また、会いましょうね



 祝日とあって、デパートの屋上遊園地は親子連れで賑やかだった。はしゃぐ子供の声があちこちから木霊する。雨が降る気配もない青空は夏の陽気を振りまいて、地上を肌を差す陽光で満たそうと決めたらしい。
 落下防止用のフェンス越しに眼下を眺める沙代の背に、水木は近づいていった。夏らしい白地のワンピースの裾が風になびき、すっとした少女らしい両脚が伸びる。赤いリボンで結った黒髪がさらさらと揺れる様をいつまでも見ていられた。
 遊具のない屋上の一角は休憩用のベンチが並ぶ。喧騒から離れたこの場所は、銀座の街並みが一望できた。路面電車がおもちゃのようにレールを走る。背の高いビルディングがひしめき合うさまは、宝石箱に並べた宝石のように整然として美しい。舗装された道を着飾った人々がそれぞれの目的に沿って歩く。
 沙代を盗み見れば、百貨店の屋上から見渡せる都会の街並みに目を輝かせていた。頬を高揚させ、見たことのない貴重な宝物を見るような面持ちで喜んでいる。
「素敵……!」
「どうです、銀座が一望できるでしょう。せっかく東京に来たんだから、沙代さんにこれを見せなくちゃと思いまして」
 背広の懐に入っている煙草を取り出し、先をトントンと箱に叩いてから火をつける。口につけて深く深く煙を吸った。ニコチンの渋さが心地よい。肺の奥まで煙を取り入れて、気持ちよく吐き出す。
「仕事で疲れたときにね、たまにここに来るんです」
「まあ。それでしたら、ここは水木さんのとっておきの場所ですのね」
「沙代さんならきっと、気に入ってくれるかと」
「ええ、とても素敵……。東京って、世界って、こんなにも広くて、豊かですのね」
「全てが良いわけじゃありませんよ」
「でも、この街の無関心さが私には心地良いんです」
「そうですか」
 沙代の言葉は、東京を目指してやって来た田舎者の台詞そのものだった。顔も覚えていない連中から似たような台詞をどれだけ聞いたかわからない。東京が世界そのものではないし、日本一の都市でさえいつかは飽きが来るものだ。それでも、沙代の言葉には深い実感が籠っていた。
 地方の僻地で生まれ育ち、出ることも許されない彼女には、東京などまさしくお伽噺そのものなのだから。
 彼女は長い髪とともにワンピースの裾を翻して、水木に微笑んだ。村とは異なり、彼女には自信が満ち溢れていた。それは彼女のような年齢の若者ならば誰だって抱く、若さゆえの傲慢さが招くものだった。しかし、それを誰が彼女に咎めるだろうか。
「この街でなら私、なんだってできそうですわ」
 躊躇うことなく言い放つ彼女は美しかった。宣言通り、彼女は自分の力で人生を切り開いていくことだろう。
 水木は時弥を連れてこれなかったことを後悔した。小さな村と家族が世界のすべてでしかない彼にも、この景色を見せてあげたかった。
 彼に色とりどりの遊具を見せれば、どれだけ喜んだことだろうか。
 テーブルに座る両親の下へ急ごうとして、走っていた子供が転んだ。手をつく間もなく顔から転んだ男児に、沙代が慌てて駆け寄る。額を擦り、血を滲ませて涙ぐむ男児にハンカチを当て、しきりに心配していた。すぐに駆け寄った子供の両親が沙代に礼を告げる。
 くゆらせた薄煙の向こうで繰り広げられる一幕を水木は眺めた。自分には縁遠い光景が繰り広げられていた。
 風に己の黒髪が揺れ、水木は前髪を指で払った。
 

