新手の拷問ですか?



 たちゅや、たちゅたちゅ。
 たちゅっ、たちゅう。
 たちゅやぁあ、たちゅやああ。
 
 赤ん坊が並んでいるわけではないし、火神大我が幼児化して分裂したわけでもない。
 黒子にわらわらと集まるそれらは、ダンゴムシのようにもダイオウグソクムシのようにもイモムシのようにも見える。頂きたる空色の頭を目指してよじ登ろうとしたり、跳ねて膝に乗って小さな手足で這ったり、靴下を穿いたつま先を嗅いだり。菓子に集う蟻のようにまとわりつく三体の危険生物を、菓子たる黒子は一瞥した。それらは一様に相棒である火神を模し、黒いユニフォームを着込んでいる。アウェイ用の見慣れたユニフォームの背番号は、きっかり一〇番。黒子に這う背はどう解釈してもぬいぐるみにしか見えないが、れっきとした生物である。
 触れれば哺乳類のように熱を持っており、注意深く指で探ればユニフォームを通して背骨の存在も知れる。火神大我と同様の骨格や内臓を持つかどうかは不明だが。そもそもこれらを生み出した火神大我を我々と同じ人間として分類してよいのか、甚だ疑問である。
 タートルのニットを着込んだ腹にぴょんと跳ねてついた一匹を、黒子は虫を扱うように払う。さほど力を込めずに手を動かせば、ぽろり落ちた一匹は「たちゅん」と鳴いて床に転がった。逆さまになったものだから、うまくひっくり返れずに呻きながら藻掻いている。甲羅がなくとも起き上がりにくい形態なのだろう。小さな手足は宙を切るばかり。

「なかなかどうして胃液が迫り上がる景色です」
「君の率直な物言いに救われるところがないわけではないんだ。はいどうぞ」

 この部屋の主のひとりである氷室が、テーブルにマグカップを置いた。白黒な犬の顔が印刷されたそれは黒子専用として買い求められ、こうして黒子の訪問とともに使われている。「ありがとうございます」と礼を述べて、角砂糖をひとつふたつ、湯気の立つ暗い水面に落とした。白い皿に積まれた茶菓子は型抜きクッキーで、どの形が何を模しているのか、わかるようでわからない。丸や星やハートといった典型的な形がひとつとしてないことで、この部屋の主が拵えたものだろうということぐらいはわかった。

「ご飯たべてきた?」
「はい、食べてきました」
「それなら戻すのは固形物だね。ほら、胃液が出そうっていうから。バケツいるかい?」
「本当に、氷室さんは火神君のご兄弟だと思います」
「なんだい今更。わざわざ口に出さなくたって、みんな知っていることじゃないか」
「いえ、なんというか……氷室さんがいたから火神君がある、そう思いました」
「照れてしまうね。後片付けは慣れているから、使いたいときは遠慮なく言ってくれ」

 この会話の流れで微笑を浮かべてはにかむことが、氷室の感性を如実に表している。黒子の言葉がよほど琴線に触れたのか、いつもの愛想笑いではなかった。窓から差し込む陽の加減で前髪の影が顔に落ちている。陰影の似合う人だった。

「平気かい? 床に座ると構いに来るんだ。黒子くんは見るの初めてだっけ」

 テーブルの下を覗き込んだ氷室が飼っている犬猫を相手にする調子で、三匹にくっつかれる黒子を伺う。崩した足に寄るそれらを確かめようと見下ろせば、「たちゅ!」「たちゅ!」「たちゅ!」。三匹とも歓声を上げて一目散に氷室の元へ駆けていった。

「ええ……」
「黒子くんは好かれたんだね。タイガと相性がいいからだよ。青峰くんときたらかじられてばかりでね、歯形だらけになって大変だったんだ」
「好かれるというか、単にもの珍しさで集まっただけじゃないかと思いますけど」
「相棒だからだよ。構ってもらえてよかったな」

 三匹は黒子の時には見せなかった跳躍力で、床から氷室の口元まで、ぴょんぴょん跳ねては沈んでを繰り返す。握り拳大のダンゴムシ状の生物が、「たちゅう!」「たちゅう!」「たちゅう!」などと喧しく鳴きながら行う上下運動。それぞれ異なるリズムで跳ねては落ちる三匹は、黒子に纏わりつく蛾以上の不快を催させた。見る者によっては不快を通り越して恐怖を抱くことだろう。三匹のもっちりとした尻が氷室との間隔を狭めていった。

「ちゅっちゅー」

 唇に留まろうとした一匹を、氷室がタイミングよく掴み捕らえた。転じて他の二匹は氷室の胸元に留まる。ぴたり、ぴたり。その様ときたらゴキブリが壁に留まるようである。「ちゅっちゅっ」などと鳴きながら短い手足でもぞもぞ這うのだから、尚のこと。

