春のにじひむまつり

ロス在住時とかりぷらいすぷらすとか
リリカルおふざけラブ







おたのしみはこれから

 ボールがコート上を縦横無尽に駆け回っている。午後の日差しの下、色のついたゴムチップの地面で繰り広げられる展開に、外野から親しみの籠もった野次が飛ぶ。
 もう十分もすれば呼ばれるだろう。氷室はフェンスを背にしたコートの端から試合の流れを追っていた。
 食い入るほど白熱もしない試合は、出番を待つまでの暇を潰すのにちょうどいい。意味をなさない考え事に時間を費やすことにも。
 床を跳ね、宙を舞い、赤いリングへ滑り落ちていく橙の球体。掌から掌へ、渡され奪われ放たれる。長方形に区切られたこの地でボールに休みが与えられることはない。
 勝利の象徴。誰もがボールを求めて手を伸ばす。
 プレイヤーをすり抜けゴールへ辿り着こうとする橙を、外野としてコートの端から追いかけていると、くだらない転倒を思うことがある。
 プレイヤーがボールを操っているのではなく、ボールがプレイヤーを操っているのではないかと。
 放れば転がるだけの球体は、人の手が加わらなければ意味を持たない。自身が最も輝ける刹那がために掌から掌へ。移り変わる瞬間ごとに己をより使いこなせる人間のもとへ、きまぐれに身を寄せる。
 気位の高い猫のようだと思う。得点や勝利など、得てしてそうしたものだ。いくら好かれようと身を粉にして尽くそうが、懐くかどうか、そのときになってみなければわからない。
 ガードの薄い後方で待機していた男にボールが渡る。皆の関心が集まる頃には男の手からボールは離れていた。ブレのない放物線を描いてゴールリングへ落ちていく。
 入る、と思った。
 歓声がこだまする。硬直していた試合が動き出し、勢いづいたようだった。すぐに次の展開のためにシューズがばたばたと地面を踏む。
 氷室は親指と人差し指をくわえて、鳥のように甲高く吹き鳴らした。隣に並ぶ虹村がひとつ遅れて手をたたく。きまりわるく、どこか余所に向けられた、まばらな拍手はらしくない。
 うたたねをしていたせいで、肝心な場面を逃してしまった。そうした訳がしっくりと嵌まる動作に虹村を窺えば、予期せぬとばかり目をぱっと見開かれ、ぎこちなくあちらへ伏せる。らしくない。
「シュウ?」
 虹村は呼び掛けにあいまいに応じるも、どこか上の空だ。彼と会話がつながらないのはめずらしい。
 常勝校である中学ではレベルの高い試合を繰り広げていたと聞く。ストリートの草試合は児戯に写るのかもしれないが、そうであればとうに口にしている。虹村の、率直ともいえる飾り気のない物言いは、誠実のあらわれだ。妙な気を使って、黒を白とはいわないだろう。
 疲れている、のかもしれない。築いてきたものをほとんど残して住み慣れた国を離れても、彼には背負うものが、ほかの者よりすこしだけ多すぎる。
 置きどころを探してさまよわせた手が、うすく盛り上がったジーンズの尻ポケットに触れる。
 デニムの生地をしかくく浮かばせる、うすい板。コートに着くなりマイクから渡された菓子をポケットに突っ込んだままだと思い出して、氷室は手を伸ばす。抜きとれば商品の名が大きく印刷されたチョコレート。しまい場所が見つからず、邪魔にならないよう尻にさしていたのだが、ふれた感触をみるかぎり溶けてはいないようだ。
 うすい紙の封をやぶり銀紙をはがせば、タイル状に筋の入った赤褐色の板がすがたをあらわす。まあたらしい四角のはしをかじると、勢いをつけてふたつに分けた。ちょうど溝でぱきりと割れて、ひとくちには大きいかけらをくわえる。手でわけてもよかったのだと思い出したのは、あまい板を歯で挟んだあとだった。
 氷室はチョコレートのかけらをくわえたまま、銀紙の残る割れたばかりの断面を虹村に向けて。
「シュウたべる? マイクからもらって……」
 言い終わらないうちにフェンスへ押しつけられた。シャツに残る柔軟剤のにおいが、彼の肌とまざって薫る。
 背が金網にふれて、ふたりの間でのみ、かしゃんと音を立てる。ドリブルの音がとおく聞こえた。
 舌がからむ。あまいかけらごと食まれたくちびるに、濡れた粘膜が覆い被さる。重なったうすい皮膚を通して、彼の体温を自分のもののように感じた。
 氷室へ傾いた身体を支えるために金網を掴むゆび。空いた一方の手が、この行為の意味を伝えるかのように頬におちた髪に絡んで。ゆびさきが耳介から耳朶を愛でる。
 とろとろと溢れる唾液でチョコレートが溶けていく。菓子ごと食むように絡む舌が、べつの甘みを身体に伝える。
 夢中になって彼とくちを合わせている。くちづけなどなかったのだと示すために、うすい褐色の液体をひとしずくたりともこぼさないよう喉を動かした。吐息すら、喉の奥に隠さなければ。
 虹村の口に入ることのなかったチョコレートをもつ指にだけ、力がこもる。閉じたまぶたの下でじんわりと熱いものがひろがる。
 チョコレートを噛まなければよかった。
 あまく苦いかけらが邪魔だ。
 菓子の味をうすく残したまま、くちびるが離れる。目の前を窺うことしかできない氷室の視界に、一歩はなれた彼の姿が大写しになる。
 恥じらうように紅潮した頬。申し訳なくゆがむ眉。まなざしは余所を向いて、氷室を見ようとしない。
 手の甲でくちびるを隠した虹村は、きまりわるく礼をした。
「……ごっそさん」
 氷室は邪魔な腕をつかんですっかり顔から退けてしまうと、虹村が目を白黒させる前にもういちどくちづけた。
 されるがままの舌を愛で、チョコレートの味の残る口内をひかえめにまさぐる。不意打ちにこわばる彼の肢体がいじらしい。つかんだ腕は動くことなく棒のようにかたまっている。
 仕掛けた勢いとは裏腹に、あっけなく仕舞いにした。うるみはじめた彼の瞳に映るように、ちいさく舌を出して。
「おそまつさま」
 腕を放し、身体をコートに向ける。応じるように彼もまた腕を組んで観戦の姿勢に戻る。氷室はひびのはいったチョコレートの板を銀紙に包み直し、雑に尻ポケットへつっこむ。
 コートでは知った仲のチームメイトが試合の続きに興じている。なかなか盛り上がっているようで、歓声があちこちから響いた。ゴール下での攻防が激しく、両チームともに仕掛けては防がれを繰り返しているのだが、氷室の目にはそれらが意味をもたらすものとして写らなくなっていた。
 押し込んだチョコレートの銀紙がだまになって、氷室の尻をつっつく。やけに熱っぽくなった体温で、菓子は台無しになっていくことだろう。
「シュウ、俺へやに宿題をわすれてきた。残念だけど先に帰るよ」
「俺もタツヤの部屋に置きっ放しの課題やんねーと。急ぐから帰る」
 ふたりは回れ右をするとそれぞれ反対の道からコートを後にしていった。終盤、コートで繰り広げられる展開に夢中で、だれひとり彼らのゆくえを気にしなかった。
 虹村が試合そっちのけで氷室を眺めていたところから見守っていたマイクは首をかしげて。
「なんであれでバレないんだろう……? アジアンガールたちの守護天使でもついているのかな……」
 みなが気のつかないだけで、虹村と氷室の度の超えた親睦は頻繁に交わされていた。異国にて郷里を同じにする者ゆえの行為なのだと開き直られればあいまいに頷くこともできるが、いいわけのひとつ聞いたことがない。なにせいまのいままで、彼らの行為は誰にも見咎められたことがないのだから。ふたりが交わすあれやこれやといったら、あんまりにも熱っぽくていじらしくて、親友どころか恋にめざめたばかりの恋人たちと称すほうがふさわしい。
 あまりにも人目を気にしないのだから、いつ見つかってしまうかとこちらばかりがひやひやしてしまう。いつまで隠し通せるのかマイクにはわからないが、できるだけ控えめに抑えてほしいものだ。なにせ氷室のファンは多いし、ひそかに虹村を慕う者もすくなくない。見た目とのギャップがいい、切れ長の目がたまらん、あの腕っ節にほれた、とかなんとか。コートに集まるオトナな野郎どもの会話を聞くと、みんなひまそうだと思う。
 ニンジャの隠れるサクラの国から来たふたりに、いつまで振り回されるのやら。
 ふたりの影も形も見当たらないことに気のついたチームメイトが、マイクに向かって声をかける。試合は終わって、コートで活躍していた連中が思い思いに休息を取っていた。
「マイク! タツヤとシュウは? つぎあいつらの番だぜ」
 開いたくちからうまく言葉が出てこない。なんて言ったらいいんだろう。チョコレートをあげるんじゃなかった。
「あー……今日は店じまいだって!」






