秋のかがひむまつり
ワンドロまとめ・りぷらいすぷらす小ネタ。オール全年齢!(キセキ!)
夜のなかで置き去り
水に浸した米をかきまぜるのは、石だらけの海岸を素足で歩くような心地がする。火神大我はすりきれはじめた釜のなかで米を研いだ。昨年買い換えた釜の内側はところどころ禿げていた。消耗は使用数に応じるため、火神のもとでは一年半保てばいい方だ。内釜も炊飯器もおのずとガタがくる。
テレビを消したひとりきりのキッチンは静かだった。米を研ぐのに混じって、思い出したように外から車の走る音がする。大きな道路に面していないので、このあたりは車の通りがすくない。真夜中近くになればなおのこと。建材で囲まれた箱のなかでもたらされる静けさを好いていた。ひとりでいるのは苦にならない。ひとりでいることを自覚することも。騒々しいのは苦手だ。他者の、特に会話による喧噪からは回れ右をして遠ざかりたくなる。
最近の米はあまり研がなくてもよくなっていて、水につけておかなくてもよい。研ぎすぎると味や栄養素が落ちるのだという。ワイドショウで聞いたことをなんとなく守って、火神は手短に米を研ぐ。そのつもりはないのだが力を込めると粒がくだけてしまうので、強いてやさしくぬかを流す。
朝六時に炊けるよう炊飯器をセットする。テーブルからスマートフォンが鳴った。
あわてることなく裸足で床を踏んで端末を掴んだ。画面には兄の名前が出ている。
「タツヤ?」
耳に当ててすぐ、そう呼んだ。電波に乗った兄の声はざらついて聞こえる。
「夜遅くにすまない。寝るところだった?」
「いや、米研いでた」
兄はおかしそうに腹から声を出して笑った。ほかと比べれば控えめなそれが兄にとっての馬鹿笑いだと知っている。ときどき兄は火神のしゃべることに前触れなく笑った。ジョークを言ったつもりはないのに、火神のそれは兄の琴線に触れる。スピーカーからは途切れなく声が続いている。火神は兄の張りのある白い腹がへこんでいる様を思った。
兄はようやく息を吸った。端末の向こうで、涙のにじんだ目の縁をこすっている気がした。
「米か。朝食にご飯を欠かさないのは変わらないんだな」
そんなことがツボに入ったのかと呆れたが、思うだけにした。
「いま、部屋なのか?」
「そうだ。なあ、窓をあけて空を見てくれないか。何が見える?」
サッシを開けてサンダルを履き、ベランダに出た。コンクリートの床に置きっ放しにしてあるサンダルはひやりと冷たかった。手すりに片腕をおいて、あたりを眺める。
代わり映えのしない見慣れた景色が、いつものように明かりをぽつぽつと点らせていた。オレンジの街灯が夜を照らしている。マンションの窓についた明かりは数えられるものになっていた。平日を控えたこの時間帯では、静かに寝入るものなのだろう。
「地下街みてーに明るい」
「すごいな。今日は月が出てるからとても明るい。部屋の明かりを消しても月だけで物が見れる」
兄の答えに視線を空へ向ける。火神はそこで空を見ろといわれたことを思い出して、うすぼんやりした藍っぽい夜の空を眺めた。シャツに何かをこぼしたようにぼそぼそとした雲が薄くたなびいていて、興味を引く景色とはいえなかった。月が出ているであろうことを示す黄色いひかりが、雲の間からひっそりと漏れたまま、姿を現す様子はなかった。雲の流れが遅い。火神はサンダルから離した足の裏で脛をさすった。
「月出てっけど雲でかすんでる」
「雲が出ているのか。こっちは晴れだ。月が出ているけど、小さな星までよく見える。施錠ぎりぎりにグラウンドに出ると、写真みたいに夜空が広がるんだ。いいところだよ」
ふと昔を思い出した。兄の家族に連れていってもらって幾度かキャンプをしたうちのどこか。大人が寝静まったのを見計らい、テントを抜け出して星を見に行った。川の流れる岩場。流れに張り出した大きな岩の上に腰掛け、脚をぶらぶらと垂らして、首がつるまで夜空を見上げた。木に覆われた街灯などない川縁で、星明かりだけで兄の広げた早見表を見ることができた。川のせせらぎにフクロウの鳴き声がまじる夜の森。がさがさとどこかで草原がゆれるとそっと身を縮めた。夜空を見上げる兄のはしゃぐ声はいつまでも眠りを連れてこなかった。
「キャンプで星をつなげたよな」
「ああ。お前は星座を作るのが下手だった」
「タツヤは早見表もって、何度も俺に教えてくれた」
「ひとりで探せるようになっただろ」
ふたりで思い出の輪郭をなぞって、火神は自分が当時を懐かしんでいることに気がついた。兄とまたあの地でキャンプをすることはできるのだろうか。火神から提案すれば兄は応じるかもしれない。思い出の地へ足を運んで岩場で空を見上げても、あの時を繰り返すことはできないだろう。それを思えば、こうして頭の中で懐かしんで、当てもない旅の予定を考える方が良いはずだ。
兄と今まで通りの、かつて西海岸で過ごした懐かしいあり方を続けていきたいと願うも、ほんとうにそうしたいのか、火神はときどきわからなくなる。このまま、たまに電話で声を聞くくらいの関係がいいのではないかと。
兄はこうしてたわむれに前置きなしに電話をかける。火神が出れば話をする。出なければ着信を残しておしまい。気楽な間柄を保っていると思う。過去のものとなった思い出を共有する、卒業した小学校の同級生のようなそれ。
火神から兄へ電話をかけたことはない。
「おやすみを言ってくれ。そしたら寝る」
他愛もない通話は決まって兄から切り上げた。火神は端末の、こまかな穴でしかないマイク部に音を立てないよう唇を寄せた。
ひとりよがりのそれを静かに離す。ひと呼吸分の沈黙を設けると、通話記録を刻む端末を真向かいに、兄の望むとおりに声を出す。
「おやすみ」
兄が何かを言う前に電話を切った。真夜中のベランダに疲れを吐き出す。端末を握ったまま手すりに両腕を乗せ、額を寄せた。このまま力を抜いて、スマートフォンを放り出したかった。そんなことができないのは火神がよくわかっている。
いつになったらさようならが言えるのか。鎖に絡めた思い出は舐める度に苦くなる。
火氷深夜の真剣創作一本勝負
お題「天体観測」
タイトルはサンタナインさまから
さよならは三時のおやつを食べてから
「大人になったら何になりたい?」
高くたかく漕いだふたつのブランコのちょうど重なるところで、兄が声を張り上げた。となりの兄の漕ぐブランコは大我と入れ違いに冬の空を目指していく。季節の変わり目が曖昧な西海岸では、行事ごとに入れ替わる飾り付けで暦の移り変わりに気がついた。街中はクリスマスに浮かれていて、広い庭を持つ家ではイルミネーションで着飾ることに余念がない。
ニューヨークと違って一年中温暖で降水量のすくないこの地域は、夏でも冬でも、ペンキを塗りたくったような原色の青い空が広がっている。
大我がこの街に来て、二度目の冬だった。ときどき自分の思いを伝えるための単語が出てこなくてつまづくけれど、友達ができ、異文化の習慣にも馴染み、何不自由なく暮らしている。日本にいた頃よりも父親と過ごす時間が増え、あたりまえのようにこうして兄が隣にいることにも、大我はすっかり慣れてしまっていた。
