こんなにスバラシイおにいさん



 昼ごはんの食器を流し台にまとめてしまうと、ふくれた腹からゆるゆると眠気が立ち上って、俺はいつものように午後のサスペンスドラマを横にひと眠りしようとソファに寝ころんだ。
 ちょうど流れていたのは赤い救急車シリーズ。病院の理事長である主人公の女性が行く先々で事件に巻き込まれたり首を突っ込んだりして、二時間後には犯人を挙げる話。ジャーナリストになるのが夢だったせいか妙に頭が冴えるこの主人公は、事件の糸口をみつけると病院の経営をほっぽって事件の関係者に話を聞きに行ったり、現場に足を運んだりするものだから、先代からの専務が「探偵ごっこはいいかげんにしなはれ」って言い留めるのだけど聞きやしない。
 彼女を筆頭として、昼に流れる再放送のサスペンスドラマは多彩な主人公ばかりだ。
 警視監の父をたてに事件に首を突っ込む名家のルポライターとか、ロングの仕事をゲットして職場でありがたがられるドライバーとか、外務大臣の叔父を持つ助教授との恋にやきもきするアメリカ大統領の令嬢とか。日本ではふつうの民間人が警察よりも有能に犯人を見つけ出すのだから、治安の良さも納得できるというものだ。
 毎日ことなる主人公のドラマが流れるので設定を覚えるのがたいへんだけど、どれも似たようなつくりだから見るのは苦にならない。脇役でいつもおなじ女優がでているしね。悪役を演じる俳優はどこのシリーズでも良いキャラクターで出てきたためしがないから、顔でだれが犯人か目星がつくようになってしまった。彼らは悪役専門で契約を結んでいるのだろうか。
 それにしてもこの手のドラマはよく京都が舞台になるのに、まともに京都弁をしゃべるキャラクターがほとんどいないんだ。洛山のレギュラーもみんな標準語をしゃべっていたし、京都弁というのは観光客向けにしゃべるものなのかもしれない。陽泉でもついぞ秋田弁とやらを聞くことはなかったし。
 クーラーをいれなくても心地よく過ごせる昼の陽気。外はいい天気で、広い窓からはちみつ色の日差しがリビングを照らしていた。まぶたをおろして、くたびれはじめた革のソファに身体を横たえた俺には、丸めがねをかけた専務の叫びもとおく聞こえる。
 うつらうつら、きもちのいい寝入りばなをときどき専務に起こされながら漂っていると、フローリングを裸足で踏む足音がぺたぺた近づいてきた。
 ぎっ。負荷がかかってソファがきしむ。間近にせまるひとの気配にゆるゆるとまぶたをあげると、タイガがちょうど俺の額にくちづけたところだった。やわらかくてあたたかいくちびるが押し当てられて、ゆっくりと離れる。俺はふぬけた声で弟を確かめた。

「たいが……?」

 目をしょぼつかせる俺にタイガはいつものおねだり。

「タツヤ、金ちょーだい」
「いいよ、いくらほしい……?」

 半分もおきていない頭で身体を起こして、テーブルに放った財布を手に取った。タイガが耳たぶを舐めるように近づけたくちびるで「五万」といったので、いくつかの紙幣をひっぱりだして渡した。タイガの声の形にふるえた鼓膜のせいで、へそから下のあのあたりが熱くなった。
 ちょうど望んだ額だったのか、タイガは金を受け取ると「Thanks!」って俺の頬にキスして、ふたつに折りたたんだ何人かの福沢諭吉をズボンのポケットにねじこんだ。背を向けて廊下へもどっていく。
 俺はシャツを着た背中に手を振って、もういちどソファに寝ころがった。テレビではちょうど誰かが死んだらしく、刃物が身体を切りつけるへんに大げさな効果音が怪獣の鳴き声みたいだった。
 俺はゆっくりとまぶたを閉じた。とおくで玄関の戸が閉じる音が聞こえた。




「ターツーヤ」

 沈んでいた水の中からいきなり引き上げられたように、タイガの声で目を覚まされる。気がつけば俺はソファからタイガの両腕へ寝床を移していて、テレビは通販会社のコマーシャルばかりがうるさかった。
 危なげなく俺を抱き上げているタイガは男ひとり分の重さなど感じさせない足取りでリビングから廊下へ足を向ける。おひめさまのように抱きかかえられている最中の俺は、タイガが俺を転がり落さないようにとりあえず首に腕を回した。そうすれば理由もなくそうすべきことのように足が止まってくちびるがくっつく。合わせたくちびるが塩辛かったので、なにか食べてきたのだろうとそんなことを思った。マジバのポテトとか。
 タイガがあけっぱなしのドアから寝室に入っていった。ベッドに俺を横たえると、福澤諭吉が押し込まれていたポケットからメタリックの小箱を出して。