恋人三時間借ります

※どこかの研究室で共同作業しているTFS


「終わったらメシいきましょ」

 机をかたちづくる素材が何であったか。彼の机で展開される惨状をはじめて目にした人間は想像力を働かさなければならない。
 古びた布張りの本、学術雑誌、プリントアウトした論文。まとめたデータに研究ノート。そのどれもに付箋が貼られ、ハリネズミのごとき様相を呈している。紙束の合間を縫うようにして、不意に転がる幾何学状の構造模型に蓋の外れたUSBメモリー、使い古したマスクに空手着のぬいぐるみ。
 所狭しと並べられた、というよりは散らばって地層のごとく厚みを形成する資料と化石のようにランダムに挟まる異物の下。自身に割り当てられた机の表面、もしくはこの研究室の所属となった初日に目にしたであろう何物も仕舞い込んでいない机の上がどうであったか。
 机の持ち主であり、いままさに使用している最中の高尾和成ですら、かつての記憶を掘り出すより、己の想像力に頼るのだった。不要品と区別のつかないほど雑多に積み重なった山を整理し、掃除という名の労働によってかつての光景を取り戻すよりも。彼が作り上げた机を本館所属の図書館員が目にすれば、たちまち悲鳴を上げるだろう。なにせ最終貸出名を彼で止めたまま姿をくらました蔵書がいくつもあるのだから。
 彼の机の上では書きものやパソコンを開くといった作業はできない。ゆえに紙とペンを挟んだバインダーとタブレットが彼の標準装備であった。
 収集し閲覧し積み重ねるという行為にのみ特化させた机の前で、求める事項のために資料をひらき、該当箇所に付箋をつける。とうに終えていなければならない作業がなかなかどうしていつまで経っても終わらない。 
 机に付属する椅子は放棄した。正確には、椅子に腰掛けること、を放棄した。腰掛ければたちまちページをめくる手が止まり、高尾ひとりだけを極楽浄土へ誘うからだ。ありがたいことに、船を漕ぐ前に四方八方から消しゴムが飛んでくるので、居眠りに成功したことはない。持ち主を失った椅子には、かの相棒から譲り渡された信楽焼の亀がゆくえを見守っている。
 親亀子亀孫亀と甲羅に登る三匹の亀はいずれも同一種のエロンガータリクガメ。茨のように覆われた腕のトゲと、アーモンドの粒をした黒曜石を思わせる瞳があいらしい。なんでも今月の蠍座のラッキーアイテムらしく、『修羅場のお前に譲ってやるのだよ。昨日の蟹座のラッキーアイテムでもあった』などの注釈と共に手渡された。
 その日は自宅への帰宅を許された最後の日だった。寝不足の身体にヘルメットを押し込めて、地下の駐車場に放っておかれっぱなしの愛車に跨がった途端、台車を転がしながら奴は現れた。ごろごろと間の抜けた滑車の回る音だけが人気のない地下に響いた。「台車は持って帰るに決まっているだろう馬鹿め」と当然のごとく言い放った眼鏡を前に、今日の蠍座は最下位であっただろうかと高尾は混濁する記憶をまさぐった。三匹の亀は研究室を共にする同じ蠍座の彼には好評で、大中小くいと天井を向いた頭や首をしきりに指でなでさする。硬いのがよいらしい。
 前髪をまとめ、やる気を出すために差し込んだカチューシャには、黒いふたつの円で表わされた抜群の知名度を誇るネズミの耳、それもリボンをかけたものがひょこひょこと揺れている。数時間前、身につけているそれが愛用のものではないと気がつき、「あっこれ妹ちゃんのカチューシャじゃーん」と舌を出して丸めたこぶしでコツンと頭に当てた。誰に聞かせるでもなく声にしたそれに、それぞれの作業に没頭する物音だけが応えた。頭で揺れる装身具の違いについて、四日前から同じ台詞で言及していることに、高尾だけが気づかない。
 机の前に立ち、身体こそ論文を読み込んでいるが、高尾の心はただひとつの事柄で占められていた。眠い。とても眠い。いますぐ寝たい。実は立ったままでも眠れるのだが、ふっと気を抜いた途端何が投げつけられるかわかったものではないので、あえて目を開け手を動かしている。
 とても眠い。寝る前にまともな食事をとりたい。牛丼が食べたい。並がいい。漬け物をぱりぱり食んで味付けの濃い牛丼をあったかい味噌汁で流し込んでしあわせなきもちで寝たい。
 山手線の座席でいつまでも眠っていたい。
 いますぐこの資料の海に顔を埋めて寝たい。
 トイレの個室でカマを掘られてもいいから寝たい。
 眠い。眠いったらねむい。ねむいけど寝る前にごはんが食べたい。固形型栄養補助食品を栄養ドリンクで流し込むのはもういやだ。口の中がぱっさぱさになる。ぱっさぱさ。ぱっさぱさ。ぱっさぱさだよぱっさっさー。
 おいしい牛丼が食べたい。ご飯がたべたい。眠い。ねむい。ごはん。ねむい。
 ごはん
   たべ
      た
       。
 こ    
   め 。
        ね
 