後ろへひっこんだブランコから垂れる脚にぐっと力を込め、高みを目指して勢いをつける。風を切り、ぐんと飛び出した頂点で得る刹那の浮遊感。それは遊園地のアトラクションに乗るのとはまた異なる高揚があった。風に髪のあちこちをさらわれるのも小気味よい。
大我が前へ出れば、入れ違いに兄は引っ込む。漕ぎ出すタイミングは同じだったというのに、ふたりのリズムはいつしかばらけ、交わらなくなっていた。それでも互いに声を張り上げ、遊具によってもたらされた高揚のために常になく浮かれて、会話を楽しんでいたのだけど。
大我は兄の弁を、ブランコがたっぷり一往復する間に考えた。大我を乗せた遊具はすぐに二度、三度、四度と天に向かって動くものだから、答えを出す前に兄と何度もすれ違う。握りしめた鎖は堅く、てのひらの皮が固くなってしまいそうだ。
それは時間にすれば一分にも満たないできごとだったが、兄の問いに頭を傾けるには十分な時間だった。
おとなになったら、なにになりたい、なんて。
気が遠くなるくらい、さきのはなし。
「タツヤは?」
質問を質問で返してはいけないのだと父は諭したが、大我には兄に尋ねる以外に術を持たなかった。
兄はいくつもある夢のうち、彼が最も叶えたいと望む未来を語った。その口ぶりは誇らしく、火神は兄の答えを聞いているだけで胸が踊るようだった。
その影で半紙に墨が落ちたように一抹の不安が広がる。その不安は拭いようなく、じわじわと滲むままで大我の心にしこりを残した。
望もうと望まなかろうと、いつかは大人になるのだろう。
背が伸びて力がずっと強くなって、望むままボールを手繰ったり、落ちることなく高い波に乗りつづけたり、いまよりももっと家事ができるようになったり。遠い未来、できることが増えるのはうれしかったが、それ以外に大我は展望を持たなかった。
いままでどおり兄と遊びに出かけて、バスケをして、師匠にバスケの手ほどきをしてもらって。学校に通って、父の帰りを待って、どうにか試験を片付けたらお待ちかねの夏休み。
大我は現状に満足していた。予測できるのはせいぜい一年先までで、それからどうなるかなんて考えもしなかった。だって、明日、あさって、しあさってと、楽しい予定がびっしり詰め込まれている。目先の一週間がめまぐるしく過ぎていくのに、どうしてその先を考えることができるだろう。
兄はなりたいものになるにちがいなかった。兄の夢を応援したい。できることなら大我は兄が夢を叶えるその過程をすぐそばで見守りたかった。
何者にならなくていい。このままがずっとつづけばいい。それ以外の望みを大我は持たなかった。
「これからどうするんだ」
ジーンズをひっかけただけの兄がマグを携えて戻ってきた。カップに注いだコーヒーを手渡され、大我は陶器を伝う熱さを把手に絡ませた指のそれぞれでじんわりと味わう。
いまだシーツから抜け出そうとしない火神のそばに、兄が腰をおちつける。湿り気の残るシーツの上で胡座をかいた兄は、平気で淹れたてのコーヒーをすすった。火神はもうすこしだけ冷まさなければ口にすることができない。湯気の上がるカップからは棚の奥にしまいこんだドリップコーヒーの匂いがした。
「大学。いくつか来ているんだろう」
カップで口元を隠した兄がまなざしで火神を伺う。高校を卒業した兄は、秋から米国の大学で学んでいた。住み慣れた西海岸を離れ、志望したチームでレギュラーを張っている。兄は火神と再会した年の暮れに行われた大会以降、こだわりつづけた自分のスタイルを変えた。
兄の察し通り、国内外ともに火神を求める通知が届いていた。中学時代から栄光の名をほしいままにした彼らほどではないだろうが、大学側から与えられた待遇はどれも好条件だ。
火神を誰かが欲している。誠凛で活躍したようにチームを支える率先力として、いくつものチームが火神を求めているのだ。
それは幸運に思うべき事態なのだろう。世界にはどれほど望んでも求められない人間がいる。だが火神は差し出されたいくつもの選択肢を、感謝すべきものと思っていなかった。
彼らはいくつか勘違いをしている。その最たるものが、火神がまともにチームの一員として意識し、行動したのは誠凛だけということだ。米国へ渡るまではバスケットボールのルールすらまともに知らなかったし、コートに親しむようになってからもストリートをふらついた。中学時代には精神論を振りかざすレベルの低い部活動に見切りをつけ、早々に退部している。チームでの経験が火神には圧倒的に足りないのだ。
チームの勝利のためならば、点差のついた第四クォーターでベンチに引っ込むことも辞さないつもりではある。だが、果たして誠凛を離れた他のチームで、火神は実力を発揮することができるだろうか。チームを勝利へ導くための一員になれるだろうか。高校時代に得た数々の戦績は、誠凛というチームがあってこそのものだと思っている。
兄も周囲も火神を買いかぶるまま、ひとつの競技に生涯を捧げることが火神に最適なレールなのだと信じ込み、進ませようとしている。周りにそう望まれるだけ恵まれているのだと思う。理解はできても、感情は別のものだ。
カップの縁から液体をこぼさないよう気をつけて、火神は寝乱れたシーツから上体を起こした。身体の節々は眠気を誘う甘い余韻に満ちている。火神は目を細め、舌を焼かない熱さになった液体をすすった。
砂糖なしミルクなし、兄が抱えるカップと寸分違わぬ苦いそれ。兄は熱さすら楽しんで、躊躇うことなしに苦さを味わうだろう。カップの底がすっかり見えてしまうまで。
火神は初めて、バスケという競技をやりつくした気がしていた。外気にさらすままの、むきだしにした肩口が冷えている。不意に引き出された懐かしい思い出に、自然と口元がゆるむ。カップは把手をつかまなくとも、両手で抱えられる熱に落ち着いている。
「俺さ、あの頃が一番楽しかったよ」
火神はいつかのように兄の問いをくりかえす代わりに、思い出を口にした。
火氷深夜の真剣創作一本勝負
お題「将来」
タイトルはサンタナインさまから
x x x
タツヤがちいさな石のかけらを持ってきた。今日は課題をやるからってタツヤの家に鞄をさげたまま学校からまっすぐ来たけど、テーブルにはまだプリントが乗ってない。いつもならすぐにノートとペンを出すのに、タツヤが俺に差し出したのはてのひらに乗ったちいさな石だった。
タツヤのやわっこいすべすべした、アレックスみたいに白いてのひらにちょこんと乗った、紫のぎざぎざの石。ちいさなピラミッドをいくつも寄せ集めたみたいに三角のかどっこがぜんぶこっちを向いていて、それで下の方は水晶みたいに白く濁ってる。てのひらにくっついてる端っこは焦げためだまやきみたいな色をして、おんなじようにぼそぼそしてそうだ。
その、紫色をした変わった石はどうみてもそこらへんの道ばたに落ちてそうなものじゃなかった。俺はタツヤの手のうえに乗ったふくざつなかたちをした石を、きれいだなあって思いながら見てた。
宝石なのかな。それにしては、指輪にはめこんだものみたいにかちっと気張っていない。
「昨日お父さんといっしょに化石を掘りに行ったんだ。そしたら、地層からこんなものをみつけた」