「調子に乗るとこれだから困るよ。来客中だろうが」

 犬にボールを投げる、というよりは、ピッチャーがストライクを狙う勢いとフォームで、立ち上がった氷室は手の内の一匹を投げた。廊下の奥で壁かどこかにぶつかったであろう、鈍い音が聞こえる。ついで、ポケットから何かを取り出すと、同じように肩を振るった。途端、服についていた二匹が「たちゅう!」「たちゅ!」などと喚きながら、廊下の奥へ一目散に跳ねていく。
 その様子を黒子はミルクと砂糖で苦さの薄れたコーヒーを口に運びながら、なるほど氷室らしいやり方だと感じていた。物事への対応の仕方といい、三匹のモデルであるだろう火神への対処を思い出しても、氷室辰也そのものとしか言い様がない。
 怖気の走る得体の知れない生き物とはいえ、生きてはいるのだ。生命のあるものを手荒に扱うことに、幼い頃から染みついた道徳心が顔を覗かせる。

「潰れたりしませんか?」
「悲鳴も何も聞こえてこなかっただろ。跳んで回避しただろうから平気。しぶといんだ」
「壁に当たったような音がしましたが……」

 まさしくゴキブリを相手にする口調で閉口するも、氷室はどこ吹く風でポケットをまさぐる。
 腰を落ち着けて黒子に差し出したのは、微笑を浮かべた愛らしいぬいぐるみ。消え失せた三体と同じ大きさで似た形状の、それでいて姿形はあれらとは似ても似つかない。顔の左側を覆う黒い前髪に、白い肌。頬にはうっすらと赤みがあり、口元と目はやさしく見るものを受け入れるように微笑んでいる。どこか幼さが目立つも、それは確かに氷室辰也を模したぬいぐるみだった。

「氷室さん、ですか?」
「そう。これはバージョン二の中学時代の俺。さっき投げたのは高校時代の俺。シュウいわく菩薩だってさ。シュウのジョークがときどきトんでるのは、中学から?」

 氷室のアメリカ滞在時代の友人であり、黒子を含めた当時の帝光中学校男子バスケットボール部の主将であった虹村修造がアメリカで氷室に仏を見いだしたことは、一部界隈では習知のこととなっている。そのうち宗教を興すに違いない。

「あー……そうですね、主将は……苦労の多い人でしたから……救われてよかったです」
「そうなんだ。欲しいっていうから一個送ったよ。もう着いてる頃かな」
「えっ。僕もください」
「え? 黒子くんも欲しいの?」
「だめ、です?」

 桃井にあざとかわいいと称される、上目遣いと口調でねだってみるも、氷室は困ったように眉を下げた。黄瀬や兄の方の赤司であれば、難なく術中に陥らせることができるのだが。

「うーん、黒子くんをかじりはしないと思うんだけど……」
「……というと?」
「これ、あいつら用のおもちゃなんだ。タイガ用ともいうけど。これを与えている間はこっちに来ない。基本、虫よけとして使っているんだ」
「あ、それで氷室さんなんですね。手作り、で合ってます?」
「ああ、タイガがね。だから、俺にいうよりタイガに直接頼む方が確実だよ。俺としては、黒子くんもあいつらに構ってくれた方がずっといいんだけど」

 氷室は眉を下げたまま困り顔で微笑み、自らを模したぬいぐるみを机に置く。虫よけだけに使われるには勿体ないほど、よくできているし愛らしい。あれらを避けるために欲しいのではないし、火神に頼めば二つ返事で手掛けるはずだ。
 あのちいさなぬいぐるみに氷室の持つ魅力が如実に宿っているのは、火神が作っているためだろう。彼の、自身の兄にかける情熱は度を越している。
 しかし家事が得意とはいえ、まさか火神に縫い物の才能まであったとは。明日にでも頼むことにしよう。いや、このまま晩まで居座れば、今日のうちに済む。居座りたいかと問われれば、正体不明の生き物の住処となっているこの部屋に居座りたくはないのだが。

「氷室さんのぬいぐるみに集まる習性があるんでしたら、初めから部屋に出していた方がいいんじゃないです?」
「あいつらが俺のぬいぐるみに何をしているか、見てくるといいよ」
「すみませんでした」

 表情筋は笑みを形作っていても、細められた右目は笑っていなかった。氷室の言わんとしていることが事実ならば、この環境下でまともな生活を送ること自体が常人離れしている。そもそもこの兄弟自体、一般人と同じであったことはほぼほぼない。
 氷室はコーヒーを口につけて、ふうとひとつため息をつく。黒子と違って、彼はコーヒーに何も入れない。面倒なのだと以前聞いた。味を調えるために砂糖やミルクを用意して、自分好みの味に調整することが面倒なのだと。
 疲れた様子の氷室と、テーブルに乗せられた愛らしいぬいぐるみを同じ視界に入れるのは、言語化しにくい贅沢がある。

