頭ん中にずーっとお前がいたんだ。お前の頭ん中にいたって、不思議はねえさ。
心地よい風が頬を撫でていった。揺れた青竹がさざめく。砂里を踏むように、風が抜ければ竹がしなる。
よく育った真竹が景色を囲っていた。あまりによく育ったものだから、辺りの景色をすっかり覆ってしまっている。はるか見上げる先の枝葉によって日差しは色を無くしていた。地に届く頃にはぼんやりとした薄明かりを残すのみ。
庭を設えるための生け垣と称するには、それはあまりにも猛々しく太かった。人の手が入っていない景色は、縁側に面した裏山といった様子。ともすれば、山の住人が足を踏み入れることも有り得るだろう。鹿やら猪やら。
だが、その分ここは静かだった。この縁側に腰掛けて真正面を眺める限り、人間の創り出した直線的な景色は遠く、人間社会というものから隔絶されている。
人間の気配を断った風景は心地よかった。
斬るものも守るものもない。ここにあるのは己を映す鏡のごとき景色のみ。
木漏れ日のみを明かりとして開かれた縁側はさほど広いわけではなかった。それでも飴色に照った年代物の板はよく手入れされ、木の葉一枚泥ひとつない。
ここが茶屋であるのか、それとも旅館であるのか、はたまた個人の家なのか。六平千鉱は己の背からつづく景色を確かめようとしなかった。興味すらない。考えを巡らせる必要もない。己の視覚で知覚できる範囲だけ、把握できればそれでよかった。
下手に振り向けば何が起こるか──何も起こらなくとも、凡庸な結果であろうと、この場でリスクを増やしたくなかった。
熱い茶を啜る、低いそれ。人間ひとりぶんの距離を設けて下手に腰掛けた男が立てる。飾り気のない、普段使いの無骨な湯飲み。玉露のはずがない。玄米茶やら焙じ茶やらその類いに違いなかった。己の傍らにある同じものに口をつければわかるだろう。
うなじを隠す黒髪の先はまだ湿り気を帯びていて、濃く映る。白地に紺の矢絣の寝間着に、錆浅葱の羽織。襟から極道の証拠が覗いていた。質の悪い豆腐のような肌をしているから、一見湯治客に思える。これで湯浴みが好きとは。
男は湯飲みから口を離すと、ふぅと小さく溜息を漏らした。その瞳に殺意はなく、他意も敵意も覗えない。
飾り気のない素を曝け出している。その眼差しは先までの己と同じように、目の前の竹林へ向けられていた。
男の茶の傍らには陶器の皿に添えられた団子。いつかの三色ではなく、いずれも蓬。萌葱色に染まっているというのに餡子のひとつもないのだから、苦いに違いない。しかし、この男が口をつけたのだから、コシはあるのだろう。もしかすれば甘いのやもしれぬ。
手持ち無沙汰だったのだろうか、きれいに食い終わった竹串が一本。こちらの傍らにも同様の茶と茶菓子が用意され、己が手をつけるのを待っている。
いつかの繰り返し。
そう、これはいつかの繰り返し。
繰り返しなどあるはずがないというのに。
「よお」
ようやくこちらを向いた男は憑き物の落ちた顔をしていた。目の下の特徴的な痣──隈とも言える──はそのままに、しかし確かに険のない顔をしている。目的を失った武器屋の素顔は、案外人懐っこく幼い。
汚れを落とし、こざっぱりと気楽な身なりの男に対し、こちらは変わらぬ普段の姿。砂と埃を被り、血で染めた父のための喪服。父と共にあった確かな日常を弔うための喪服。
形見だけがない。
「墓から蘇った奴よりも酷え面をしている。鉄分を取って風呂に入れ。ヘモグロビンを増産しろ。今のお前は死人よりも死人だ」
揶揄い混じりに唇を捻る。紙粘土のような血の気のない肌をした男に言われる筋合いはない。千鉱は露骨に顔をしかめた。
「『なぜお前が、』」
示し合わせたように男と同じ台詞を同じ調子で口にしていた。いいや、この男が千鉱の台詞を奪ったのだ。まるで千鉱の腹の底を撫でるように掬い上げて。
口をつぐんだ千鉱に対し、男は言葉を続けた。千鉱が最後まで口にしたかった言葉を。
「『なぜお前がまだここにいる?』 別にいいだろう、お前とは一度茶を嗜んだ中だ。腹を割って話をした仲だ。お前、今まで俺みたいな奴と出会わないどころか、俺みたいな茶飲み友達がいなかったんだろう?」
男は己の言葉に気を良くした。愉快に細めた瞳に、己が映る。