誇らしそうにタツヤが説明する。俺はそれだけで胸がぱあっとあかるくなった。
化石掘りってかっこよさそう。俺には化石掘りっていうのがいまいちどんなのなのかわからかなったけど、お父さんといっしょに化石を掘るタツヤはかっこいいと思った。
探検隊みたいな格好して、ヘルメットをかぶって、ツルハシを振り下ろしたりすんのかな。お父さんといっしょに化石を掘るタツヤを思うと、俺もうれしくなった。
「すげえ! 恐竜の骨は見つからなかったのか? トリケラトプスとか、ティラノサウルスとか!」
博物館にあった大きな骨を思い出して両手を振り回したら、タツヤは目の端をちょっとさげた。言い聞かすときの顔で、おだやかにくちびるの端をきゅっとあげた。そうするとタツヤの口の端は食い込んで、ほっぺたが盛り上がる。
「そんなに簡単には見つからないよ。僕の行ったところからはもう大きな恐竜の骨が出ているし、あってもアンモナイトとか海草とか、ちいさなものしかないんだ」
「そうなんだ……むずかしいんだな」
俺はすこしがっかりした。化石掘りっていうくらいだから、でっかい恐竜の骨をみつけられるものと思ったのに。タツヤの話を聞いて俺も化石掘りをやってみたくなったけど、ぐっとおなかに押さえ込んだ。タツヤといっしょなら恐竜の化石もみつかると思うんだ。チソウから俺とタツヤのふたりで恐竜の骨をみつけたら、タツヤのお父さんはびっくりしてすぐに博物館に知らせるかも。
タツヤといろんなことがしたいと思うけど、タツヤと俺は別の家の子供だからいつもいっしょにはいられない。俺も化石を掘りにいきたいって言ったら、タツヤに迷惑をかけてしまう気がする。俺のお父さんにねだっても、たぶん連れていってくれないし。
こういう話を聞くたび、タツヤはいいなあって思う。どこかへ連れてってくれるお父さんがいて、おいしいご飯を作ってくれるお母さんがいて、庭のある広い家に住んでて。ほんとうは犬を飼いたいけど、俺のために我慢してることを俺は知ってる。
恐竜の骨は取れなかったけど、そのかわりって言うみたいに、タツヤはてのなかの石を突きだした。
「これ葡萄露っていうんだよ。舐めたらあまいんだ」
ぶどうつゆ? 聞いたことないことばだった。ぶどうってことは、この紫色をしたのはぶどうなんだろうか?
俺は眉毛の出だしをぎゅっと寄せて、石とにらめっこする。
「食べ物なのか? 飴?」
「ううん、石だから食べられないけど、甘いんだ。ちょっとだけ舐めてごらんよ」
石があまいはずあるもんかって思ったけど、タツヤのてのひらにあるとそれは不思議とあまいもののように見えてきた。公園にあるような黒っぽい、みるからに石って感じじゃなかったし。
もしかしたら飴だったりして。透き通るような紫をしたそれは、ぶどう飴っぽくもあった。
タツヤは俺をからかってるのかな。それとも流行りのゲームとか。俺がどうしようか迷っていると、タツヤはそれをつまんでぱくりとくちに放り込んでしまった!
びっくりしている俺の前でタツヤはちょっとだけ眉毛をゆらすと、ゆっくりと石をほっぺたの片方へもっていった。タツヤのほっぺたがもこっとそこだけ盛り上がってる。
「ほら、だいじょうぶだよ。甘いんだって」
タツヤがそんなことを言うものだから。俺は誘われるようにタツヤとくちを合わせた。
ひらいたくちの間から舌をのばして石をなめようとする。石はタツヤのほっぺたから舌の上へ移動してて、俺はおそるおそる石のはしっこに舌をおいた。
タツヤのいったとおり、その石は甘かった。ブドウジュースを飲んでるみたいに、ぶどうの味がする。俺は狐につままれたまま、もっとよく味を確かめようと舌をうごかした。
石をなめるとタツヤの舌もいっしょになめてしまって、それはしてはいけない気がした。タツヤの舌はなめちゃいけないって思うのに、石をなめようとするとタツヤの舌から離れることはできないから、俺はなんだかもやもやする。
かたいはずの石のかたちはよくわからなかった。タツヤの舌はあつくてぬめっとして、なんかすきだ。
靴下のつまさきがもぞもぞ、むずむず、おちつかない。
くっつけたくちのなかで舌をもぞもぞしているから、飲み込みきれないよだれがだらだらとあふれてきた。よだれはぶどうの味がしたから、俺はどうにかしてぜんぶ飲もうとする。
タツヤとくっついているせいかだんだん頭がぼうっとして、うまく舌がうごかなくなっていた。まわりのことがわかんなくなって、どうしたらいいんだろうって思い始めたころにタツヤがくちを離してくれた。
うまく息が吸えなくなってる。なんだか急に眠くなって、とろんとした景色のなかで、タツヤは舌にのっけた紫のきれいな石を指でつまんだ。
よだれでべちゃべちゃにぬれてる。俺は体がなんだか熱っぽいのに、タツヤは平気そうに石についたよだれをすすってなめとった。
「ちょっとだけアルコールを含んでいるけど、ほんのちょっとだから大丈夫。タイガにあげる。眠れない夜に僕のことを思い出して、舐めてほしいな」
「おれにだけ? アレックスのぶんは……?」
なんだかうまくしゃべれない。よれよれの洗濯物になった気分でなんとか言えば、タツヤは灰色の目をきらきらさせて俺にちかづいた。
「この石を見つけたとき、タイガが浮かんだんだ。だから、あげる。もらってくれるよね?」
タツヤは俺のてのひらに石をしまいこんだ。ちからの入らない指をまげて、隠してしまう。そのうえからタツヤはぎゅうっと俺のてをにぎった。グーにした石をパーの紙で覆ってしまうみたいに。じゃんけんだと俺の負けだ。
俺はその夜からタツヤの言いつけ通りにひとりきりのベッドでこっそり、石をなめることにした。角があんまり尖っているからぜんぶ口にいれることはしないで、紫のところだけをちゅうちゅうなめた。そうしたら五分もしないうちに眠くなって、俺はお父さんが帰ってこない夜もひとりで眠れるようになった。
朝おきると閉じた右手にはかならず紫の石。差し込む朝日を浴びて、紫のさんかくがぴかぴか輝いてた。
あの石は日本への急な引っ越しのどさくさになくなってしまって、あれが飴だったのか石だったのか、それとも別のものだったのか。いまでは確かめようがない。
俺はタツヤに担がされたんじゃないかってあの石のことを口にするけど、タツヤはいつもあいまいに笑って「もういらないだろ?」なんて得意になる。いまじゃあの石の代わりをタツヤ自らつとめてくれるんだから、文句なんてあるはずねえし。
結局、あの石はなんだったんだろう。タツヤにははぐらかされるので永遠の謎ってことでいいかと思ってるけど、おかげで俺はワインだけはいくらでも飲めるようになった。
特に、赤ワインが。
possessive
煙る線香の引くひとすじの線が、すうっとどこまでも長く、ながく、天へ上る様にあがっていました。
坊主が経を上げる前の、棺桶のために詣でたひとびとの挨拶を、喪主であるあのひとは一手に引き受けていたのでした。線香を上げるために足を運んだひとたちはその実、棺桶ではなく喪主に挨拶をしに来たので、自然とあのひとは重く、何度も、なんども、頭をさげては定型と化した謝辞をくりかえします。
厚みのある恰幅のよい長身の前ではどんなものでも小人のように見えました。堂々としたあのひとの身体が凡々のために曲げられるのは、きもちのよいものではありません。