 
 高い天井からはシャンデリアが下がり、円いテーブルにはどれも真っ白なテーブルクロスが敷かれ、まさしく高級洋食店そのものの店構えだった。水木は仕事の付き合いでかつて訪れたことがある。まともな料理店ひとつない村とは全く異なる環境ではあったが、店に足を踏み入れた沙代は感嘆のため息を漏らすだけで物怖じひとつしなかった。
 店員の接客にも動じず、メニューを興味深く眺めていた。山の手のお嬢様だと称しても疑われないだろう。外に出すことがなくとも、外に出された時の振る舞いは教えられていたということだ。彼女の殊勝な姿が、水木には痛ましく映った。
 給仕によって恭しく運ばれた待望の甘味を前に、沙代は声を震わせた。
「これが……クリームソーダですのね……! クリーム、というのはアイスクリームのことでしたの……」
「ええ、溶けない内に召し上がってください。ここの店は日本で初めてソーダを出したパーラーです。なんでも、グラスやらストローまで、アメリカのものを使っているとか」
 それは彼女の期待を裏切らないものだったのだろう。新しい玩具を前にした子供のように、鮮やかな緑色のソーダの底からしゅわしゅわと上る気泡を眺めている。紙袋の封を千切り、取り出したストローをグラスに沈める。
 とぷん、と底に沈んだストローすら沙代の興を満たすものであった。期待に胸を膨らませて、恐る恐るストローに口をつけ、ソーダを啜る。
 彼女は驚きとともに喜色を露にし、満面の笑みで潤んだ瞳を隠した。水木の唇に安堵と喜びが宿る。ストローから離した口に手を当て、驚きのままに叫ぶ。
「美味しい……! 甘くて、みずみずしくて、どこか切ないですわ」
「沙代さんに味わってもらえるクリームソーダが喜びますよ」
「アイスクリームをソーダに入れて飲むなんて、贅沢ですわね」
「贅沢をしていいですよ。ここはオムライスも旨い。銀の皿に乗ってくるんです。卵が甘くて……」
「私、ずっと夢見ていたんです。夢の中の私は、見たこともない東京で話に聞くクリームソーダを飲んで、誰の目も気にせず好きなことをするんです。辛いことがあった夜ほど、東京の夢を見ました」
 鶴の首のように細くて長い銀のスプーンを手に取り、ソーダから覗くバニラアイスを掬って、こぼさないようすうっと口元へ運ぶ。
 それがどれだけ彼女には甘かったのか。頬を紅潮させて、きゅうっと目を瞑った。バニラビーンズの香りをどこまでも辿るように、じっくりと舌で味わってから、ほうと息を吐く。
 憧れの品を楽しむ喜びに沙代は満たさられていた。味わってしまってなくなるのが勿体ないとばかりに、手をつけずに目で楽しんでいる。沙代は惚けたようにつぶやいた。
「キャンディとはまったく違う……。同じ氷菓であっても、こんなに違うんですのね……」
「おっと、沙代さん」
 水木は指を伸ばして彼女の唇の端についたクリームを拭った。濡れた親指をそのまま舐め取れば、その様を沙代は恨めしそうに表情すらこわばらせて見ているのだった。そこで水木はハンカチを使うべきだったかと思い至る。
「すみません、ついていたもので」
「……すっかり慣れてしまいましたのね」
 華奢な銀のスプーンがナプキンの上に置かれた。沙代はテーブルの上で手を組み、歌うように語り始める。
「私、水木さんに約束してもらえて、本当に嬉しかったんです。お爺様が亡くなって……突然現れた水木さんはお話の中の白馬の王子様、そのものでした。だから、いいんです。水木さんが私を忘れても、私は水木さんを忘れません」
 さほど日に当たった様子のない白い手が、水木の手に触れる。水木の右手に巻かれた腕時計のガラスには皹が入り、針は止まっていた。
 水木には沙代の肌がどれだけ暖かかったか、覚えていなかった。ただ、彼女の幼さに似合わないほど着こなした喪服と肌の白さがあの村では眩しかった。
 彼女はあの村であの家で、子供でいることを許されなかった。
 あの家が頭首の思惑通りに機能するための部品であることを、強要していたのだから。
「私は何度でも水木さんに東京へ連れていってもらいますし、水木さんは私を東京に連れていきます。いつまでも、いつまでも」
 水木に触れていた柔らかな手は、肉すら落ちた白い骨に変わる。退魔の炎の中で骨を支える筋繊維すら燃えたというのに、水木の思い描く沙代は美しいままだった。
 顔を上げれば沙代が目さえ瞑ってにっこりと微笑む。大輪の白百合が咲くように水木に示したそれは、釘を刺すためのものであった。
 目で見えていても見ないふりをすれば、なかったことになる。
「また、会ってくださいね」
 

 
 寝苦しさを感じる間もなく目が覚めた。寝間着の襟といわず背といわず、ぬるい汗で湿っている。暗闇に見覚えのある天井が透けて見えるのを確かめる内に、自宅だと理解した。全力で走り終えた後のように荒い息を、布団の中で忙しなく繰り返していた。
 首を手で押さえている。そこに何かがあったかのように。
 自分の呼吸がうるさく感じなくなったあたりで、布団から身体を起こした。
 何か、恐ろしい夢を見ていた。何か、しなくてはいけなかったことを夢に見ていた。
 感傷にも似た後悔が身体中に満ちているが、なぜそうした気持ちになるのかわからない。
 水木は縋るように首に当てていた手を、引き剥がすようにして下ろす。隣で寝ている鬼太郎を探せば、潰れていない片目でじっとこちらを見ていた。
「父さん、辛くない?」
「……起こしたか?」
「僕が勝手に起きただけ」
 水で濡らしたように汗ばんだ手を拭うことなく、鬼太郎の頭を撫でた。この子にはきっと見えているのだろう。水木にはわからないが、鬼太郎は人が見えないものを感じる力がある。しかし、鬼太郎が噤んだことを尋ねるのは野暮だと感じた。
「強がるなよ」
 
 明かりをつけた洗面所で顔を洗った。
 顔を上げて鏡に映った自分の顔が、ほんの一瞬、髑髏に見えた。肉がすべて腐り落ちた、きれいな白骨を晒す髑髏に。瞬きをする間に、鏡に映るのは濡れた情けない自分の顔になっている。老人と見間違う白髪を乱して。
 誰に聞かせるでもなく、ため息をついた。
 タオルで顔を拭った後、何もないのに首をさすった。痣も痕もついていない。それだのに、首に触れずにはいられなかった。
 
 一連の騒ぎで目を覚ました目玉おやじは鬼太郎の肩に胡坐をかいて話を聞いていた。水木が悪夢にうなされるのはこれが初めての事ではない。おそらくは鬼太郎を迎える前から、始まっていたことだろう。
 物心がつく前から、鬼太郎は水木の悪夢を気に掛けていた。こうして自分の考えを言葉にできるようになってからは、必ず目玉おやじに悪夢の原因を訴える。目玉おやじとて、水木の悪夢の根源を理解していた。理解しているからこそ、手を出せない。
「父さん。父さんには父さんが生み出したものが憑いてる」
「いいんじゃ。あれはあいつが背負いしもの。わしらが祓ったところで、また生み出す。酷じゃが、あいつはあいつなりに、自分を罰しようとしているんじゃろう……」
 果たせなかった約束。守れなかった人間。導いたのが水木であっても、招いたのは水木ではない。
 鬼太郎に十分な力が備わった暁には、思い出の地へ足を運ばなくてはならないだろう。
 自らの生い立ち。どれだけの愛を注がれて生まれ落ちたのか。
 その日に水木がいることを目玉おやじは願わずにはいられなかった。