「ゴム買ってきた。しようぜ」

 ぴかぴかひかるパッケージをどれも使い切った頃には、俺たちはどろどろにきもちよくって、シーツも替えずにすこし眠った。つい熱が入ってベッドに無体を働いてしまったけど、たまにつかうと年々こうした避妊器具の性能があがっていくのがよくわかる。薄いスキンをつけあうだけでおかしくって、ふたりで声を潜めてわらった。
 目を覚ましたらちょうど日が沈むところで、俺はタイガを起こしていっしょにシャワーを浴びた。スキンをつけると中を洗う手間が省けて楽だけど、なんだかものたりなかった。それはタイガも同じだったみたいで、シャワーを止めずに風呂場でした。
 ざあざあと床をたたきつける飛沫が臑にかかっていたけど、じきにどうでもよくなった。水道代が勿体ないと思いながら、止めるために手を伸ばすことすら億劫だった。タイガと俺の声が湯気でけむった風呂場で反響して、部屋中に届いていたことだろう。もしかしたらフロアにまで。 
 タイガは風呂から上がるとタオルを腰に巻いたままバナナをかじった。鍋から取り上げられたばかりのように茹だったタイガは、しばらくこのままぐずぐず過ごすことにしたらしい。俺はすっかり身支度を調えてしまうとコップに入った水を渡し、タイガにいってきますのキスをして、家を後にした。
 日は沈んで、暗い橙の余韻がうすい闇に溶け込もうとしていた。いい夜の始まり方をする外の空気を、肺いっぱいに吸い込んだ。小学生が帰りを急ぐようにばたばたと目の前を通り過ぎた。
 まともに歩くと腰がだるいことに気がついたので、とりあえず蒲田のシェンファとフィフィーのところに行って、マッサージしてもらった。
 店が始まる前だったので、大手を振って彼女たちの個室に入る。彼女たちは俺を見るなりいつものようにきゃあきゃあはしゃいで、たくさんのキスをくれた。背中を足の裏で踏んでもらいながら、腰のあたりを揉んでもらう。つかいすぎねってふたりはくすくすわらった。
 おこづかいをもらって新宿に行くとちょうど出勤前のエーディトたちにでくわして、いつものようにカフェへ連れていかれた。彼女たちは俺を前にするとはじめにくすくすとわらいあって、顔をみあわせて誰から話し始めるかをまなざしで探り合う。タイガは元気……? 彼女たちはかならず弟の調子をたずねるところから話を始める。まるで謎かけをするように。でも、そうした学生服の女の子みたいなじれったい態度もコーヒーを半分も飲み終わらないうちに本来の調子にもどって、店の愚痴とか、客の悪態とかをわらいばなしにして盛り上がる。声が大きくなると人差し指をくちびるに当てて、しーって窘めるのはオルガの役目。
 俺だったらそんなことしないのにねってマルティナの手を握ったら、タツヤならどんなことをしてもゆるせるわ。絶対よ。そういって片目をつむる。みんなで行くアフターはどこがいいか、あれこれあがる店の名前をそれぞれの国のアクセントで聞いていると、今日はアツシと晩ご飯を食べる約束でしょってイリーナが教えてくれた。
 そうだっけ? ぜんぜん思い出せない俺が頭の中の予定表をめくるまえに、みんなが我が事のようにおどろいて声を上げた。かわいいアツシを放ってなにしてるのよ! こんなところでのんきにお茶してる場合じゃないでしょ! これだからタツヤは! みんなは俺を急き立てるとおこずかいをくれた。いつもよりちょっとずつ多くて、俺は彼女たちを抱き寄せて頬にキスをした。腕にした身体からそれぞれ違う香水のにおいがして、鼻がくすぐったくなった。
 みんなから追い出されるように新宿をあとにして、イリーナに教えてもらった待ち合わせ場所どおりに汐留に来た。こんな辺鄙ところでアツシとご飯を食べる約束をしたかどうか、半信半疑だったんだけど。あ、スマホで連絡を取ればいいのか。そうか、そうだね。まったく考えつかなかった。アツシの連絡先、はいっているかなあ。
 新宿をぬける途中でめんどくさいのにひっかかって、いくつか名刺を押しつけられた。
 タイガからスカウトマンにだけは絶対について行くなってきつく言われて無視してるけど、それでもしつこくてしつこくて。それがこれとこれとこれと……あ、こっちにもあった。ああいうひとたちは構内をうろうろしてご飯前なのにお腹がすかないのかな。俺はタイガといっぱいしてから、バナナをかじったきりで腹ぺこだったよ。だから福井先輩が教えてくれたメンチ、を切って追い払ったんだけど、途端にまわれみぎして消えるからとても楽だよね。福井先輩はいいひとだったなあ。
 あっこれアツシの部屋で見たアダルトビデオ会社の名前だよね。ちょうどよかった、アツシこれいる? なんかね、おとこのこもガチ向けもやってるって。ガチってなんだろうね、あはは。そういえばアツシが好きな女優とこないだご飯をたべたんだ。そのままお持ち帰りさせてくれそうだったけどアツシを思ってことわってきた。俺、身持ち堅いし。連絡先いる? 案外簡単にやれそうだったよ。