          む

            。
 ゆえに話はふりだしに戻る。期限までに仕事をおえることができたら、みんなでご飯をたべにいきましょう。これは提案のかたちを取った高尾の悲痛な叫びであった。だが、高尾の哀願を帯びた問いかけに、おいそれと顔を上げるような輩はもはやいない。ここに残っているのは己の仕事のみを片付けようと手を動かす猛者ばかり。他人にかまけている暇などとうに消え失せた。
 なにせ持ち分を終わらせようと最も思慮深く行動していたはずのひとりが、本日救護室へリタイアしてしまったのだ。自愛に満ちた彼がドクターストップの第一号とは、なるほどうまくできた世の中であると、みな穏やかな殺意を込めて見送った。彼らはチームだ。それも班長に選ばれたよりすぐりのメンバー。抜けた穴は全員で埋めなくてはならない。
 ペンを動かす音ばかりしか聞こえない向かいの席。額に冷湿布を貼った木吉が、高尾のこしらえた資料の谷でメモをとり続けている。木吉の机に築かれたツインタワーの側面には、おびただしい数の付箋が蛾のごとく貼り付く。
 木吉の柔和な顔立ちに、うっすらと隈ができている。推敲中の原稿に朱色のペンで大量の書き込みを加える手が止まることはない。
 もちろん顔を上げることはなかったが、彼は高尾へ声をかけることによって、ひとりごとを会話へと昇華させた。これは高尾にとって幸運なことであったが、同時にティースプーン一杯分の困惑をももたらした。
 木吉鉄平という人物は、普段から見当違いな言動を行うことより天然という評価を下されている。果たしてそれが彼の本質であるのか装っているのかなどこのさいどうでもいい。真相が何であれ、表に現れる態度が彼なりの価値観によるものに変わりないのだから、この場合天然ということばは彼を称するのにある程度当を得ている。
 ゆえに、彼のすることなすことが多少まわりと噛み合わなくとも平時のこと。尊ぶべき日常そのものだ。このとき高尾へ向けた返答の口調も声も普段の彼そのもので、修羅場という緊急時でなければ皆から訂正が入っただろう。
 彼はなにひとつ変わらず、穏やかにこわれていた。 
「そうだなあ、ぱあっと打ち上げでもするか。下町に腕のいいじいさんがいるんだ、夏祭りには世話になってる。じいちゃんの代からのつきあいで、割物が得意なんだ。芯入り菊がとくにきれいでなあ」
 高尾の指が書類をめくりつづける音が、しばしの沈黙を埋めた。
「わーそれすげえ値段張りそうっすねー打ち上げ花火並にー。ばかでかい会場あるかなー。さっちゃーん食いたいのあるー?」
「テツくん」
 部屋の隅からひっきりなしにキーを叩きつける音が、彼女の状態を雄弁に語っていた。カチカチ、カッターンどころか、カカカカッカカとあるべき余韻が生じぬ指遣い。
 彼女が顔をつきあわせるデスクトップのモニターには、各年代を取りそろえたひとりの男性の写真がいくつも貼られていた。彼女の癒やし。彼女のすべて。アイスの当たり棒からはじまった運命の王子様。
 筐体にはどう考えても彼の家族しか持ち得ない赤ん坊の頃から、成人を果たした現在に至るまでが網羅されている。最近は機能していないが、彼女の私物と化したこのパソコンのスクリーンセーバーは、直近のデートで撮った画像がスライドショウとして表示される。かつて高尾が敵愾心を燃やした水色の瞳の彼のいままでが、桃井さつきの操作するパソコンに集約されていた。
 恋人には銀座のホステスばりに着飾る桃井も、白衣を身につけパソコンに向かうこの部屋では、おしゃれという行為自体を棄て去っている。かかとを潰したスニーカーに色あせたジーンズ。うっとうしい髪は後ろに束ね、前髪はヘアピンで固定する。どこにも出かけない休日をひとり部屋で過ごすよりも雑な格好は、彼女の仕事着だった。
 もちろん化粧はしていない。図体ばかりが大きな荷物と共に押し込まれた研究室で化粧をしても意味がない。彼らにすっぴんを晒したところで、恥ずかしがったり傷ついたりする自尊心をはじめから持ち合わせていなかった。同様に、周囲の状況を把握する視野も彼女は容易に手放すことができる。
 修羅場と呼ばれる期間の、一日のうち数時間、彼女には何を問いかけても「テツくん」としか返さない時間が存在する。経験者である彼女の幼なじみいわく、『ゾーンに入った状態』と称されるその時間、彼女の集中力は桁外れのものとなる。作業効率が途端に跳ね上がるのだ。
 ただし、その間に行った作業以外のできごとは何も覚えていないため、たまにいたずらの標的になることがある。
「昨日はだれといっしょに寝た?」
「いままででいちばんよかったのは?」
「はじめての相手を教えてくれる?」
 などなど。意識があれば横っ面を張り倒されるであろう問いばかりを同僚は涼しい顔で吹き込む。いつだったか、彼の手の内にボイスレコーダーが入っていたことがあった。そのデータは後日、彼女を経由せずに彼女の恋人のもとへ渡ったというが、本当だろうか。彼の『アメリカンジョーク』で済ます自由な言動は同じ男としてうらやましく、同時にうなじを針で突かれるような後ろめたさがある。
 問いの内容にかかわらず、ここにはいない人間の名を持ち出した桃井に、高尾はむきだしにした額をぱっちーんと手のひらで打った。景気よく鳴らしたそれで、垂らした前髪がかすかに揺れる。
 桃井といい木吉といい、疲れがあたまに回っている。この部屋でまともに話のできる相手は、高尾を除いてだたひとりしか残されていないではないか。高尾はやれやれとばかりに大仰な身振りで嘆息した。
「なんだよーさっちゃんもかよー。黛さんはいとしの林檎ちゃんと救護室デートで帰ってこねえし、笠松さんは締め切り延ばそうとマッキー班長にアタックチャーンス! わくわく修羅場ランドでまともなの俺と氷室さんだけって、かーっきっつー。ひーむろさんっ、ここらで一発まともな答えおねがいします!」
 本棚から資料を取り出したばかりの氷室を抱き寄せ、親指をあげてマイクのように突きつける。
 眼鏡をかけた氷室は、好青年らしい爽やかな笑みを高尾に向けた。白百合の薫りが漂ってきそうな、清廉な笑顔だった。
「そうだね、シュウがほしいな。いますぐファックしたい」
 研究室のドアのあたりから、ビニール袋の擦れる物音が響く。
 なぜか開いているドアの前には、片手に大きなビニール袋を提げた虹村の姿があった。どこかのドラッグストアに寄ってきたのか、半透明の買い物袋から栄養ドリンクと固形型栄養補助食品の箱がのぞいている。袋のなかには同じ種類の箱がいくつもあった。
 ひとあしさきに報告書をまとめ上げたと聞く女傑・サワコ班の虹村は、打ち合わせを終えたのか背広姿だ。締め切りから解放された彼は、定時には家に帰ってやわらかいベッドで眠るのだろう。高尾は沈黙を貫く乱入者に対し、ささやかな殺意を抱いた。
 疲れたところの見当たらない虹村は断りなく敷居をまたぐと、作業途中の氷室の机に差し入れという名の重い荷物を置いた。氷室が探し出したばかりの本をひったくって高尾に押しつけ、代わりに氷室を引きはがすと、にこにこほほえむ恋人の首根っこを掴む。
「三時間借りる」
 シャツと白衣の襟をまとめて掴んだ虹村はそれだけを言い残すと氷室を引きずっていった。虹村のされるがまま、訳もわからず後ろ向きに連れて行かれる氷室は呆けたように周囲を伺い、状況を察するや否やたちまち瞳を輝かせた。その輝きは、どこかとおくへ突き抜けてしまった人間のするものとまったく等しい。
「あ……れ? 俺……そらを飛んでる? 歩いてないのに動いてるよ……! Wow,amazing! It’s miracle!! Yeah,here we goooo!!!!!」
 歓声とともに右手をふりあげる。その格好のまま彼は研究室から姿を消した。床をこする氷室のかかとが開け放したドアから消えてしまうまで、高尾はホークアイと評された瞳を向けることしかできなかった。
 研究室に、実に四日ぶりの静寂が訪れた。
 資料を放って机の前から離れた高尾は、真顔で部屋のドアを閉めた。





いちごキッス

※TFS練習中そしてかがひむ

「最近、俺の乳首があまおうなんです……」

 氷室辰也は自身の胸元を両腕で囲うように抱きしめた。憂うように伏せたまなざし。長い睫毛が影をつくり、白磁の肌に墨が落ちる。誰とも合わそうとしない視界の先で、何を思っているのだろう。
 手を伸ばせば消えてしまう、蜃気楼のような儚さを漂わせる氷室の告白を耳にして、高尾和成は手にしていたボールを落としそうになった。膝からくずれおちるように、ふっと。全身の力が抜けたためだ。脱力というのは、こういうことを指すのだと、高尾は学んだ。
 疑問符が脳裏をよぎる。俺、バスケしてるんだよな。ここ、体育館だよな。乳首に、あまおうって、なに? なにがあまおう?
 ちょうど、休憩に入ったところだった。週に一度ある、チームの練習。いつものように多忙な監督は不在で、桃井と笠松によって練られたメニューに基づき、皆が身体を動かしていた。
 通う大学も学年もことなる皆が集まれるのは週に一度しかないが、その日が待ち遠しいほど高尾はこのチームを気に入っている。人数が少ない分メニューの自由がきき、欠けることなくメンバーと切磋琢磨する。学校単位の部で行う活動とはまた別のたのしみがあった。
 高校時代にはデータの収集・活用力で恐れられた桃井と、同じポジションとして憧れる全国区の笠松の下でチームとして動けるのは、願ってもない待遇で。ほかのメンバーも見知った顔の強者ぞろいで、実力は確か。そうしたチームでバスケができることに、高尾は喜びを感じていた。
 基本的に不満はない。バスケに打ち込むチーム、および、バスケへの飽くなき向上心で努力するチームメイトへの不満は。
 そのうちのひとり、得点の切り込みを担う氷室は、皆の前に現れたときからどこか沈んでいた。練習中は普段と変わりない様子で励んでいたが、休憩を知らせるホイッスルが響き終えたときからすこしずつ佇まいが影を帯びていき、とうとう自分から声をあげた。
 皆の前で彼は、困っていることがあって、と前置きした。その次に続いたのがいちごだ。正確には、乳首があまおうとかいう奇天烈な日本語による一文。どこかの国の日本語学習用例文にあるかもしれない一節だが、覚えたところでいままさにこの場所で、氷室辰也彼ひとりしか使わないだろう。高尾はすこしずつ瓦解していく日常を感じた。
「このところシュウが俺の乳首ばっかりぺろぺろしてきて……朝も昼も夜もおやつの時間もずっとぺろぺろするから、俺の乳首がすっかりあまおうになったんです。前はさくらももいちごのように慎ましかったのに……。手にしただけで偏差値が下がるラノベのタイトルみたいなことになってしまって、俺……すごく困ってます」
 氷室は話題の乳首を隠すように己の胸元を両手で覆った。それはいわゆる手ブラ、両手で乳首および乳房の輪郭を隠してしまう姿だ。ぼかしを入れることなく布を取り去った上体を晒すことができる。
 だが、氷室は上半身にシャツを着たままで、突如乳首を覆う布地だけが千切れる気配もなかった。露わになったところで減るようなものでもなかった。高尾は己の乳首をてのひらで隠す同性をはじめて目にした。どこに口を挟めばいいのかわからず、表情筋は一切の動きを止めていた。
 人を喰った氷室の言動に、黛が噛みつく。煙った煤のような瞳に純真な怒りが宿っていた。
「てめえラノベ馬鹿にすんな!」
「そこすか!?」
「氷室の乳首はあまおうだったのか、うまそうだな。虹村は栽培の才能があるようだ。今度話を聞くことにしよう。ばあちゃんが家庭菜園をしていてな、俺も手伝」
「ここで言うことですか? のろけですか? 氷室さん帰りますか?」
 いつまでも続きそうな木吉のしゃべりに桃井がかぶせる。強いて笑みのかたちに保った表情は、能面のように凍り付いている。
 どこまでも注釈をいれなくてはならない氷室の発言を惚気という切り口で言及する桃井に、高尾は異性ならではの視点を感じた。なるほど、恋愛に敏感な女性だからこそ、『乳首』『あまおう』『ぺろぺろ』の数少ないワードから迅速に事態を把握したのだろう。それが氷室と、彼の言うところのシュウ―――虹村修造の間で生じた、ひどく個人的な出来事であると。高尾のあたまのなかではいまだ『乳首があまおう』と『ぺろぺろ』が氷室の手ブラ姿と相俟って、ぐるんぐるんと渦を巻いている。
 満を持して笠松が訳を尋ねる。事態の収拾を図る役目を負うように、どっしりと落ち着き払った笠松から、高尾は部長の風格を思った。
「で、そのいちごおっぱいはどうしてんだ」
 氷室は胸板を覆っていた手を離すと、その手で胸板をくいと持ち上げた。椀型に整えたふたつの手のひらが胸板の肉を寄せる。それは、女性が寄せて上げるかたちのブラジャーのワイヤーと同一の効果を果たしていた。高尾は目の前の光景を再度疑った。
 うう。息を詰めるように呻くと、氷室はうなだれた。つやのよい黒髪が、さらさらとこぼれていく。
「ばんそうこ、貼ってます……うごくと、シャツですれるので……」
 その告白に高尾は強調された彼の胸元を凝視した。
 あっそうだったんだー。これ絆創膏ちくびだったんだー。へーすげーはじめてみたー。あれってまじでやるもんなんだー。
 気のせいかもしれないが、彼の胸元の、乳首のあるべき場所のシャツが、なんとなくうすく絆創膏のかたちに盛り上がっているようにも見える。目の前に現れた絆創膏ちくびを眺めたところで、ふくらみのない乳房。己の胸板にもついている男の乳首なのだとわかっていたが、それでも目を凝らさずにはいられなかった。
 これが、絆創膏ちくび。都市伝説ではなかったのだ。
「俺、こんなに乳首が実ったの、はじめてで、こわくて……もしかしたら俺の勘違いかもしれないって、タイガに確かめさせたんですけど……」