「この頃のあいつときたら本当に困ってね。定期的に側頭葉を変化させて吐くんだから始末に負えない」
「人外の所業ですよそれ」

 火神大我のやることであるからして、何が起こってもおかしくはない。手のかかる弟のようなものが、手のかかる弟によって定期的に増やされていくのである。世話を一身に任された氷室を思うと、黒子は同情を禁じ得なかった。かといって、ここで「僕も手伝います」などと口を滑らせれば、いよいよ世間の常識から遠ざかることが目に見えている。まだ、彼らの生み出す奇妙な世界に頭まで身を沈めたくはない。あの生き物の世話をしたいかと問われれば、「謹んでお断りします」というのが本音なのだし。 
 テーブルの上を靴下、ではなく、靴下に入り込んだ何かが這い出した。爪先の部分がぺしゃんと潰れて擦るせいで、モグラのようにも見える。それで隠れているつもりなのか、にじりにじりぬいぐるみの中学生氷室へ近づいている。火神の側頭葉が原材料であればクッキーに向かってもよいものだが、情動を司る器官ゆえに兄のことしか頭にないのかもしれない。
 つい目で追っていると氷室は爪先の布地をひっつかんで掲げ、ちょうど宙づりにしてしまった。履き口にいた例のあれは、小さな手でしがみついているのか、顔だけを出して「たちゅう、たちゅう」と哀れな声で鳴き始めた。ときどき靴下を囓るので鳴き声がくぐもる。迫り出た顔に乗った眉毛はきっちり二つに分かれていて、そんなところまで似なくていいだろうにと呆れる。
 やれやれといった調子で氷室は靴下を揺らした。しがみついている一匹が氷室を見て、「たちゅん!」と確かに喜んだ。

「たちゅたちゅ、たぁちゅう!」
「何匹いるのかわからないんだよね」
「今日一番こわい話です」
「増えたら燃やす」
「たちゅっ!」
「外でやってくださいね。ネズミの放し飼いですよ」
「実際そうだよ」

 熱烈な歓迎を受けるも氷室は揺らした靴下に勢いをつけ、その辺に靴下ごと放ってしまう。「たちゅぅう」と叫びながら投げられた一匹は部屋の隅に転がり、丸まった靴下の中で藻掻いた。出口となる履き口がうまく開かなくなってしまったようだ。 
 頬に手が触れた。よそ見をしていたせいで、それが誰だかわかっているのに理解が追いつかなかった。
 ほんの少し高い体温。厚くなった皮にざらつく指。いつだって彼が黒子に触れるのは、いたずらに似たくちづけの前触れで。
 唇を押し当てられた間だけ、薄暗がりの中にいた。黒子の知らないシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。彼が前髪を長く垂らしているせいだ。
 挨拶にしては長く、愛をこめるには短いキスはいつだって彼の都合で始まっては終わる。黒子の湿ったため息を間近で受けても、彼は身じろぎさえしない。
 ほんのすこし出した舌で、自分の唇を確かめるように舐める姿を見せるのは狡かった。火神の前でも同じようにしてみせるのだろうか。

「甘い、ね」
「砂糖とミルクです」
「疲れたときには甘いものっていうし」
「セクハラっぽいですよ、それ」
「じゃあ、黒子くんが甘いの?」
「さあ、どうでしょう」

 次に黒子が何を言うか、期待をしている顔だった。口に出さなくとも彼の微細な表情筋がそうだと語っている。
 おしゃべりなその口を突拍子もなく塞いだら、彼はどんな顔をするだろうか。塞いだところで彼の思惑通りであっても不思議ではない。
 彼の前では何をしてもうまくいった試しがなかった。

「確かめてみてもいいですよ」
「あはは。それこそセクハラじゃないか」

 年端もいかない子供にするように、黒子の頬を指でいじる。黒子と同じ、あの球技をする者特有のざらついた手の感触。
 まともに相手にされていないのは百も承知だった。それでも。

「してもいいって言っているのは、セクハラじゃないです」
「へえ。ひとつ賢くなった」

 氷室がしたように、黒子もまた腕を伸ばす。こちらから彼にくちづければ、苦いコーヒーの味がするに違いない。
 そうしてくちづけたばかりの唇で、彼に言ってやるのだ。「苦いですね」と。

「たちゅっ!」

 いやに鳴き声が近くで聞こえる。そう思った時には、尻が唇に当たっていた。暖かく柔らかな、布地を思わせる生き物の小さな尻。唇を開いてもいないのに、短い体毛が口に入る。
 二人の間に割って入った一匹は氷室の顎に張り付いて、見事に黒子の代わりを果たしていた。うきうきと浮ついた調子で、軽やかに。

「たちゅう!」

 ぱちくりとウインクを飛ばす一匹を、氷室は無言で掴み上げると、部屋の奥へ放り投げた。物が壁にめり込んだであろう、騒々しい音が黒子の耳にも届いた。