「ずいぶんと似てない兄弟だね」
はばかることなく上げられた感想を呼び水に、周囲の親戚がつづきます。
「向こうで養子縁組をしたんだとさ。ほら、つまりその、あれだね」
「でもあれだろう、女と一緒に死んだんだろう? なら違うじゃないか」
「案外女の方が殺したのかもしれない」
わたしは喪服の布地をぎゅうと握って、椅子の脚しか見えないようにうつむきました。どうして厳かな場所で、こんなにも大きな声で、こうもあさましいことを言えるのでしょう。わたしは彼らの連れであることをひどく恥ずかしく思いました。
身体の芯はすっと凍えてしまっているのに耳は熱く燃えているようです。あのひとの遠い血筋を名乗る彼らとわたしは呼ばれもせずにこうして大勢で押しかけては、仲間内の四方山話やら相手の醜聞やら、財産の取り分やらをがやがやと口さがなくしゃべりたてます。このたびお亡くなりになった方はずいぶん前から親戚付き合いを断っていたあのひとの身内でしたから、これを幸いにと乗り込んだのです。
あのひとは本家の血を引いていましたけれど、家のことには一切関わらないときっぱり言い切ったそうです。けれどご存命の当主がそれを許さないものですから、あのひとはお相手の名を名乗っても、こうして餓鬼のごとき親戚に集られてしまいます。
わたしは彼らの雑言をとても耳にしていられず、ひとり席を立ちました。母にどこへ行くのかと尋ねられましたが、小用と答えて足早に去りました。
トイレに駆け込み、鍵を閉めた個室で胃の中のものを戻します。とても付き合いきれるものではありません。わたしは体調不良をいいわけに会場を後にすることにしました。帰ってきた母や親戚にやかましく言われるでしょうが、気にしていられません。
幸いトイレはわたしを残して空でしたから、周りを気にすることなく耳障りな音を立てました。口をトイレットペーパーでぬぐってようやくひと心地つき、個室を後に手洗い場へ向かったとき。いるはずのないあのひとがそこにいました。
わたしの心臓はちぢみあがりました。あのひとは鏡に向いて、平坦な四角に映る己の顔を見ているように思います。いただきに近い頭髪の燃ゆるような紅がひどく、鮮やかでした。
本日の、鯨幕の舞台の主役を飾るあのひとのお兄さんは、軽井沢の別荘で首吊り自殺を図ったと聞いています。
閑散期だったものですから、見つかったときには縄がすっかり首に食い込んでしまって、黒ずんだ腐肉をどろどろと床に流してはぶんぶんと蝿が集っていたそうです。
その傍らには女がひとり、くずれた様子で転がっていたらしいのでした。
家を出たあのひとの、そのお相手が随分な死に様をしたものですから、一族はにわかに騒がしくなりました。様子を見るだけなのですから本家のものがひとりふたり顔を出せば済む話でしたが、物事の中心から遠いひとほど騒ぎに加わりたくなるようで、あのありさまです。
わたしは物見遊山の母に連れられて葬式に参列しましたが、実のところ思惑は別にありました。噂で聞くあのひとのお相手を一目みてみたかったのです。
そのひとを知る女たちは、一度目にすれば忘れないたいそう綺麗なひとと口にします。不思議なことにそのひとのことは綺麗ということしかわからないので、なおのこと不思議に思ったものですが、これで今日こそこの目でその姿を確かめられるとわくわくした心地すら抱いたものです。
ところが前のとおり腐乱死体となってしまいましたから、お相手の姿は棺桶に仕舞い込まれてしまいました。窓は閉じられたまま、そのひとであった屍が葬られるのを待っているだけです。
黒縁で飾られた遺影は確かに整った顔をしていましたが、わたしの琴線にふれることはありませんでした。写真と生身とではまったく異なるものと思っていましたから、さほどそれを信用してはいません。どちらにしろ、わたしが顔を合わせる前にお相手はもう死んでいるのです。
正直なところわたしは、そのお相手をあまり快くは思っていませんでした。気高く誇らしい獣のようなあのひとはいつまでも孤高であると、あってほしいと、心から願っていたものですから。
わたしの怒りの矛先は当然あのひとではなくお相手に向きました。ねじくれた女のように、あのひとに選ばれた者を憎んだのです。
「あれは女を知らずに死んだんだ」
あのひとはわたしに振り返ることなく、鏡に向かうままです。
それでもわたしに気づいているからこそ、そう口にしたのでしょう。
自らに言い聞かすように、ふと漏れ出たひとりごとのように。
わたしにはあのひとのいう『あれ』が何であるか、誰になにを言われなくともわかっていましたから、ただ、ただ、目の前の男の行く先を固唾をのんで見守っていました。
「ただの一度も」
そうしてあのひとはもったいぶるようにゆっくりと、振り返りました。
わたしだけに向けられたその姿は生涯忘れることのないほど、ひどく、ひどく。恐ろしく美しいものでした。
火氷深夜の真剣創作一本勝負
お題「独占欲」
有島武郎の死と、それを聞いた弟の里見惇のことばだったかと。
この逸話が凄く好きで、ずーっとどこかで使いたいなあと思ってました。
bath-roman-magiclean
「おやまあタイガ、俺というものがありながら風呂掃除かい?」
畳んだ磨りガラスの戸の前には、わざわざ勉強机から運んできた椅子に腰掛ける兄。劇鑑賞でもするように片脚を組んで、オペラグラスの代わりにご自慢のスマートフォン。ゆったりと背もたれに身体を預けた彼のまなざしは泡だらけになってスポンジを動かす浴槽の火神に向けられている。どうやら戸口からでも浴槽の底にしゃがむ火神の様子は見渡せるらしい。
「口のへらねえ兄貴が浸かるもんでね。ピクルスを仕込む前の瓶みてえにきれいにしなきゃなんないのさ」
見世物になったつもりはないが、暇をもてあました兄の相手をするのも弟の努めとやらに入るので、火神は袖をまくった腕を動かしながら軽い調子で返した。スポンジに含ませた風呂場用の洗剤のにおいはちょっとした刺激を伴う。換気扇をつけてはいるものの、戸を開けてしまっては意味がなかった。兄の身を気遣って閉めるよう促したところで、聞く耳は持っても彼の腕が伸びることはないだろう。
兄はスマートフォンを持った腕を大仰に開いた。芝居がかったその仕草ときたら、まるでドラマのやられ役だ。
「それはそれは。有り難い待遇だね、野菜からの手伝いは不要かい?」
蛍光じみた黄緑の、厚手の手袋は風呂掃除専用だ。火神は手袋越しに握ったスポンジを浴槽の縁にこすりつけては泡を残した。もうしばらくすれば一周磨いたことになる。浴槽に残る水垢というものは目で見ただけではわかりにくいくせに、へたに残しては入浴中にいやな気分になる。こちらはまったく無防備な姿で湯に浸かるのだ、その容れ物が汚れていてはおちおち気も抜けない。
火神は裾をめくった素足を洗剤で泡立つ底につけてがに股で腰を下ろし、早々に終わらそうと腕を動かした。呼ばれるたびにこの格好から腰を上げるのは骨がいるので、火神は兄から泡だらけの浴槽へと心を傾ける相手を変えた。