 カーペットを敷いていない固いフローリングの床を背に、氷室は身を横たえていた。両手はめくりあげたばかりのシャツの裾をかたく握りしめ、そのときを待っている。
 顔をかたむけ、下ろした目線の先では弟が、天井を背景にして氷室の乳首を検分していた。氷室の下腹部にまたがり、適切な体勢を取っている。いつまでも答えを口にしない火神に、焦れた氷室が先をねだる。
「どうだ」 
「熟れてんなー。完璧に収穫期だ。俺でムラムラ来ねえだろ?」
 弟の導き出した答えに、ある種の諦観が波のように押し寄せた。
 やはり、己の考えは間違っていなかった。氷室の乳首は育っていたのだ。熟れて食べ頃になってしまうまで。
 かつて、氷室の乳首をぺろぺろしたペロリスト兼スペシャリストである弟の鑑定は精緻を極める。念押しのように欲望の矛先を尋ねられたが、無駄な問いであることは互いに承知の上。
「いまの俺はシュウ一筋だ。お前にはぴくりともこないだろう。このごろ……なにもしてないのにこうなるんだ」
 抑えていた感情が揺れ動く声となって表に出る。兄の心中を察する火神が、躊躇うように言葉を続けた。
「タツヤ、はっきり言いたくねえけど……あまおうだ。俺の知ってるさがほのかのタツヤは影も形もねえ」
「あまおうか……」
 氷室は弟の告げた品種を繰り返さずにはいられなかった。あまおう。ずいぶん遠いところへ来てしまった。もう、後戻りはできないのだ。つんと鼻の奥が痛んだ。
「タイガ頼む、確かめてくれないか……俺の指は、シュウのとちおとめしか覚えていないんだ……」
 両手の親指と人差し指をかぎりなく寄せ、空白に向けて擦り合わせるように動かした。
 そこに、幾度も愛した感触があるかのように。
 火神は愁いを帯びた瞳で兄の指先に視線を注いだ。
「とちおとめか……」
「ああ、とちおとめなんだ……」
「……オーケイ、そのままじっとしてろよ」
 押し殺すような吐息が肌に触れる。
 虹村とは異なるくちびるが火照った果実に触れ、容赦なく押しつぶした。生来の高めの体温が弟のくちびるにも宿り、外気に晒され続けた氷室の果実を焦がす。溶けていく最中のバターのような舌が、ねっとりと果実をなぶり、熱い唾液で濡れていく。
 封じ込めたはずの欲が、慣れたあの場所をじりじりと開いていた。腰におもい甘さが宿って、焦れた腰がわななくようにふるえた。
 腫れぼったくふくらみ、熱を持ち続ける果実は、弟からの刺激を乾いた大地のようにどこまでも吸い上げる。氷室の身体を知り尽くした懐かしい舌が、くちびるが、熟れた果実を味わう。与えられるよろこびは深みを増して、氷室の身体に悦楽の糸をつなげていった。
 目の前があまく霞む。このまま、弟を求めてしまいそうだった。
 だが、わかっている。
 弟と虹村では何から何まで異なるのだと。食まれるたびに氷室を恍惚へと押し上げる赤い果実を実らせたのは、弟ではなく虹村だ。弟に実をなぶられるほどに、愛しい彼との違いが浮き彫りになる。
  虹村は尖らせたうわくちびるで、慈しむように愛でるのだ。弟のように兄へ向けた遠慮のないそれではなく、彼は氷室をひとりの他者として。恋人として氷室を愛している。昼夜の別なく、氷室の果実をぺろぺろぺろぺろ愛でてくれる。ぺろぺろ水をやり、ぺろぺろ肥料を与え、氷室の果実をぺろぺろ育ててくれた。
 彼に、ぺろぺろされたい。胸を張って、これがふたりで育て上げた愛の結晶なのだと伝えたい。出会ったその日に暗い倉庫で拳を振るった初めての共同作業から幾年、愛の証はこうして実を結んでいた。
 アイボリーの天井を写すばかりの視界が、熱くにじんでいく。氷室は絶え絶えの声でも、弟に尋ねずにはいられなかった。
「んっ……たいがぁ……おれの、どうなってる……?」
「もぎたてサマープリンセス」 
 ふっと笑みの形に吐息を押し当て、火神のいたずらな歯列が果実にあまく食い込む。組み敷かれた身体が床の上で答えを探して身悶えた。
「あぁ! そこ、んっ、ああぁ……っ、かたち、は……?」
「クライマックスもういっこ」
 舌先でぺろりと舐められ、ひときわ叫ぶように声を出した。下腹部では張り詰めた雄が果実の刺激だけで頭をもたげ、ぐっしょりと蜜をこぼしている。氷室は己の下着の様子が手に取るようにわかった。
 くちびるが離れていく。腰を打ち付けられたように放心しあえぐように身体をふるわせる氷室を、弟が見下ろした。左を心がけているはずの前髪が、無体を働かれたようにぱらぱらと右に散り、よれてしまっていた。
 ひかりの加減で弟の顔に陰が差している。火神はソースを舐め取るように、己のうわくちびるを舌でなぞった。虹村とは違うくちびる。紅の舌が誘うように覗いた。
「検品の味見はここまでだ。勝手に摘み取っていいかわかんねえし……俺ひとりで決めることじゃねえだろ?」
 氷室は弟から目を離さなかった。この先をねだるように、弟の人差し指がくちびるへ寄せられる。
 虹村から愛されている。愛されたが故にこの果実が実ったのだとわかった。この赤い実が氷室の身に存在することこそが、彼への誠実の証。いくら弟にかじられようと、なくなりやしない。
 それがわかれば十分だ。へたに口をつけられてしまったのだし、やることは片がつくまでやってもらおう。
 氷室は口元へ差し出された指を、ためらうことなくぺろりと舐めた。
「っふ、タイガ……さいごまで、おいしく、食えよ……」



