようのない感情をこみ上げた。
 望んでもいないいちゃつきっぷりを、夢とはいえ氷室の位置から体験させられたのだ。それがなぜ、行為こそ違えど現実でも味わわされなければならないのだろう。カップを置いた黒子は試しに自分の頬をつねってみたが、痛いなあと思うくらいで何も起きなかった。つまり夢ではないのだ。
 黒子はトレイを持ち、静かに席を立った。極限まで存在感を失った黒子にふたりが気づくことはない。今回黒子が学んだことはふたつ。揃ってオフを楽しんでいる時のふたりを見かけても無闇矢鱈に近づかないこと。そのつもりはなくとも、こちらから惚気の種を蒔かないこと。
 彼らから背を向けた黒子は、そっと手を伸ばして肩から提げたメッセンジャーバッグにある財布の堅さを確かめる。トレイを片付けたらもう一度レジに並んでシェイクを注文しよう。持ち帰りにして、近くの公園のベンチで新緑を眺めながらシェイクをおいしく啜るのだ。そうしてすべてを忘れよう。そのための出会いだったのだ、きっと。
 黒子は窓の外に目を向けた。昼を過ぎたばかりの日差しがあたりをまぶしく照らしている。風はさわやかに吹くことだろう。
 初夏はバニラシェイクのおいしい季節だ。黒子はトレイを片付けると、混み始めたレジの最後尾に並んだ。彼らが黒子の不在に気がつくまで、氷室の胃に六枚のピクルスが落ちていった。

こちらもタイトルは『サンタナインの街角で』様から
氷室辰也には騎乗位をさせたいんですよ!!!(全力で趣味を主張)