「大したことねーし、寛いでろよ。いつもならタツヤが来る前にすんだけど忘れてて。しばらくシャワーだけだったし、しとかねーとなーって。風呂入るだろ?」
浴室にスポンジがこすれる音ばかりが響く。換気扇が入っていても、火神の立てるそれはよく通った。氷室は脚を組み替えあらためて浴室を見回すも、納得がいかないようだ。
「そりゃあ貸してもらえればうれしいけど、気にするほど汚れているか? 湯を注げば大差ないだろう、要は風呂に入れるかどうかだ」
「水垢あったら気づくもんなの」
「ひとり暮らしは違うな」
兄は感心した様子でそんなことを言う。
ひとり暮らしも何も、自分ひとりの時にここまでするはずがないだろうに。誰かがいるかいないかでは様変わりする。それも気になる相手であればなおのこと。
「まー、ここまですんのはタツヤが来たときだけっつーか」
タツヤがいるときだけに決まってんだろ。などなど。さりげなくそっけなく、自慢にならないように答えようとした途中で遮られる。
「タイガ」
はっきりとそう呼ばれたものだから、つい火神は浴槽から顔を上げた。
かしゃっ。
長方形の端末から発せられた聞き覚えのある作動音。火神に向けられた端末の、端にある小さなレンズが機能していたことだろう。
氷室は板に指を滑らすと用は済んだと端末をてのひらにしまいこんだ。そのまま板の上で指を動かしている。火神はスポンジを持つ手を止めると、浴槽から腰を上げた。
「なんか撮れた?」
「風呂掃除をする男前がね。汗を流すからこそ労働は美しいというだろう。ほら証拠だ」
現在の時刻を示す端末の、ロック画面というのだろうか。それがいましがた撮られたばかりの火神の写真になっていた。氷室が差し出した腕の中の小さな画面のなかで、浴槽の底にしゃがんだ己が間の抜けた顔でこちらを見ている。ゴム手袋をはいて腰をかがめ、兄のためにバスタブを磨く火神の家庭的な一面だ。火神はスポンジを持ったまま浴槽を跨ぐと、しげしげと画面をのぞきこんだ。
「へー。風呂も掃除してみるもんだな。でこれいつ変えんの?」
「当分は変えないかな。俺のスマホを覗き込んだ子たちに説明するのが楽しみだからね。ところでいつ掃除が終わるんだ? 俺はさっそくここを使ってみたいんだけど」
組み替えるのかと思った兄の脚は、火神の裾をまくった二の足から腿、それからあからさまなあんなところへ伸びていった。人目を奪う兄の長い脚はしばしこうしたところで無駄遣いされる。物言いたげに火神を見上げて、足裏をつけたところを意味ありげに踏むのだから兄の機嫌も知れるというもの。ひとつきに一度の、決して長くはない逢瀬の時間をバスタブに費やしていたのがお気に障ったらしい。
「夜じゃねーけど?」
「お前相手に昼も夜もないだろ。夜にピクルスを仕込む決まりでも?」
足裏を伝う感触が変わったことにそれみたことかと口角を持ち上げた兄が、端末のレンズをふたたび向けた。火神はたまらず両手を挙げる。こんなところを撮られてはたまらない。もしかしてずっと動画モードで撮っているとか。火神は氷室のスマートフォンをのぞき込む子たちが女の子であることを切に願った。
シャワーをつかんで、洗い場に立つ。氷室の脚から離れた身体で蛇口をひねれば、多量の湯が浴槽についた泡と汚れを洗い流していく。排水溝が音を立て始めた横で、早々に脱ぎ捨てられたシャツが椅子の背に放られた。
「お野菜様に言われちゃしょうがねえわ。おいしく食べられた後もコートに行けるように、体力残しとけよ」
invitation
一両きりの路面電車にはふたりしかいなかった。
観光用とはいえ赤字続きで存続が危ぶまれているのだと、いつか新聞に載っていた見出しを見た気がする。地方欄の中くらいの見出しの下にはドアを開けた車掌の写真があった。
いつかこの路線もなくなってしまうのだろうか。昼前の日差しを窓からめいいっぱいに浴びた、一列に並んだ向かいの座席は魔法をかけたようにきらめいていた。埃の散る様さえ日差しの中ではそれ自体が発光しているかのようにきらきらと舞う。くたびれた真赤の布地は色彩を増し、特別に設けられた席のように鮮やかだった。
滑るように走りながら、ときおりつまずいたように大きく揺れる。
バスよりも無骨に窓の景色が流れていく。このあたりは信号機がないのか、車両は停まることなくごろごろとレールを滑った。
長い席をふたりじめしているのだから、もっと距離を開けてもいいはずなのに。
どちらも席がみえないだれかで埋まっているかのように、隣で腰を下ろしている。
あちらの左腿とこちらの右腿にできたわずかなすきま。
彼はそれを埋めることはないだろうから。
氷室はほんのすこし身体をずらして、隣の火神に寄り添った。
ひたりとついたボトムの生地。しばらくもしないうちに互いの肌の熱さを感じるだろう。
半袖のシャツから伸びた腕に己のそれを重ねる。カーディガンを着てこなければよかった。
火神は首を傾けて氷室を見やっただけで、何も言わない。
弟は気づいているだろうか。氷室の着ている不規則に穴の開いた黒いTシャツが、昨年の氷室の誕生日に彼自身が贈ったものだと。
もし、気づいていて黙っているのなら、ずるい男だ。
火神は膝に大きなバスケットを乗せたまま、隣に退かそうとしない。宝物かなにかのように、ラタンをねじった取っ手をぎゅっと握って揺れないように持っている。
なかに詰まっているのはふたり分のカトラリーと、ふたり分の昼食。昨日の内からエプロンをしてこしらえてくれたものだ。
氷室は居眠りをした人のように火神の肩に首を傾けた。そのままわざともたれかかる。火神は何も言わなかった。氷室はそれを肯定ととる。ひとつだけ開いた窓から吹き込む風と車輪のころがる音、次の停車場のアナウンスが鳴る以外は誰の声もしないこの時を不意にこわしてしまうのは勿体ない気がして。火神もそうなのかもしれないと勝手に決めつけた。
なにかを口に出さなくとも当たり前のように受け入れてくれる関係は、ここちよくて大切で、だからこそいつまでも続かないと思っている。
いつまで。そんなことを言い出したらきりがないのだけど。
火神のそれとからめた指で、自分のものではない手の甲をさすった。
ボールを掴むための手が、いまは氷室の手を離さないでいる。
誰かがいなくてよかった。
どうせこんなときにしかできないものだから。
窓の外に波打つ群青が広がっていく。銀糸を混ぜた縮緬がくしゃくしゃと揺れているようだった。日本の海は青くて深くて、一度脚をつけたら二度と戻ってこれないような。そうしたイメージを抱かせる。
カモメの鳴き声が聞こえてきた。静まったふたりだけの空間がこわれていくのを感じながら、氷室はひとつついでのように口を開いてみることにした。
隣の火神に、ひとつ、どうしても、尋ねたいことがあった。
言うべきいつかを伸ばし伸ばしにしていたけれど、今なら。たとえ氷室のひとりよがりになったとしても、言葉にできる。
氷室は自分のために、絡めた指に力を込めた。
「俺はお前の、何かになることができたかな」
細波がゆっくりと鼓膜を揺らしていく。外は本当にいい天気で、ピクニックをするにはもってこいだった。
氷室は血を吐くように、自分のために言葉を続けた。