「『友達』、で、いいか? 俺は歓迎だ」
水を多量に含んだ、ぼやけた墨のような瞳だ。掴み所がないくせに、確固とした輪郭を持つ。
男が得意げに『友達』を自称したものだから、ますます千鉱は顔をしかめる。以前はこの男の言葉に惑い、己の信念に揺らいだ。
作り手が関わることができるのは、所詮、物を完成させるまで。使い手の扱いにまで干渉することは不可能だ。時に、使い手によって作り手の思いも揺らぬ真価を発揮することもある。
物は使われてこその物だ。そして父が打った刀──七振りの妖刀は、いずれも殲滅のためにこの世に生まれた。
刀を握る者誰もが制作者である父の代弁者ならば、千鉱もまた代弁者だ。
誰よりも父の傍で父の近くで父の意志を受け継いだ己が代弁者とならなければ、父が生きた証を父の思いを無碍にされる。
私利私欲で父の刀を振う、浅ましい畜生どもに。
以前、この男と対峙したときの千鉱は必死だった。この男に呑まれれば後がなかった。
だが今、この男を前にして感情を隠しても無意味だ。何の効果もない。
双城厳一──この男はとうに死んでいる。爆散し物言わぬ肉片となった。なにより、この男に致命傷を与えたのは千鉱だ。この男が対話を重ねた父の刀は千鉱が折り、もはや僅かな余命を残すのみ。
この男はただの亡霊だ。
この男には、もはや何の手立てもない。
だからだろう。男は皮肉屋の素顔を生き生きと千鉱に向ける。男が背負っていた荷は千鉱が全て斬ってしまった。
「あまりにもお前がシケた面をしているから、慰めてやろうかと思ってね。こうして化けて出てきたわけだが──」
唇が弧を描く。勝ち誇るように。
「『お前の父』は、お前に余程業を背負わせたいと見える。だからこそ一足先に逝ったのか?」
あれほど熱心に固執していた六平国重の名を口にしない。その意図を千鉱は理解した。
まともに相手をするのが面倒になってきた千鉱は、傍らの茶に口をつけた。毒を入れられたところでどうとなるものではない。熱い茶が喉を通り、胃に落ちていく心地に和む。
やはり焙じ茶だ。気取らない茶菓子にはこれがいい。
「減らず口は変わらず、よく囀る」
「お前が無口なんだ。いや、別にお前は無口ではない。口数が少ないだけだし、別にお前は口数が少ないわけではない」
考え込むように双城は顎に手を当て、千鉱を眺めた。射貫くようなその眼差しを千鉱はまともに受けた。
「お前はただ、自分を表に出したくないだけだ。そうすれば、お前は傷つかずにいられる」
正誤どうであろうと、この男は千鉱の腹を弄るのが得意だ。誰にでもこうなのだろうか。
面倒な隣人を相手にする調子で、千鉱は双城に付き合った。ここで中座すればこの男は追いかけてくる。また顔を合わすよりは、この場で片付けてしまいたい。
縁側に伸ばしていた片脚を曲げ、縁側に乗せて座を崩す。不思議と双城の瞳は真っ直ぐで、そこに揶揄はない。
この男は見たままの千鉱を述べている。
「毎日毎日、過去の復讐と復讐の現在で、腸が煮えくり返っている。心を許せば裏切られ、思いを伝えれば否定され──修羅の道だ阿修羅の道だ。お前が望んだとはいえ、お前が少し、ほんのすこし、可哀想に思えた」
嘲りはなかった。皮肉も。ただ、目の前の事象を見たとおりに口にしている。
ざんばらな前髪を通して、千鉱という人間を見ている。
薄墨のごとくぼやけた瞳が己に注がれる。
この男の同情心に嘘はないだろう。
だからこそ、千鉱は閉口した。
斬った相手に情を掛けられることなどあるだろうか。
本音を吐露する気にはならなかった。だから、この男に壁を作る。
「嘘をつけ」
「いいや、俺は──前も言ったが、敬意を払う相手は尊重する。こう見えても、」
水面に映った像が崩れるように、男は自嘲に顔面を染めた。千鉱はそれが男なりの照れ隠しではないかと感じた。
口に出してなどやらないが。
「こう見えても、大勢の人間を従えて、お前が毛嫌いする種類の人間と取引をしてきたんだ。人並みの感情も慈愛もある。お前よりもずっと、ずっと、『人間』としての経験を積んできた」
ありったけの嫉妬と羨望に顔を歪ませ、千鉱にぶつける男の主張は、しかし正しい。