 放り投げられたボールが、怒りを示すように大きく床でバウンドした。たあんと弾んだボールは与えられた勢いのまま、体育館の床を転がっていく。がに股で地に足をつけた桃井が、肩をいからせて怒鳴った。
「感じてんじゃねえかー!」
「さっちゃん落ち着いて!!」
「そうか、火神はいちごの目利きだったのか。今度家の野菜をみてもらわないとな。いい意見が聞けそうだ」
 うんうんとひとり頷き自分なりの解釈で納得する木吉に、黛が同情を籠めたまなざしを向けている。異なる次元をひとりで生きている木吉に、ではない。こいつのまわりで振り回されたであろう、ありとあらゆる真っ当な人間に向けて、黛は確かな同情を抱いた。
 木吉の隣にいると、疑問を持たずにいられない。こいつには耳があるのだろうか。日本語を理解しているのだろうか。そもそも人間なのだろうか。
「お前と火神がチームメイトで、周りは苦労しただろうな……」
 かつて、火神と再会したストリートコートにて、聞かせてくれと頼まれたわけでもないのに兄弟のこれまでを語り始めたあのときと、まったく同じ唐突さで話をした氷室は、周りの喧噪など目に入っていない態度で絆創膏を貼った乳首をシャツの上からさする。
「タイガからあまおう認定されてしまった俺の乳首……どうにかして、元に戻す方法ありませんか?」
「ちぎりましょう。不要です」
 乱れた髪を向け、桃井が即答する。不快だと言わんばかりに黛が眉間に皺を寄せ、己の乳首をてのひらでぱかりと隠した。まるで黛の乳首こそが千切られるのだと、言い渡されたように。
「お前よくそういうこと言えるな……乳首だぞ? あいつが女体化したときに乳首なかったらどうすんだ。絵面最悪だろ。いじるとこがねえよ」
「黛さんお黙りください」
 腕を組み、氷室の話に耳を傾けていた笠松が、ふむと声を上げる。どうやら思うところがあったらしく、氷室に疑問を投げかける。
「そのいちごおっぱいでバスケに支障はでてるのか?」
「いえ、いまみたいに絆創膏を貼ればおさまります。すれてしたくなることもないですし……これからのシュウとの生活をどうしていけばいいのか、それが問題なんです。シュウにいっぱいぺろぺろしてもらいたい、俺のあまおうを味わってほしい……だけど、このままじゃ絆創膏のサイズは大きくなるばかりで、いつかきっと、相田さんみたいなちっぱいになってしまうことでしょう……そうなったら俺は、ブラジャーをつけなきゃいけない……!」
「おいリコさんディスんな腐れ苺」
 氷室は胸元をかっぽりとてのひらで隠したまま、おずおずと問いかけはじめた。灰青の瞳が、迷いと躊躇いで揺れ動く。
 いちごの粒を選り分けるように、ひとつひとつ言葉を選んで、氷室は己の前に立ちはだかる壁を伝えようとする。それは氷室にとって、おいそれと受け入れることのできない問題だった。最初から彼の話を聞いていた高尾は、問題がすり替わっているように思えてならなかった。
「みなさんは、ブラジャー男子……どう思いますか……タイガのような脱ぎたがりダイナマイトボディなら理解できるんですけど、俺の身体は、正直……合わないと思うんです……」
 突如、ここにはいないはずの声が高尾の耳に届いた。高尾の耳に届いたということは、おそらく皆にも聞こえているはずだ。
 それは、氷室の不安を切り裂くがごとく、体育館に響き渡った。まるで、コンクリートに刺さった一輪の薔薇のように、状況を一変させた。
「絆創膏いちごもブラジャー男子も、お前なら何だって受け入れる」
 弾かれたように顔を上げたその先、体育館の中二階へあがる梯子に、虹村が脚をかけていた。聞き違えるはずのない、あまく低い声。ただひとり、氷室の耳介に魔法をかけるそれ。氷室は驚きよりも嬉しさで虹村の名を口にしていた。
 こんなところにまで来てくれるなんて。ねえ、君はほんとうに寄り道がすきだね。
「シュウ……! どうしてここに……」
 虹村は梯子を下りていくと、重さを感じさせない動作で、とんっと床を踏んだ。六人しかいない体育館で、ほかの誰へも目をくれずに、まっすぐに氷室の下へ歩いて行く。虹村と氷室にだけ、目に見えないレールが敷かれているかのようだった。このひと氷室さんにしか興味ねえんだなーと高尾は思った。
 実物の絆創膏ちくびに気を取られていたり、いちごの種類を思い出していたり、火神とのやりとりを受け流すことに精一杯で、虹村がそこにいることに気がつけなかった。空間を俯瞰で把握する能力は己の持ち味であるはずだったのに。まだ修行が足りないと己を叱咤するも、べつに気がつかなくてもいいことだよなと、高尾は自己解決を図ろうとする。
 虹村の指が、氷室の乳首を滑っていった。シャツに浮かび上がる絆創膏の形を、その下に封じられた赤い果実を思うように、人差し指と中指でするすると撫でる。虹村の指先で奏でられたそれは、少し前に氷室がしていたものと瓜二つだった。
「様子がおかしかったから気になった。……悪い、俺のせいだ。タツヤのさくらももいちごをあまおうに育てたのはこの俺だ。本当にすまねえ」
 項垂れる虹村を前に、氷室がかぶりを振る。氷室を案ずるために己を犠牲にしようとする虹村をどうにかして止めたかった。
「シュウは悪くない……だって、シュウに乳首ぺろぺろしてもらわないと、いけなくなったんだ……タイガでも無理だった。シュウじゃないと……俺のいちごはシュウだけにぺろぺろさせたい!」
 すれ違うふたりの想いが重なったとき、奇跡は起こる。虹村は乳首から指を離すと、氷室の身体を固く抱きしめた。氷室の腕もまた、向かい合う虹村の背に回され、離すまいと顔を肩口に押しつける。 
 氷室の乳首をぺろぺろしたときから、ずっと、胸に秘めていた想いを虹村は口にした。ここで言うつもりはなかった。それこそ、乳首をぺろぺろしながら言うことだってできたはずだ。
 だが、いま氷室に伝えなくて、いつになるというのだろう。
「俺が、お前の絆創膏になる。一生、お前のいちごに貼らせてくれ。俺はタツヤの乳首をぺろぺろすると誓う……タツヤの、あまおうに」
「っ、しゅう……!」
 たんっ。ボールが床を弾み、乾いた心地のよい音を立てて彼のてのひらへと戻った。
 このやりとりの最中、いいや、氷室が乳首を隠したそのときから、ひとつも顔色を変えることなく冷静に対処し続けたリーダーの姿が、そこにあった。
「一件落着だな。練習再開するぞ」
 未来を誓い合う氷室と虹村を放って、皆が動き出す。桃井ですらバインダーを手にし、次のメニューを確かめる。


