心臓が持ちません
「テツくん」
並べた枕に頭を乗せて、とりとめのない話を続けた。そうして不意に訪れた沈黙を眠る頃合いと、布団のぬくもりに身を委ねたところだった。あちらからタオルケットのずれる音が、さざ波のように聞こえた。
「テツくん」
彼が口にしたにはどこか舌足らずだった。てつくん。同じ言葉を同じ声で二度聞いたのだから聞き違いではない。天井に向けた視線を横に下ろしたところで闇が晴れるわけではない。しかし確かな人の温もりと、こちらを伺う息遣いまでわからなくなることはなかった。あちらも黒子と同じように枕に片耳を乗せて、闇の向こうからこちらを伺っている。そうした気配がする。
黒子に対しおよそ聞き覚えのない呼び方をした氷室は、その後を続けることなく放った。そう呼ぶことが目的だったように。
てつくん、と。呼ばれたことに対して、返事をしそこねてしまった。返事を求められていたのかもわからないが。驚く、というより、呆気にとられてしまった。
中学の頃から桃井に呼ばれた呼び方であるから、それが黒子を指すものだとすぐに理解できるし、他の人間から呼ばれたからといって唖然とすることでもないし。だのに、こうもうまく頭がまわらないとは。理由は単純明快で、彼が、隣にいる氷室が口にしたから。
当たり前に呼ばれていたから気が付かなかった。こうも人に、いいや黒子に甚だしい衝撃を与えるものだとは。いまさら気づいたところでどうにもなりやしないが。
「だめだった？ じゃあ、てっちゃん、はどうかな」
それで氷室が黒子の呼び方を探っていたことを理解する。『テツくん』で終わる呼びかけも、『てっちゃん』という問いかけも。
しかしそれにしたって、この頃合いで尋ねてくる人がいるだろうか。
「脳に虫が入ってバグりましたか？」
「ｂｕｇだけに？ ユーモアのある返し方だ。エラーがあれば直してくれるの？」
「……氷室さんが望むのでしたら前向きに。氷室さんにとって何が不具合なのか、僕には判断つきませんが」
「あはは。いいね。黒子くんのそういうところ。俺はすき」
薄闇の向こうで確かに笑みを浮かべたのだろうと思う。この人はときどき言葉と表情と感情が一致しない。それが顕著であるから、処世術というよりは癖になっているのだろう。
「すみません、話が一向に見えないのですが」
「俺たち付き合ってもう四ヶ月も過ぎたじゃない？ 黒子くんって呼ぶと舌がこんがらがりそうで、新しい呼び方が必要な時期に差し掛かってきたんじゃないかって思って。それで、しっくりきたのがテツくんだったんだけど」
「はあ」
「テツくん」
隣り合うタオルケットの裾から伸ばされた足が、黒子のそれに絡む。重なった足の指から伝わる、異なる体温が妙に心地よかった。それでも、聞き慣れない呼び方は黒子を困惑させるに十分だった。心がざらついて、それでいて妙に弾んで、身体のどこかがほてったまま落ち着かない。
「テツくんは、」
「あの、えっと。ひとまずその呼び方はやめてください。落ち着きません」
「そう。じゃあ、くろこっちは？ 黄瀬くんが言っているだろう。どうかな。くろこっち」
「無性に殴りたくなってきました」
「血の気が多くていいね」
「いやです。謹んでお断りします。やめてください」
「残念」
新しい呼び方を考えるというのは方便で、困る黒子の反応を楽しみたいだけなのではないかと思えてくる。そうであっても、『黒子っち』で呼ばれることは遠慮したい。黄瀬が気に入った相手にのみ対する『～っち』は、彼だけには仕方なくそう呼ばれるのを許しているだけであって、これ以上その呼び名が浸透するのは控えたい。
「くろちん、はアツシと被るし、くろこ、だとタイガと被る。テツヤは？」
初めて名前で呼ばれたのだ、平時でいられるはずがない。飲み込みそこねた唾液を意識して飲み込んで、一息ついてから返事をした。ずっとほてっている耳が熱かった。部屋の明かりを消したあとで良かったと安堵する。
「……いまみたいな、ふたりきりのときならいいです」
「照れなくてもいいのに」
「落ち着かないんです。名前を呼ばれるのは家族と僕君の……もうひとりの赤司君だけで」
「テツ」
どう返事をしようか困った。思い入れのある呼び方で、それで黒子を呼ぶのは一人しかいない。わずかな沈黙を氷室は可と受け取ったのだろう。
「これがいい？」
「いえ、特には」
「うそつき」
絡んだ指をぎゅうと挟まれる。心臓が一瞬止まったかと思った。
「これがいいんじゃない」
「だめです」
「なんで」
「……氷室さんに呼ばれると慣れません」
そう返すのがせいぜいで、早くこの問答が終わらないかと願った。黒子の心のよわいところを的確に突いて広げるのが、彼は上手だ。氷室と交際した相手は長く続いただろうか。
「どれも慣れないんだね。どう呼ばれても慣れないなら、俺の呼びやすい呼び方で呼ぶのが、この場合一番だと思うけど」
黒子の煮え切らない態度を受けて、彼は計算式の答えを述べるような口調をした。緩急の付け方がどうしてと思うほど彼は巧みで、黒子よりもずっと年上に感じることが多々あった。他人を掌握することに慣れていて、迷いがない。黒子にははぐらかすことしかできなかった。
「急にたくさん呼ばれるんですもん、びっくりしますよ」
「なるほどね。そうか、それなら俺もまだ考えてみようかな。黒子くんが納得する呼び方を」
「そうしてください。再考の余地は多分にあります」
「ねえ、どれがよかった？」
「もう遅いですし寝ましょう。明日、氷室さんを駅まで送っていきます」
「ありがとう。そうだね、寝ようか。」
互いに口を閉じて、薄闇に目蓋を委ねる時間となった。それでも氷室は絡めた足指を離すことはなく、汗ばんだ肌が互いに吸い付くようにいつまでもあった。ほどなくして寝息が聞こえ始め、黒子はようやく生きた心地がした。
実のところ、「くろこくん」と、舌足らずに呼んでくれるのを存外に気に入っていた。彼に呼ばれると、クラスメイトに呼ばれるものとは全く異なる意味を持った。舌を噛んでしまっても構わないから、このまま『黒子くん』と呼び続けてくれないだろうか。妙にしっくりときて、落ち着いて、彼から呼ばれるのであればそれがいい。
『テツ』と呼ばれると、どうにも心がざわめいて、まともではいられない。中学の思い出が塗りつぶされてしまうような気がするのはただの言い訳で、彼にあれで呼ばれてしまうとどうにも色恋を意識してしまう。名前を呼ばれただけなのに口説かれているような、感傷染みた期待が宿る。
「……僕も、呼び方を変えてみるべきでしょうか」
寝息に向けてひとりごちる。彼はきっと名前を呼び捨てにしても、平気で抱きしめてきそうだった。