「お前のためにしてやれたことがあったかな」
あらかじめ録音されたアナウンスが次の停車場が近づいたことを告げている。窓から降り注ぐ陽は向かいの席にあたるばかりで、ふたりの靴だけが窓のかたちにひかっている。
一度、聞いてみたかったのだ。
火神と過ごしてきたこれまでに、意味を持つことができたのかと。
火神がもし氷室に何かを見いだしてくれたのなら、それで氷室は救われる。
火神と過ごしたこれまでに、確かに意味があったのだと。
氷室ひとりがそう思えれば済んだことだ。それでも、尋ねずにはいられなかった。
返事が欲しいわけではない。ただ、火神に伝えておきたかっただけだ。
絡めた手を、当然のように差し出された手を離すことは、氷室にはもうできやしないことだったから。
だから。
「いつでも、俺を置いていっていいんだ」
アナウンスとともにドアが開いた。停車場に人影はなく、換気をするようにたっぷりと時間を設け、ドアが閉まる。また、ごろごろと車輪がころがりはじめた。アナウンスが終点を知らせる。
海まではもうすぐで、窓の外には青い波が広がっている。砂浜にシートを敷いて、海を眺めながら、持ってきたバスケットの中身を胃に収める。サンドイッチとスープ。チキンにおやつのいちごもある。火神のつくったものだから、おいしいに違いない。
電車が止まってしまう最後の一駅まで、氷室は目を閉じて、なにもかも聞こえないふりをした。
火氷深夜の真剣創作一本勝負
お題「海」
柴咲コウ『invitation』から
すいかわり
※りぷらいすぷらす・改変あり
生成の砂浜、入道雲の浮かぶ晴天、静かに波打つ青い海。
絶好の海水浴日和に火神は全神経を針のように尖らせ、砂浜に埋まる獲物を仕留めるためにひとつ、またひとつ歩みを進めていた。
海辺ではしゃぐ女性たちの囀りも、喝采のように唸るシャッターも、何もかもが遠い。
熱い砂を足裏でこそげるように、にじりにじり。獲物への間合いを詰めていく。
勝負は一度。確実に仕留めるために火神は目隠しの下でも目を閉じ、研ぎ澄ました触覚と冷静な考察、野生と称される第六感によって勝利を手中に収めようとする。
波打ち際より遠く置かれた、氷水できんと冷やされていた食べ頃の西瓜。そこから十歩離れたところで『Blue Sky Memories』の一番目の歌詞がちょうど終わる一分十八秒間黒子にくるくると回されたのち、火神の勝負はスタートした。
火神はすぐに天性の才ともいうべき嗅覚で、西瓜への方向を正した。あとは手にした木刀を振り下ろす適切な位置を見極めるのみ。凡夫には苦労を強いるそれも、火神には実現可能な課題だ。
最適に獲物を砕くべく必要な間合いを爪先が掠る。火神は歩みを止めた。両腕で握る木刀を頭頂へと掲げる。
火神はこの先にある西瓜の存在を全身で感じていた。火神が西瓜を割るのではない。西瓜が火神に割られるのを待っているのだ。
上段の構えで対峙する。良い勝負だった。まっぷたつに砕いたあかつきには、ひといきに胃へ収めよう。
両腕を振り上げ、まさに木刀を振り下ろそうとした瞬間。火神は背後から誰かに抱きつかれた。背中にべたりとくっついて、囲うように腹に手を当てられている。懐かしい匂い。背中に押しつけられた硬い輪。
それだけで、火神は背後の主が誰なのかがわかった。
凛とした彼の声が耳元で響く。
「つかまえた」
「うあっ……!? タツヤ? 陽泉とこの監督撮ってたんじゃなかったのか?」
腕を上げたまま振り向こうとするも、火神は目隠しの上に薄く色づいたUVカットのサングラスまでかけているのだ。いくら首をねじろうが抱きつく氷室の姿を見ることなどできない。火神には氷室が細身のフレームの眼鏡をかけていることさえ、わからなかった。
気配を悟らせることなく忍び寄った氷室は火神の慌てようを楽しむように、自然な調子で訳を話す。レンズの奥の、火神に向けた瞳は涼しげだ。
「みんな張り切ってしまってね、あますところなく撮り終えてしまったんだ。だから今度はタイガを、と思って」
口調こそ柔らかだが、がっちりと腹に回した腕は火神がいいと言うまで離さない姿勢を雄弁に語っている。だが、そうした氷室の様子に気づくことのない火神はたじろぐばかりだった。なにせ、まさに勝負を決めようとしたそのときに氷室が現れ、何を言うかと思えば火神の写真を撮りたい、である。
グラビアコンテストは水着を着た女性陣のみが採点対象だ。男の、それも火神の写真を撮ったところで相手にもされないだろう。
兄と戯れたいのはやまやまだが、いまは西瓜だ。ぱかりと割ったあかつきには、氷室にも分けてあげたい。だからひとまず火神から離れて、砕けた西瓜が飛び散らないところで見守っていてほしいのだが。
「俺? でも今日は水着のねーちゃんのグラビアを撮るんだろ? 俺撮ったって意味ねーじゃん。それよりスイカ……」
氷室が鎖を通した火神のうなじに、そっと吐息を吹きかけた。
くちづけるように近づけた肌に、せつなく訴える。
「俺はタイガが撮りたいな。だめかな?」
火神はしばらく逡巡した。前方の西瓜と、後方の氷室。重なる肌はしっとりと汗ばんで、吸い付くようにくっついている。
腕の力を抜き、木刀を地に向けた。構えを解いて、ぼそぼそと返事をする。
「……ちょっとなら、いいけど」
氷室の腕が火神から離れる。左手を握れば、火神の右手から木刀が落ちた。砂浜にさくっと刺さったそれを横目に、氷室は火神の手を引いて歩き出す。砂浜にあった西瓜をビーチボールのように片手でひょいと抱え、右手に火神、左手に西瓜の有り様。
氷室の行く先は撮影で賑わう砂浜からはずれていくも、視界を覆われたままの火神が気づくことはない。西瓜という道しるべを失った火神には、手をつないだ氷室だけが頼りだった。
「タイガならそう言ってくれると思ったよ。ここじゃ落ち着かないし、場所移動しようか」
カメラを持たない氷室がひとりでに微笑んだ。
兄に促されたとおり、大きな岩場に背をつけて立っている。最初は触れるだけだったそれに喘ぎながらもたれかかっているのは、ひとえに氷室のせいだった。
火神の前にしゃがんだ氷室が、海水パンツから取り出したPleasure thingを前にNostalgic melodyを奏でている。西瓜割りから離れてもいまだ目隠しを外してもらえないでいる火神は、サングラスをかけたまま顔をゆがめた。視覚が封じられているせいで、感覚が敏感になっている。額から流れた汗が目隠しの縁をところどころ暗く染めていた。
氷室が珊瑚色に熟れたso joyfulの先端をおいしそうにぺろりと舐めた。舐めているだけだというのに、もうとろとろと蜜を吐いている。
「ふふ、タイガに女の子の水着は目の毒だからね。今度は俺に夢中になろうか」
あらわにした右目でそそり立つMy pleasure thingをうっとりと眺める。くちびるを寄せるのに眼鏡のフレームは邪魔であったものの、剥けきったbrotherに当たらないよう氷室は巧妙に顔を傾け舌を伸ばす。
戯れのようにふうと息を吹きかければ、火神は腹をかわいそうなほどひくひくと揺らし、氷室にすがりついた。脱がしてもらえないでいる水着は膝のあたりで止まったままだ。