父親とその友人を中心に、隔絶された世界で人生の大半を過ごしてきた世間知らずはこちらだ。
だが、それが何だ。
千鉱は胸を張って答えることができる。父と過ごしたあの日々は、決して劣るものではない。父は確かに千鉱を、目の前のこの男よりも真っ当に育ててくれた。
父が千鉱に伝えたかった信念と責任を、父は確かに教えてくれた。
だからこそ千鉱は己の正義を貫くことができる。
「想像で語るな。お前は何も知らない」
「的を射ちゃいねぇか?」
「お前が射貫く的はない。下ろした」
曲げた片脚に肘をつき、愉しげにこちらを見やる。
ざんばらの前髪は簾のようだ。そう指摘すれば怒るだろうか。
「お前を気に入っているんだ。お前はそうではないだろうが──こうしてお前の下に化けて出るくらいには、気に入っている」
「不愉快だ。反吐が出る。できることならもう一度斬ってやりたい」
「連れないことを言うなよ。ここには俺とお前しかいないんだ。お前と俺だけなんだ。せっかくの地獄なら、楽しんだもの勝ち。だろう?」
随分と心地のよい地獄だ。千鉱は茶に口をつけた。熱い茶が千鉱を落ち着かせる。どれだけこの男に罵倒を投げられようと、茶と茶菓子がある時点で無意味だ。双城は気付いているだろうか。千鉱は双城を躱す術を身につけてしまった。今の彼は、まさしく愉快で面倒な茶飲み相手だ。
「お前は何もかも独りで抱え込む。それがお前の強さでお前であり続けるための手段だが、いつか壊れるぜ」
千鉱の腹の底を探り当てたように得意げだ。こんな友人がいたら、面倒を見るのはこちらだろう。父とはまた別の面倒さだ。
もし父がこの男を見たら、悪い友達だと騒ぐだろうか。
わからない。家に友達を連れて来たことはなかった。
父が生きている間に友達を作ったこともなかった。
今も。
「壊れればいい。俺が納得する形で、奴らにわからせることができればそれで。それに──」
友達はいない。千鉱の周りにあったのは、父の友人と父の知人だけだ。金魚でさえ、父が購入した。
千鉱のものと言えるものは形見のほか何もない。
だが。
「俺に友人はいないが、仲間はいる」
俺を必要とし、俺を肯定してくれた、仲間が。
気付けば千鉱は微笑していた。舌打ちした双城は途端に拗ねる。心を許す人間ができたことに腹を立てているのだろう。千鉱をずっと己のモノだと思っていたのだろう。己だけが千鉱を理解できると。
しばらく顔を出さないからこうなる。とても享年三十とは思えない。己の周りの大人はみなどこか子供っぽいから不思議だ。
「『■』でわかるだろう。必ずしも誰もがお前の期待に応えるわけじゃねェ」
「それでいい。人間はそういうものだ。『人間』として育ったお前が知るように」
串の箸から団子を抜いて噛んだ。見た目通り、蓬がよく効いていて旨い。甘みは薄いが、なるほどこの男が用意するだけはある。
心地よい歯ごたえを楽しみながら、双城を見やった。苦虫を噛み潰したように苛立ちを湛え、悔しさに唇を結んでさえいる。
この男はこうもわかりやすかっただろうか。生前の奴はよく知らない。何せ、刃を交えた時間の方が長いのだから。足りない部分を主観で埋めている。これはいけない傾向だが、仕方あるまい。
何せこの男は亡霊だ。
もはや何もできないのだから。
双城は不貞腐れてはいるものの、捨て台詞のように千鉱を誘った。誘うというより、もはや命令だ。
「お前も湯に浸かれ。俺が付き合ってやる。茶飲み友達から湯浴み友達へ格上げだ」
「死んでも御免だ」
「もう死んでいる」
そこで目が覚めた。
馬鹿げた夢だった。
双城が化けて出るはずなどない。
妙な夢を見た。過去ではなく、作りものの夢。
嫌な動悸も嫌な汗もかいていない。
死んだ人間が怨みもせず出てくるのはめずらしい。
「お前のせいか?」
折れた刳雲に声を掛ける。
鞘に収める必要はなかった。柄に残ったのは僅かな刀身のみ。もはや短刀ほどもない。
父が見たら──いや、よそう。死んだ人間の思考をなぞろうと躍起になることほど、愚かなことはない。
掴まぬ刀は黙した。掴む気はない。対話をすべきは今ではないのだから。
眠りを邪魔された千鉱は部屋を出た。夜風にでも当たらなければ、夢との境目がわからなくなりそうだから。