 高尾は己がこのチームに選ばれたことを、初めて、悔やんだ。






亜空間ホテルモモーイ

※りぷらいすぷらす カプいろいろ


 二メートルほどもあるぼんぼりに明かりが灯っている。指定された席に足を組んで腰を下ろした氷室は、隣から伝わる体温に高揚していた。おちつかず、足の向きを組み替える。撮影が始まっていると理解はしていたが他人行儀でいられず、すこしだけ身体を右に寄せる。司会席に立ち、ひな壇を見渡すことのできる桃井には、氷室が不自然なまでに右隣の虹村に寄り添ったことが一目でわかった。
 数学の図形問題で出てきそうな素っ気ない立方体がセットとして、氷室の座るひな段や司会者の演台に用いられた会場。身の丈ほどもある一組のぼんぼりと、内裏雛のごとく司会者二名の頭に飾られた冠と平額だけが、季節感を出そうとしていた。
 バラエティ番組さながら、トーク大会を始めると意気込む桃井の宣言にひな壇の後方からざわめきが起こる。忌憚ないおしゃべりのために集められた人員は、高校男子バスケ部に関わる面々ばかり。彼女の人徳がなせる技なのか、キセキの世代と呼ばれる飛び抜けた才能を持つ五人の少年たちはもちろんのこと、彼女が所属する桐皇の部員、他校の監督たちや誠凛の監督の父親、どこでつながりがあったのかアレックスに見知らぬふたりの女の子までひな壇に腰掛けている。氷室は彼女らと顔を合わすのは初めてだが、会場に呼ばれた誰かの親族なのだろうか。もしかしたら女性というのは氷室の思い違いで、中学で頭角を現す有望な選手なのかもしれないが、こればかりはわからない。
 ひな壇には火神の姿もあり、氷室はどこか心が安らいだのを感じた。どうやら名前つながりで、誠凛の監督の父親の隣を割り当てられたらしい。彼のとなりでは火神も思うところがあるらしく、すぐ後ろに青峰がいるのに何もできないとふてくされていた。
 目的の知れないおしゃべり大会が終わった後はアレックスと三人で夕飯でもと笑顔を向けられた。弟からの無邪気な提案につい微笑みさえ浮かべて、アレックスに訊いてからと返してしまったが、心はゆれうごいていた。
 アレックスとはまだ顔を合わせていない。会場で虹村を見つけてからというもの、氷室は彼のそばにいつづけた。アレックスは相田と荒木にマウストゥマウスのキスをお見舞いして悲鳴を上げられた。
 ひな壇芸人と桃井から呼ばれて、壇のあちこちから批難が飛ぶ。ひなまつりだから雛人形であるところまではわかるのだが、それがなぜ芸人になるのかわからなかった。壇に集められた彼らは一芸に富んでいる。そのことを指しているのかもしれない。
 私服の虹村は襟の深い白いシャツを着て、腕組みをしている。桃井から拍手を求められても腕を組んだまま、手を叩かなかった。急に呼ばれて思うところがあるのだろうか。
 氷室は右隣の虹村に目を向けた。動きやすそうな無地のパンツにスニーカーを履いている。普段この格好でハイスクールに通っているのかと思うと、自然と頬がゆるんだ。スカイプや写真で近況を伝え合っても、そこから得る想像でしか彼と会うことはできない。こうしてすぐ隣に彼がいるこの状況を、氷室はことほいでいた。
「ひなまつりか。もう、すっかり春だね。妹さんは元気?」
 虹村が氷室に目を向ける。彼に見つめられる、それだけで頬がほてりそうだった。しばらく会わないうちに、すっかり彼への耐性がなくなってしまっている。氷室は顔を彼の肩口に寄せて隠してしまいたい誘惑と戦った。
「ああ、クラスで気になる奴ができたらしくて、毎日そいつのことしかしゃべらねえ。おふくろはそいつがどういう奴か知ってるらしいんだが……」
 眉間にしわが寄る。口よりも雄弁に彼の心情を示すそこに、ゆるく中指をはじいてしまいたかった。ふふ、と口元をゆるませる。彼は見知らぬ馬の骨にかわいい妹を取られてしまうのが、おもしろくないようだ。
「おや、隅に置けないね。おかんむりなのかい? くちがへの字になってるよ、修造おにいちゃん」
「っ、タツヤ」
 むすびがちな彼のうわくちびるを、指でつんとつつく。こわばりが解けたようにたじろぐ虹村に、見惚れずにはいられなかった。
 些細な彼の変化がいとおしい。尖らせ気味のうわくちびるにくちびるで触れるぬくもりを知っているから、伏せがちな目蓋の内で瞳は潤む。
 いますぐキスしたい。虹村の反応を笑いながら、口には出せないそんなことをうちがわで募らせる。
「あはは。あの子はキュートだし頭もいい、男の目を引くのは当たり前だよ。おにいちゃんとして複雑なところだね」
「タツヤさんタツヤさんってお前を慕ってた頃がなつかしーよ」
 ふくれたようにくちびるを尖らす虹村に顔を向ける。
「これで俺をひとりじめできるよ、シュウ」
「……お前さあ、どうしてそう恥ずかしいこといえるんだよ」
「はずかしいことなんてひとつもないよ。シュウだって本当はそうだろう?」
 床につけた左足の靴先を彼の右足のそれにこつんと当てる。ふたりにしかわからないその仕草に、虹村は顔を覆った。あーっと焦げのついたような声をあげて、下げた指のさきから氷室を窺う。
「してやられてばかりだ」
「俺は君といっしょにいるだけで、いつもやられちゃうけどね」
 顔から手をどけると虹村は膝に手を置き、さりげない動作で膝にある氷室の手をつなぐ。寄せられて触れあった指のかたちに、熱に、心が跳ねる。虹村の顔を見ていられなくて、彼がつないだ手ばかり見つめた。心臓の鼓動がすこしだけ、早くなったような気がする。身体中のときめきが、指先から彼に伝わってしまいそう。
「ほら、俺にはできないことを簡単にしてしまう」
 つないだ手を握り返す。彼に触れる右手が自分のものではないかのように感覚が遠かった。虹村とつながったそこだけが熱っぽい。彼の指の間に自分のそれを絡ませていく。虹村の指は氷室を受け入れ、やわらかく挟んだ。氷室は指の腹で彼のそれをゆっくりとさする。桃井の司会に対し、壇の後方で誰かが叫んだような気がした。
「ねえ、俺はよくわからないんだけど……ひな壇芸人とはなんだい?」
 ゆっくりと頭を虹村の肩口に寄せる。あまえるような仕草をしていると自覚はあったが、思いを止めることはできなかった。
「ただの賑やかしだ。これといった意味はねえよ」
「そうなの……? 俺はてっきり、黒子くんと桃井さんの内裏雛をささえるひな人形のひとつになっているんだと……ほら、あるだろう、人間ひな人形みたいな」
「んな大層なもんじゃねえ。いるだけでいい類の、要は余白埋めだ。宮古まもる君とか」
「まもるくんか……。でも俺は、呼ばれてよかったな。こうしてシュウと会えた」
「タツヤ……」
 気がつけばふたりは鼻先の触れあう近さで見つめ合っていた。氷室がふるえるように目蓋をおろす。うすももに色づいた目蓋の先で睫毛が影を作っていた。
 うすく開いたくちびるに待ち望んだやわらかなそれが押し当てられる。三百日ぶりのくちづけに心がとけてしまいそうだった。ずっと、このときを待っていた。
 彼の体温に染まった、彼のにおいに包まれる。何も聞こえなかった。絡めた指をたがいに寄せ合い、求め合う。
 長い時間をそうしていたように感じた。どちらからくちびるを離したのか、わからない。
 ほてった身体がせつなく疼いた。視界はあふれだした熱いもので滲み、すぐそばにいる虹村しか映さない。
「君といるだけで、まわりがどうでもよくなる。あ、シュウ……」
 虹村がくちづけを重ねる。激しさとは無縁のやさしい重なりが虹村と氷室の間で音を立てた。互いに漏れる吐息の熱さでくちびるが濡れていく。
 虹村の右隣に座る笠松は眉間に皺をめりこませ、固く腕を組んだままじっと目を伏せていた。時間の経過とともに加熱していく隣のやりとりに、痺れを切らした笠松は氷室の左隣の木吉に声をかける。
「……木吉、お前は平気なのか?」
「この席の座り心地ですか? 座布団か何かほしいですね、終わる頃には尻が平らになりそうだ。なあ、今吉さん」
「そ……やね、若いふたりに任せ……っ、きよ、ひんっ……」
 虹村と氷室の後ろに座る今吉の不自然な挙動に、訝しがった笠松が後方を窺う。手のひらにすっぽりと収まるちいさな機器を左手で操作する木吉の姿に気がついたのは黛だけで。彼はすぐ隣で展開される漫画のような出来事に、しばし我が目を疑った。エロ同人じゃねえぞおい。
 桃井が集中線の入ったフリップを掲げる。ひな壇の醍醐味とざわつく外野をよそに、氷室は桃井から提示された題目にひそやかな笑い声をあげた。虹村の腕は氷室の腰に回され、しなだれかかる氷室を抱き寄せている。
「気になることあったか?」
「いま俺、恋してるなあって。君と、シュウと、恋してる」
 惹かれ合うようにくちびるを重ねた。絡めた舌先がこすれるたびに、あたまの後ろの方がじんと痺れる。
「ん……ふ……」
 紫原が桃井の問いに答えている。この中で付き合うなら、という題目に荒木をあげた紫原に、氷室は心の中でガッツポーズを振り上げた。陽泉の部員として、チームを束ねる彼女に見せ場をつくらなければ、こうして番外編に出てきた意味がない。氷室は虹村との逢瀬に身も心もゆだねきって、その役目を果たせそうになかった。
「よく言ったあつ……ん……」
 氷室の代わりに荒木の株を上げた紫原を、くちづけの合間に褒めてやる。しかし遠ざけたくちびるは言い終わらないうちに塞がれ、あまい陶酔のつづきに虹村の腕の中で身悶えた。
 糸がほどけるようにくちびるを離す。目を開けて、互いの気持ちをたしかめあった。このあとをどうしたいのか、言葉にしなくともわかっていた。
 黒子の不在で混乱する周囲をかなぐり捨て、氷室は虹村の腕をつかんだ。付き合うなら、誰。そんなこと、ずいぶん昔に決まっている。 
「ねえ、俺は決まってるよ。君と出会ったそのときに」
「タツヤ、行くぞ」
 ひな壇から降りた虹村が氷室に手をさしのべる。氷室を迎える柔和な面立ちに、かつて彼の傍で感じていた静かな安寧が胸に広がっていた。
「……ああ」
 腰を浮かせて、彼の手を掴む。指を絡ませ固く握りしめた。つながった指先からてのひらから、互いの熱が染み出て交わる。
 いつまでもこうしていたいと思った。
 望むままに足を動かし、虹村とともに歩みを進める。ふたりの気持ちは同じだった。
 ためらうことなくまっすぐに出口に向かう虹村と氷室の背に、うなだれるようにして演台に手をついた桃井が終幕を叫ぶ。黒子の代わりに立たされた黛はポケットから文庫本を取り出し、読みかけのページをめくるところだった。
「虹村先輩氷室さんお帰りでーすおつかれさまでしたぁあああ!!」