通り雨のち海老の殻むき

 ようやく火神はぬるい雨をかぶったシャツを上体から引き剥がした。裾をつかみ、皮を剥ぐように肌に張りついたシャツを首から抜く。通した鎖ごと指輪がシャツにひっぱられ、鼻先まで上がってまた胸を打つ。とん、と胸を叩く指輪の感触は火神にとって当たり前のことだった。
 熱を失った腕をさする。半袖のシャツを着ていたために、むきだしの腕はまともに冷えた。夏とはいえ長い時間雨に当たっていると、服や靴が濡れることへの不快よりも体調が気にかかる。
 ひたひたと肌に張りついていたシャツは脱いだだけで滴が落ちた。絞るつもりもないのにたっぷりと水を含んだ雑巾のようになっていて辟易する。くしゅっとまるめて布きれとなったシャツを洗濯機に落とし、ぶるるっと身震いした。濡れた肌が外気に晒され、やけに寒い。閉じていた脱衣所は蒸しているというのに。
「っあー。つめてえー」
 急きたてられるようにベルトの金具をゆるめた。すっかり勢いを失った髪の端から滴が落ちては床を濡らす。何度腕で拭っても掻き上げても前髪がぺたんと額にかかるのでそのままにしている。
 こういうときはさっさと熱いシャワーを浴びてしまうに限る。火神はやけっぱちに手を動かしながら、隣で服を脱いでいる氷室に非難がましく文句を言う。ただでさえ顔の片側を隠す前髪は重く濡れて垂れるように落ち、小さな氷室の顔をすっかり覆っていた。
 ストリートのバスケットコートから火神の部屋まで、急ぎ足で十五分かかるかかからないかの道のりを共にした氷室もまた、火神と同じ濡れ鼠だ。
「やっぱタクシー乗った方が良かったって」
「こうして着いたからいいじゃないか」
「ずぶ濡れじゃねえか」
「途中からタイガも歩いたろ」
「もう走ったところでどうにもならねえとこまでいったんだよ」
 ジッパーを下ろし、姿を見せた下着を前に低く呻く。わかってはいたことだが、濡れなかった場所を探す方が無理だ。火神はべたつくカーゴパンツからもたもた足を引き抜いた。下着が濡れるというのはどうにも気味が悪い。
 この状況をもたらした氷室は対照的に気楽な態度で相槌を打つ。先にベルトを外した兄は、開いたジッパーの間から下着を見せながらシャツの裾に手をかけた。
「いいじゃないかたまには。ふたりで雨に降られるなんて、あー……ちょうどあのときのストバス以来だ」
「あのときのストバスって、大会んときの?」
「そう。随分経つな」
「二年前? すごくねえ、俺ら晴男だ」
「確かに」
 火神の指摘に口元をゆるませ、氷室がシャツを一息に脱ぐ。肌に張りついたシャツを剥がすために丸まった背中。練習を重ねた分だけついた筋の隆起に目が移る。色が白いせいか、露わになった兄の背は皮を剥いた海老の身を思い出させた。シャツが外れて銀の指輪が兄の胸を叩いた。先程の火神と同じように。癖のついた黒髪の間から覗く灰青の瞳が懐かしむように火神を促す。火神はなんとなく下着を脱ぎそこねた。
「雨に当たらなくてもバスケの後は風呂だったな」
「帰ったらすぐタオル持たされてバスルームに入れられたっけ。タツヤん家の風呂広かったよな。タツヤと入ってもよゆーで肩まで浸かれた」
「わんぱくな犬を二匹飼っていたようなものだったからなあ。母さん汗の始末にはうるさかったし」
 パンツを脱ごうと氷室が腰をかがめた。素肌にリングを下げた兄の姿が目に留まって。
「どうかしたか」
「いいや」
 火神の返答を気にすることなく、氷室のまなざしはふたたび濡れたパンツに移る。水を吸って重くまとわりつく細身のそれをどうにかして脱いでしまうと、火神に声をかけた。手の内で蛇の抜け殻のようにだらんと伸びたパンツが宙に揺れている。
「すまない、これも頼めるか」
「おう、いま一緒に洗うぜ。ちょっと見せて」
 シャツとともに渡された衣服からタグを探して確かめた。家庭用の洗濯機で支障のない表示ばかりだ。これなら火神のものとまとめて洗ってしまっていいだろう。端からそのつもりであったが。
 氷室はめずらしいものを前にした様子で火神を見ている。
「色落ちしねえし問題なし」
「几帳面だな」
「ふつーじゃね」
「そうか」
 氷室の服をまとめて洗濯機に入れる。その上に火神は自分の下着をぽいと重ねた。鎖を外そうとうなじに手を回して、指先で留め具の感触を確かめる。下着を穿いたままの氷室が服を脱がずに突っ立って、洗濯機と火神をいっしょに見ていた。
「タイガはA型だったな、と思って」
「タツヤも同じじゃねえか」
「そうだけど、なんていうか。タイガはきっちりしてるよな」
「そうか? タツヤの方が繊細だと思うけど」
「いいお嫁さんになれるよ」
「もらってくれんの?」
 氷室は口元だけで笑い、火神の腹をこづいた。ばらばらと散った前髪が目のあたりを覆って、兄の表情はわからなかった。
 干してあるバスタオルを纏い、氷室が脱衣所から出ようとする。外した指輪を小物入れに置いた火神は氷室を怪訝に思う。 
「先入っていいぞ。服持ってくる」
「タツヤ入んねえの?」
「タイガのあとでいいよ」
「いや、いっしょに」
 バスタオルの端から氷室が訝しむも、わからないのは火神の方だった。氷室はこの浴室にしばし火神と入っているし、コートを駆けて毎日のようにバスルームで汗を流したかつての話を始めたのは氷室だ。つい先日も怠い身体をひきずってふたりでシャワーを浴びた。このまま氷室と浴室に入ることに火神は何の疑問も抱いていない。
 そちらより、火神には氷室の身体の方が気にかかった。冷えた身体にタオルを纏っただけの姿でうろついて、風邪を引かないだろうか。指輪すら外した火神は自分を棚に上げて氷室の心配をした。
「……ふたりでシャワーは浴びられないだろ。浴び終わったら出るし」
「この前と同じでよくね。つーかいつも一緒に上がるじゃん」
「それとこれとは話が違う」
「え、でも。入んねえの?」
 火神が問いを重ねれば、平行線をたどる会話に氷室はタオル越しに頭を掻いて。
「交代で入った方が楽だぞ……」
「さきに温まった方が風邪引かねえし、それに。今タツヤと入りてえ気分」
 譲ることなく素直な気持ちを伝えた。氷室は返事をしないまま、動きようがないかのようにその場に突っ立っている。火神はこのあとの兄の行動を予想できた。
 兄の爪先が部屋に戻る。観念したようにはぐられたタオルは脱衣かごに置かれた。氷室の手が唯一の衣に伸びる。
「何もしないからな」
「しねーって。シャワー浴びようぜ」
「リング取ってくれ」
 洗濯機に下着を放った氷室が火神に背を向ける。風呂に入る前のいつもの動作に火神の心は弾んだ。バスルームへ行く際、兄はこうして火神に自分の鎖を外させるのだ。やはり兄とは一緒に風呂に入るものだと火神は思う。普段と何も変わりないのに、今日は一体何が兄の気に障ったのだろう。
 兄の首元をぐるりと囲う銀の鎖。うなじに映える同色の留め具に指を伸ばせば、浮かんだ疑問はすぐに消えた。

このあとのバスルームは予想通りです



(2017/7/11)
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