「あ、あぁっ……たつや、なに、やって……ア」
「うん? バナナの位置を直しているんだ。写真写りをよくするためには大切だろう?」
Ha-haと笑い出しそうな勢いで堂々と答えると、氷室は目の前のごちそうをふたたびぱくりとくわえた。喉の奥まで迎えるように根元までをほおばって、舌で血管の浮いた幹をなめしゃぶる。口内を占めるいとしいかたちの輪郭をするするとなぞり、火神を追い詰めていく。
「ふぁいはほ、ほひふぃ」(タイガの、おいしい)
「もこれ、ばなな、とか、んっ、そんなんじゃなくね……あ、あ、あっ」
「ふあ? っちゅ、む、んんっ……かわいいよタイガ。すごくかわいい。食べちゃいたいくらい……」
口を離してはまたつける。すぼめたくちびるで、詰め込んだeternal soulをちゅるちゅると扱いた。氷室は火神の持つそれが、好きですきでたまらなかった。突発的にくわえたいと願ってしまうほどには好いているし、何よりこうして氷室が口をつけているときの火神はthe sun’s raysのように魅力的だ。叶うのならば、always feelingを願うほど。氷室にとって火神はいくつになってもかわいがりたいlittle Brotherだ。
「俺、タイガがどんなゴーグルマンをしてたって、一発で当てられる自信あるな。だって……タイガのはすごく、イイモノだから」
Becoming greaterの前で頬を染めてつぶやく。氷室は火神が目隠しをしていることに安堵した。弟に焦れるこんな姿は、Big brotherとしてとても見せられない。
「あ、あぁあ、あ、タツヤ、もう、おれっ……!」
火神の内股がかたかたと震えだした。口の中に迎え入れたShiningも果てが近い。氷室は舌で愛撫を繰り返しながら、火神の好きにするよう促した。いつ何が起こっても、氷室には準備ができている。
「ふぁひふぇふぃほ、ふぁふぃふぁ。ふぇんふほんふぇはへふ」(出していいよ、タイガ。全部のんであげる)
火神が息を詰めて、迫り上がってきたものを迸る。それは氷室の口内へ濁流のごとく流れていった。溜め込んでいたのかいつもより多い熱をnew adventureのように感じながら、喉を動かす。舌といわず頬といわず、ねっとりと絡みつくそれに身体がほてった。
出し切った後も残りが垂れてこないよう、先端をちゅうちゅうと吸う。それからようやく口を離した。
舌先をくちびるに伸ばして、一滴たりともこぼしていないことを確かめる。火神は肩を上下に大きく揺らし、どっと汗をかいていた。疲れ果てたように岩場に背を持たれて、立っているのがやっとのようだ。
氷室はそうした弟の姿にきゅんっと胸のときめきを感じながらも表には出さず、いそいそと腰を上げる。波打ち際では砂に埋まった西瓜が冷やされていることだろう。少し休んで優勝作品の結果を聞いて、それからまた西瓜割りをすればいい。
氷室はレンズを支える両端のフレームにそれぞれ指を当て、眼鏡の位置をすっと直した。それから、いとしい弟のサングラスを外してやり、目隠しをした眉間にキスをした。
「砂浜を汚しちゃいけないからね、ごちそうさま」
新たな時代に誘われて、セーラーひむひむ流麗に登場
※りぷらいすぷらす・改変あり
◆ パターンK * H
陽泉の屋上へ現れた火神は一輪の薔薇を堅く握り、腹の底から歓声をあげた。興奮のために突き上げられた拳は月の静かな明かりを浴びてまばゆい。月光に照らされた紅の花弁は日の下よりもおぼろげで、夢のようにかすんだ。茎に棘のない品種であるからして、ボールをたぐる火神の掌は傷つくことなく守られている。
「すげえタツヤ! あの無茶ぶりを乗り越えてセンター牛耳るとか半端なくね?! 痺れるぜ!」
「監督を引き立たせるためならなんだってするさ、陽泉の一員だからね」
氷室はティアラをはめた額に指を添え、月明かりにしなだれるように衣装で着飾った肢体を誇る。露出の高い衣装を同性の氷室が着こなせているのか、火神は同世代の女子よりもきつい視点で採点する。
「すげー……脛も腋もVIOラインすら完璧だ。無駄毛どころか羞恥心のかけらもねえぜ。さすがタツヤだ!」
「ふふ、まあアツシはおっちょこちょいだからね。Eventを見越して準備を整えるのは部員の義務だ」
バニーガールよりも高いヒールがかつかつと床を蹴る。弟の賞賛を当然とばかりに一身に受ける氷室は、薔薇を握る火神の拳に指を伸ばした。
欠けた月が満ちていくように、ふたりの距離が狭まる。月のひかりが屋上をふたりだけの世界に変えた。彼らにとって隅で帰り支度をしている陽泉の部員は、なきに等しい存在だった。
近づいたふたつの口唇の間で、薫り高い薔薇が揺れる。たっぷりと吐息を含んだ兄の涼やかな声が火神の鼓膜を魅了した。
「ところでタイガ、せっかくこうして秋田まで出向いたんだ、俺とムーンライトセレナーデを奏でたいだろう?」
「っ、あ……タキシードミラージュなら、よろこんで……っ!」
あたふたと快諾する弟の頬は、咲き誇る薔薇に等しいほど茜に染まっていた。
◆ パターンH * K
火神は陽泉の屋上で奇態な衣装に身を包んだ兄に、何度目になるか分からない呆れを含んだ眼差しを向けた。
経緯は氷室を除く陽泉のレギュラーと元凶である監督から聞いたが、それにしてもこの兄は馬鹿なのではないだろうか。
周囲から熱に浮かされたようにクールビューティと称せられる外見に反し、この男の内はわりあい単純で賑々しい。発端を作ったのは彼自身とはいえ、先日も海水浴場で肌を晒した女性にふたたび露出を求めるだろうか。
選択権は兄にあった。ならば自ら進んでふざけた格好にならなくともよかっただろうに。どうせこの男のことだ、派手な衣装で着飾れて、それが監督の露出へつながるのならば一石二鳥とでも思ったのだろう。
思考を先読みしやすくとも、当の本人が扱いづらくては意味がない。火神はひやかす気も起きず、ただ見たままの感想を述べた。それもかなりのローテンションで。
「またすげえカッコさせられてんのな。よくブーツのサイズまで揃えたもんだ」
「ふふ、ほんとうにね。監督ははじめから俺にこれを着せるつもりで、Moon partyを始めたんじゃないかな?」
氷室は気にした様子もなく、火神に見せるようにその場で一回転する。プリッツの利いた短めのスカートの裾が傘をまわすように開いた。兄の素足から布地が浮いては纏わりつく。火神は気安く鼻で笑った。
「あんなかじゃアンタにしか出来ない格好だろーよ。セーラー服の非処女戦士になれてハッピーか?」
「実を言うとものたりないんだ。お供の黒猫ちゃんがいないだろう? こうして月のウサギになったのに餅をつく相手がいないんじゃ、ムーン・スティックの使いようがないよ」
媚を含んだ灰青の瞳が火神に真意を訴える。彼に熱っぽく求められずともあからさまな台詞がすべてを語っていた。すぐ隣で部員が着替えているというのに、恥知らずなのか天然なのか。
火神は短く口笛を鳴らした。ズボンのポケットに両手を突っ込んで胸を反らす。月の満ち欠けが女性の性欲に関わっているなどと眉唾な話をどこかで聞いたことがあったが、この場合の兄は単に衣装で舞い上がっているだけだろう。それでも月夜を刺激的にしようと振る舞う兄に応えないわけはない。