やれといわれたような気がした





かまってシュガーキャンディ

 ページに印刷された文字の羅列を追っていると、タイルを叩くシャワーの音が止んだ。
 ベッドに寝転がりハードカバーを開いていた虹村は浴室で止んだ物音に片眉をわずかに上げ、綴られた頁の端から廊下を伺う。同居人であり浴室でシャワーを浴びているはずの氷室は酒に呑まれて帰ってきた。あとは寝るだけとシャワーを浴びに向かったのだが、何事もなくひとりで支度を調えられるかどうか、気にかかる。
 氷室は虹村と同い年で、つきあいもそこそこ長いものになる。こどもでもあるまいし、ひとりでシャワーを浴びられるか否かを確かめにわざわざ浴室のドアを開けるのはおかしいとわかっている。だが、たとえば、うっかり浴室の床で滑って転んでしまったり、酔いがまわって気分が悪くなったり、そうしたことが虹村の手の届く範囲で起こりえたらと思うと落ち着かない。
 誰にも彼にもこうした過保護な気の遣いかたをするわけではない。理由もなく氷室は、ひとりでほうっておけなかった。
 ドアが開いて、すこしもしないうちに閉まる。廊下を隔てた寝室で浴室の様子に聞き耳を立てる己に苦笑する。どうやら氷室は無事にシャワーを浴び終えたようだ。声もなく安堵し、虹村は読書を再開した。
 ぺたぺた。裸足がフローリングを踏む音が廊下から近づいてくる。ドアを開ける、蝶番のきしんだ音にまじって彼が入ってきた。虹村は本から目を上げずに、浴室からまっすぐこちらに来た氷室へ声をかける。
「風呂上がりには水飲めよ。そうすりゃ酔いもはやく覚める」
 言い終わらないうちに、氷室がベッドへ飛び込んできた。右側の余白に寝転がり、身体を虹村のすぐそばに近づける。
 湯に浸った身体が発する、蒸れた石鹸水の匂い。読書の邪魔を申し出るようにベッドを揺すぶった相手を見れば、濡れた髪を押しつけるようにして虹村の右肩にぴったりとくっついていた。
 発熱した身体の毛穴のひとつひとつから、どこかなつかしい、粉っぽい、それでいてあまい匂いがたちのぼった。氷室の裸体には場違いなパーカーだけ。まだ、下着一枚でうろつかれた方が落ち着いただろう。なにせ氷室がチャックを閉じて着込んだそのパーカーは虹村が着古したものだったのだから。
 毛玉が浮きくたびれてきたので、処分しようと脱衣所に避けておいたそれ。今日が最後と身につけ、風呂に入る際に脱いだまま放ったものだ。氷室はご丁寧にフードをすっぽりとかぶっている。
「タツヤなにやってん……」
 駄々をこねるように虹村の首筋にしめっぽい鼻先をすりつけて、ちいさく喘ぐ。
「しゅう……しよ? ねえしゅう……ん……しゅうってばあ」
 寝入りばなを起こされたようにもぞもぞとそんなことを言うのだから、虹村は焦った。なにかを口にする前に茹だった下半身をすりつけられて、どぎまぎする。彼の身体から発する熱と匂いがわけもなく虹村を揺さぶった。
 氷室とは恋人同士で、こうして住まいをともにしている。手をつないで日常品を買いに行くように、身体を重ねることに抵抗はない。むしろ、そうしたことは両者ともすきな部類に入るほうだ。
 だが、前置きもなくあけすけに求められると、まっさきに理性がストップをかける。氷室は酩酊し、まともな状態ではない。いくらパートナーに求められようと、喜び勇んで服を脱ぐわけにはいかなかった。ましてや彼の身体に手を伸ばすなど、おいそれとできることではない。
 氷室を落ち着かせようと、サイドテーブルに本を置く。そうするために背を向けた虹村の身体を、氷室は両腕でだきしめた。腹にまわされた手が探るように虹村の肌を這う。
「たっ、タツヤ?」
 思わず声を裏返す虹村を気に留めず、氷室は虹村の身体に密着する。背中に閉じたファスナーの溝があたった。押しつけられたとこから、いつになく高い彼の体温が染みいるように虹村の身体をほてらせる。
 やけどをしてしまいそうな熱い吐息が、虹村のうなじで弾けた。
「しゅうきもちい……あったかい……」
 氷室はすきまをなくしてしまうように身体をすり寄せ、もぞもぞと下腹部を押しつける。寝間着ごしにむきだしの氷室の性器があたる。
「いいにおい……しゅうの……ん……」
 腹のあたりに寄せていた氷室の手はゴムで留められた寝間着と下着の穿き口からするすると降りていって、体温にほてる虹村の陰茎を囲う。心臓がとびはねるのに呼応して腰が跳ねた。氷室はそうした虹村の焦りすら楽しむように陰茎をもてあそぶ。驚きの連続で硬さを持ち始めていた虹村の雄をのぞむかたちに整えるため、氷室の指が、風呂上がりで湿ったてのひらが、慣れたように動く。
 はげしさはない。心地よさすら感じる手つきで、ゆっくりと確実に虹村の欲を煽る。氷室に弄られるそこへ心臓が移ったかのように全身の感覚があつまり、汗ばかりが噴き出した。寝間着の下で玉になった汗が腹を腿を滑り落ちていく。
 氷室の手に、己のそれを重ねる。制止を求めるために伸びた手は、力が入らず動けない。
「タツヤ……!」
「なぁに」
 ひそやかな笑みが泡のようにうまれては弾ける。うなじはアイスクリームのように舐められ、チョコレートバーのようにかじられた。
 虹村によりそい、虹村の雄を愛撫する。氷室にはそれすらよいのか、聞く者の脳髄を舐めあげるようなあまったるい声を漏らしつづける。
 動きつづける手はやすむことなく虹村のものをしごき、氷室の手の中で望み通りにかたちを変えていた。下着がずりさがり、腿のあたりで止まったままだ。それがいやに気にかかる。
 氷室の濡れたため息がうなじにあたる。湿ったそのあたりの産毛のひとつひとつがぴんと逆立って、息をとめた。陰茎がひくんと脈打つ。氷室の挙動どころか、氷室が同じベッドにいるだけで虹村の理性はぼろぼろにくずれていた。
 なすすべもなくされるがままの虹村をあざわらうかのように、氷室はふふとくすぐったく笑みを浮かべる。鼓膜は彼のこぼすたがの外れたそれを逃すまいとした。
「しゅうの、さわるの、すき。あ、おっきくなってる。ほらここ……」
 皮をおろした根元を輪にしたひとさしゆびとおやゆびでいたずらに動かす。太腿の内側がこわばり、身体が跳ねた。ちいさく喘ぐ。その反応に氷室はよろこんだ。
 あまえるようにうなじを噛まれ、舐められる。耳元に寄せたくちびるで、ささやくようにねだられた。
「しゅうのおっきいの……たべたいな」
「ターツーヤ」
 彼の名前を口にしたところで、この行為を止める理由などなにもない。
 ただ、虹村がひとりうろたえているだけで。
 細胞のひとつひとつに痕を残していくように、氷室の手がゆっくりとペニスを放り、下腹部のうすい皮膚をたどって、寝間着のうちがわから離れていく。望んでいた展開を与えられたというのに、虹村の身体は落ち着かなく疼くまま。
 身体を囲う腕から力がぬける。背面の拘束から解放された虹村は氷室へ身体を向けた。
 間接照明のあかりのなかで影に覆われた彼はどこまでも不鮮明だった。額まですっぽりと覆うパーカーを外してやる。濡れたままの髪が乱れて、毛先が跳ねていた。隣り合うように身体を寄せた視界では互いがそこにいることしかわからない。
「急にどうした。されてばかりでちっともわからん」
「ふふ……わかる? もう立たないんだ。ふにゃふにゃ……」
 氷室に手を取られた虹村の肌はパーカーの裾をとおり、むきだしの雄に触れる。それは虹村のものとは異なり、うなだれたままだ。
 あのね、と彼が口を開く。
「酒を飲むと、きみにおしえてもらったところが疼くんだ。くちをあけて、舌なめずりして、はやくはやくってうるさい……」
 氷室のへそより下から、濡れたものをいじる音が鼓膜を揺らす。虹村の手をつかんでいないもうひとつの手は、うすくひらいた脚の間で指先をうごかしていた。
 かろうじて保っていた理性が、音を立てて焼け焦げる。
「責任、とって」
 氷室をシーツに押しつけていた。むさぼるように唇を探し、舌でまさぐる。流し込まれる水を相手にするように氷室は虹村の口吻を受け入れ、舌をからませた。唾液がまじって喉を動かす。くちづけの激しさで我を忘れた。
 起こした身体、立てた膝がシーツに食い込む。覆い被さった氷室の身体から噎せ返るほどの彼の匂い。もはや石鹸の香りなど消えていた。
 硬くなった陰茎が彼の陰部で音を立てて擦れる。なかに入り込んでいないのに腰が揺れてしまっていた。抑えてきた欲望に突き動かされるまま、氷室を貪ろうとしている。
 首元まで留まっているスライダーに手をかけ、ファスナーを下ろす。パーカーの裾は氷室の下腹部まで届いていた。
 あらわになった白桃の肌。絹のような手触りを腰から胸へと味わって、やわらかくくぼんだままのそこへ指をおいた。熱を起こすようにするするとさすれば、彼から鼻に抜けるあのあまい声があがる。
 ん、ん。もだえるように腰を揺らしてねだる彼の、兆しのみられないやわらかなそこへ虹村は己のものをあわせてこすった。
 熱いだけのやわらかな軟体は張り詰めていく虹村の雄に押し当てられるままだ。それがどこか、いけないことをしているような気分になる。髪の端から落ちた汗が氷室の鎖骨の浮いた肌に散った。
 指の下で尖った桃色の粒を、彼が痛みを感じないようつまむ。ひくひくと魚のように身もだえる氷室からくちびるを離した。
 深紅に染まったくちびるから舌が覗いている。彼のそれと虹村のそれは細糸のごとくつながっていた。名残惜しく舌を伸ばせば応じるように氷室も絡め、しばし口吻の陶酔に浸った。
 組み敷いた恋人から身体を起こす。ひらいていく目蓋から熱にたゆたう瞳が虹村を写していた。氷室は酔いのせいか、挑むような微笑むような、底の見えないあいまいな笑みを浮かべるだけだ。
 喉を動かす。パーカーを羽織るだけの裸体は咀嚼を待つ皿の上の馳走そのものだった。
「お前さ……」
「……なに」
 虹村は裾に手をかけると寝間着を脱ぎ捨てた。間接照明に照らされて橙に影を濃くするむきだしの半身。氷室はひとり唇をもちあげた。
 唾をのむ。舌が虹村のそれを求めて焦れるように疼く。彼がほしい。この身体の隅々まで彼に、彼だけに、暴かれたい。
 彼の、黒曜石を思わせるうつくしい瞳に暗い欲情が溶け出している。虹村が欲に突き動かされる様に、氷室はとろけるような腰の痺れを感じた。急き立てられた虹村がうらみごとを突きつける。
「責任取れよ」
 あはっ。氷室はすばらしいジョークとばかりに吹き出すと、毒花のごとくほほえみを浮かべた。
「上等」
 噛まれるために汗で照り輝く氷室の首筋にくちづけ、歯を立てた。わざと痕が残るようにうすい皮膚を破き、吸いつく。苦しみ張り詰めた喉の固さに欲が疼いた。だが、氷室にはそれすら好いことを虹村は知っている。時として嗜虐じみた愉しみに浸りたがる彼の困った癖。酒を控えるよう言い聞かせなければこちらの身が持たない。
 ひとりでに脚を開くそのさき、彼のすぼまりに指をのばした。洗ってきたのかやわらかくほころんだそこに、思わず眉がつりあがる。はじめから氷室はこうなることを望んでいた。
 指をすすめればどこまでも入っていきそうなやわらかな粘膜。あ。強ばった身体がよろこびに震える。内側をひろげるように弄れば、あ、あ、と声を出した。
 虹村の首に腕が絡まる。負荷をかけ、ベッドへ沈むよう導いた氷室が虹村の耳元にそっと吹き込む。
「なあ、待たせないでくれよ」
 耳朶に音を立ててくちづけると、伸ばした足裏でいまだ寝間着の中の陰茎を揉むように踏んだ。とうに張り詰めていた虹村のそれは氷室の足裏ですなおに欲を示す。虹村は眉間にしわを寄せるとため込んでいた感情を吐き出した。
「……あー!! 調子に乗んな!」
「俺みたいに下から脱げばよかったのに」
 誘うための色香を払った氷室が普段の調子でからからと笑う。風呂上がりの身体にパーカーを羽織っただけの姿に、お前のそれは脱ぐどころか最初から穿いてねえだろとでも言ってやろうかと思ったが、腹のなかに仕舞っておくことにする。彼のことだ、あっけらかんと「このほうがやりやすいじゃないか。なにをいっているんだシュウは」などと嘯くに決まっている。虹村は上唇をとがらせた。
「うるせえ! こっちはお前のこと気ぃつかって」
「しってる。だからこうやって『責任を取っている』だろう?」
「……ターツーヤー」
「なあもうはやくしてくれ。待ちきれないんだ。俺がいつから待ってると……?」
 つまさきでじれったく下着ごとずりさげていく。露わになった下腹部から待ちぼうけを喰らい続ける陰茎が顔を出した。顔を喜色に染めてよろこぶ氷室に対し、虹村は頭を抱えた。
「ほら」
 虹村に伸ばした脚とは別の脚をひろげ、膝を立てる。氷室の身体を正面にのぞみシーツに膝を立てた虹村には、ひろげられた脚の奥が見渡せた。
「まるみえだ」
「―――ッ」
 氷室の腰を抱き、ろくに位置を確かめないまま突き入れた。氷室の反応もかまわず、突き動かされるように腰を動かす。彼の肌の上でパーカーの裾が揺れ、スライダーの把手ばかりがぱちぱちと音を立てる。あぶくが弾けるように喘ぎ続ける氷室は揺すぶられるままだ。
 涙をためた瞳を自身に覆い被さる虹村に向ける。そこに怒りや恨みはない。くちびるを笑みの形を保ったまま、唆すように声を上げた。首に絡んだ腕がもとめるように絞まる。ふたりの汗ばかりを吸い込むパーカーが邪魔だった。
「ふ、あは……。わかる? 俺、しゅうのかたちになってる……」
 氷室のあけすけな物言いに、かっと顔が熱くなる。それでも腰を止めることはできなかった。ぱちゅぱちゅとつながったところから濡れた音がする。
「そーゆーこと言うのやめろ!」
「はずかしいのかい? 俺にこんなことやあんなことを教えておいて……ここだってしゅうしか知らないのに」
 示すように虹村のものをきゅうっと締める。声を出さないよう動きを止め、氷室に再度問いかける。
「……タツヤ、お前本当に酔ってるんだよな?」
「あたりまえじゃないか……素面でこんなこといえないよ……あ、そこ、いっ……」
 氷室が耐えるように眉を寄せ、虹村に抱きついた。内側はさきとは比べものにならないほど狭まり、虹村をころがすように締め続ける。かわらず前は萎えたままだが、虹村を求めるその姿は普段みせる果てる姿と同じだった。
 脚が腰に絡み、むすぶように背で閉じる。深くまで迎え入れられた虹村は目をつむって激しい波に呻いた。
「すご……しゅうの……いいとこばかり、あたっ……あ。ああ」
「タ、ツヤ……? もしかして」
 前髪の散ったほてった頬を涙がひとすじ流れていった。氷室の内側はいまだくつくつと収縮を繰り返し、虹村のそれを物足りないとばかりに味わい続ける。沸騰する身体のうちがわに反して、氷室はあまえるように声を出す。
「ん。たたなくても、いっちゃうっていうのかな……とにかくきもちよくって……きみ、おぼえていないのかい? 前から、たまにこんなふうになるんだけど……気づいているものとばかり、思ってた」
 かかとで虹村の背をこつこつとつつく。虹村を引き寄せると、どこか寂しがるような口調でその先をねだった。
「だから、さ……もっと、うごいて……」
 まだ、たりない。そうしたことを耳元でささやかれて、まともでいられる男などひとりもいない。
「わかった、降参だ。ぜんぶ俺が悪い。そういうことにしよう。その代わり、とことん付き合えよっ……」
 眠るために整えられたベッドが虹村の望むとおりに揺れうごく。もっと、まだ、ねえしゅうはやく……。幾度氷室のねだる声を耳にしただろう。満ち足りた氷室が虹村から脚を離した頃には、カーテンの隙間から淡い朝のひかりが部屋に差し込んでいた。