女装だろうがラバースーツだろうがボンテージだろうが、問題は中身でそれらはただの飾りだ。ちょっと変わったことをしたところで容易に煽られるほど青くはないが、スカートの下に隠したスティックを使いたいと求められれば話は別だ。誰だって一度はセーラー服を纏う兄に組み敷かれてみたいものだろう。
いいところで写真でも撮って、我らが師匠に成長の記録でも送れば泣いて喜ばれるにちがいない。月あかりの下で火神は不敵に唇を吊り上げた。
「あーへいへいそういうことね。りょーかいりょーかい、月に免じて今晩だけはかわいいニャンコでいてやるよ」
この日あまやかなるときを
ボリュームを下げたスピーカーから男女の睦言がきこえてくる。
色彩をおとした広い画面には、どこか深刻な面持ちでやりとりを交わす一組の恋人の姿が映し出されていた。
カーテンをひらいているのに空を覆う雨雲のせいで薄暗い室内は、物語を紡ぐために漏れた光線を照明にしている。部屋の主は天井にとりつけられた明かりを点けなかった。映画というものは得てして、画面を唯一の光源としてその世界に浸るものだ。だが、モニターに映る退屈なメロドラマといい、日本語の字幕がなければ聞き漏らしてしまう音量といい、この部屋の主はとある誰かをあまやかすために広いリビングをつたない劇場に仕立て上げている。
部屋の主の身体を椅子として微睡みにおちる氷室辰也は、とろとろと下りてくる目蓋を思い出したように持ち上げては、とぎれてばかりで意味のつながらない一場面をぼんやりと眺めた。
椅子にした男の身体はここちよく、かたく、あたたかく、きもちよく、やわらかく。まるで氷室のためにこしらえたかのように、氷室の身体をひしと囲っておだやかな眠りを与える。
弟のひらいた脚のその奥にはさまるようにして、氷室は身体を預けている。膝を立てた、ジーンズを履いた脚が氷室の両脇をかこっているのが心をおちつかせた。
背にした上体の厚みが呼吸し、しずかに揺れうごき、ときおりちいさなため息を漏らすのが好ましい。
自分以外のだれかの、ひとはだに直にふれあい、かさなり、心まであけわたすことの、圧倒的な安楽。なにものにも代えることのできない、たまにしか味わうことのできない、静かなひととき。
氷室が背にした身体は、ソファの脚をせもたれにしている。だから、いくら氷室がよりかかろうと倒れることはなかった。
場面がきりかわることで点滅する光源のまたたきすら、氷室を眠りへいざなった。ほそくほそくひらいた瞳の先で、映画がいまだ物語を紡いでいることだけを理解する。
窓を一枚隔てた先ではしとしとと雨がふっている。弟のこしらえた昼食を消化し続ける氷室の臓腑は、氷室にひなたで寝転がるような微睡みのみを与えた。
眠りに導かれるままにちいさく頭をふったせいで、左に垂らした前髪がさらさらとくずれていく。右目にかかりかけた重い黒髪を、氷室のものではない指が静かに払った。かすめるように額にその指先がふれ、氷室はちいさく声をもらす。
持ち出されなかったボールは空気をたっぷりとこめたまま、リビングの床に転がっていた。弟の通う高校の体育館の鍵は、職員室にしかないのだという。氷室の財布の小銭入れには、とある高校の体育館の、あるはずのない二本目の鍵がすぅすぅと寝息を立てているのだが、用いるには弟を秋田にまで連れ出さねば。
いっそ、さらっていってしまおうか。
大きなくせに肝心なところでとまどうあの手を引いて、どこまでもどこまでも、氷室の望むところまで。
そうすれば弟はなさけない顔をして、きっと今度は彼から、氷室の手をにぎってくれるはず。
彼のために用意された何千何万何億もの選択肢を無に帰すことができるのは、きっと、氷室辰也だけ。
そう振る舞うだけの厚顔さをよそおうために、氷室はもう躊躇しない。
「タイガ」
氷室を伺おうと、傾けた弟のうなじに手を伸ばしてくちづけた。朽ちることを知らないみずみずしい果実のような頬に、くちびるを押し当てる。たったそれだけの軽いものであったのに、弟ときたら電池を抜いたようにすとんと動きを止めてしまった。
下敷きにしたえりあしが氷室のてのひらをつついている。氷室のもちえない硬質な髪が、またいつかのように伸びてきたことを知らせている。肌をつつき、存在を主張する弟の髪を、氷室は愛していた。
なにからなにまで異なる弟の、男の、幼なじみのすべてを、氷室は好いている。氷室はきりりと輪郭を持った弟の顎をなぞった。確かめるように手をすべらせていけば、ようやく弟は声を出す。
「た、つや?」
下顎の頂点のあたりを舌でなめた。どこか塩気のある、だがそれだけではすまないなにかの味がする。弟の肌のあじ。おとうとの味。氷室は熱に浮かされるまま弟に向き合うと首筋にくちづけた。うすいシャツの襟からのぞく、あらわになった肌にくちびるを這わせては音を立てる。
せりでた鎖骨のかたさ。太めの首は幹のようにがっしりとして。銀紙のようにやわなシャツの下には厚い胴部が広がっているのを知っている。
「ねむ、いんじゃ、ねえの」
とまどいをそのまま乗せた弟の声を、氷室は鳥のさえずりと同じくして耳に入れた。重いはずのソファが押されてフローリングの床をすった音も。
ねむいさ、そうともとてもねむい。
いますぐにでもねむってしまいたくて、意識をてばなしてしまいたくて。それでいておまえも欲しいんだ。
つきにいちどの、ふたつきにいちどの、みつきにいちどあるかないか。
たったそれだけの逢瀬で二十四時間未満しか同じ時間を共有できないなど。
たりない。足りない。足りるはずがない。
我が物顔でたくさんのキスをして、すきなだけ肌に触れて、この男をかたちづくる全てを覚えて帰りたい。
睡魔はときとして理性を遠ざける。いまの氷室はまさにそれだった。
「人をダメにするクッション……」
匂いたつ弟の胸元に顔を埋めたままとろとろと蜜のしたたるように漏らせば、座布団がわりにされた彼はぽつりと。
「……クッションになった覚えはねえけど、タツヤ限定ならなってもいいぜ」
「ついでに専用になってくれるか」
「あんた以外に誰が俺をクッションにすんだよ」
まばたきをするたびに睫毛のさきで肌をつっつく姿勢のまま、陰になってみえない弟の顎から先を思う。
ふてくされているのか、てれているのか、はずかしがっているのか、それから。
氷室は体重をかける向きを、ソファから床へかえる。頭だけはぶつけないよう静かに、ちゅういぶかく七センチだけ高い背丈を板張りの床にころがせば、こちらを見上げるそれはまんざらでもない様子で。
弟の身体にかさなるようにして倒れた氷室のくちびるの落ち着き場所は、たったひとつしかなかった。
互いに舌をからませるまえに身体ごと起こしてしまう。弟の股にまたがったまま点滅する画面を明かりにし、氷室の右手が己のシャツの裾をめくりだす。
みせつけるように晒した素肌の向こうでは、スタッフロールが流れていた。
弟のくちびるへ届かなかった舌先が、誘うようにうわくちびるをなぞった。
「このまま俺をダメにしてくれ、Bro.」
火氷深夜の真剣創作一本勝負
お題「映画」
タイトルはサンタナインさまから