「きもちよかったぁ……」
 血色のよい艶めく肌をシーツにうずめ、氷室は情事のあとの一糸まとわぬしどけない肢体を思い思いに伸ばしていた。虹村のはいっていたところから、うすくなったものがとろりと垂れている。拭うのがもったいなくて、収めたままにしていた。この身体にまだ虹村があるのだと思うと、それだけで心はときめく。まだ、シャワーを浴びるには早い。
 酒のいきおいのままに求めてしまった気はするが、虹村もたのしんでくれたことだろう。氷室はタオルケットにくるまったまま寝転がる虹村の腰をつんとつついた。途端にびくっとタオルケットのかたまりが跳ね、いとしい恋人がもぞもぞと顔を出す。
 どこかやつれたような面立ちに氷室は顔を曇らせると、やわらかなくちびるに己のそれを重ねた。
「シュウ、だいじょうぶ? なんだかすごく疲れていそうだ」
「……開きにされて搾り取られたスッポンの気分だ。満足したか?」
「Of course! すごくよかったよ! さすがシュウ!」
「そりゃコイビト冥利に尽きる」
 疲れの残る顔でおだやかに微笑まれて、子供にするように頭をなでられる。それがたまらなくうれしくて、身体中に陽が差したようにあたたかかった。
「寝るところだったのにごめんね。もう朝だ……今度から下戸で通すよ。酒はきみのまえでだけ飲むことにする。俺、酒をのむとどうかしてしまうんだ……タイガにも窘められるんだけど、昨日は断れなくて……」
「気にすんな。いくら酒を飲んでも、お前の帰ってくる場所はここだろ」
 虹村の気遣いに締め付けられたように胸がきゅっとくるしくなる。ずっと一緒にいたい。そう思えるのは彼ひとりだけ。
「ねえ、俺たちって相思相愛だね」
 虹村の頬に手を伸ばす。虹村は氷室の手をあじわうように頬をすりつけ、親指の先にくちづけた。心臓がことんとやわらかく鼓動を刻む。
「そうだな」
 カーテンの隙間から差し込む日がすこしずつ光を増していく。ふたりは目覚まし時計のアラームが鳴るまで、シーツにまどろみつづけた。


(2016/4/25)
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