 

 
 つまんだ名刺をひらひらと揺らす陽気な氷室辰也のグラスで、残りひとのみほどの黒ビールがしゅわしゅわとこまかな気泡をあげていた。これで五杯目。いくら杯を重ねても、色素の薄い肌に酔った様子はみられない。
 めずらしく時間ちょうどに着いたかつての先輩にかるい気持ちで訳を聞けば、明らかになったのは知りたくもなかった彼の今日のスケジュール。紫原はオレンジの刺さったカシスオレンジのグラスに手を伸ばす意欲を棄て、半月状のまなざしを深くして、テーブルを共にするすけこましの話に耳を傾けつづけた。
 バスケをやっていたとは思えない彼の、すらりと伸びた白い指に挟まった縦長の紙片を、欲しいなどと思うはずもなく。氷室との間で揚げたての皮付きポテトが、じゅうじゅうと音を立ててバターの溶ける香ばしいにおいを漂わせていた。

「室ちんいまいくつ」
「今年で二十八だよ。タイガは二十七だ」

 彼の指先で名刺がひらひらと揺れる。

「今日何曜日」
「資源ゴミの日だったから水曜日。帰ったら燃やせるゴミをまとめておかないと……」
「いま何時さ」
「えっとね……午後六時半くらい。あそこの壁に時計がかかってる」

 彼はどうでもいいもののように指の内の紙片を落とすと、グラスを手に取った。残った酒を一息に飲み干して、水滴のしたたるグラスをコースターの上に置く。酒をあおった拍子に玉になった水が落ちて、紙片を台無しにした。
 酒をたしなむくせに彼の声は一度も焼けたことがない。

「室ちん、職歴って知ってる」
「いままでにどんな職業に就いたかだっけ。なんだいアツシ、俺に一般常識を聞きたいのかい? しょうがないなあ、俺はやさしいからググれクズなんていわないよ。ほら、知りたいことをいってごらん」

 氷室は歌うようにさえずいて、なんでもどうぞと穏やかに迎える。こちらの意図した流れとはべつの、見当違いの方向へ話を進めようとする彼に、しびれをきらした紫原は直接いってやることにした。
 彼は高校時代から芯の通った好青年と評価され続け、くだんの弟とやらからは頼りになる兄貴などと馬鹿の一つ覚えのように慕われているが、長年彼のとなりで割を食ってきた紫原にしてみれば、その評価はでたらめ以外の何物でもない。
 ビールをはこびはこび、彼が三十分ほどかけて語った話のどこを切り取れば、夜の蝶からもらった金で生活する、三十を間近に控えた無職の男を肯定できるというのだろう。
 なにがいちばんの問題かというと、この男、己の生活様式にみじんも疑いを持っていない。自分こそがまともなのだともはや開き直りに近しい態度が、真っ当な社会人である紫原の神経をふつふつとささくれ立たせる。それでも、彼を窘めずにはいられない。

「室ちんの定義する一般常識は聞いてみたいけどそーゆーことをいいたいんじゃないし。ねー室ちん……いつまでいまの暮らしつづけんの。このままじゃ底辺まっしぐらだよ、若さで許されるのはいまだけだからね」
「失礼だな。ちゃんとゴミは分別して朝早くに出して、資源回収の日はまとめたのをタイガに縛ってもらって、ベランダも駐車場もきれいにしている。スーパーの特売日を狙って必需品を揃えて、ご近所さんともスイカと漬け物を分け合う仲だ。タイガとは喧嘩のひとつもないし、六本木の子たちの相談にも乗ってる。ビザを工面するのは大変だよね……これのどこが底辺なんだ。ひどいぞアツシ、俺はちゃんと真っ当に生きてる」

 胸を張ってコミュニティでの頑張りを口にする彼に、紫原はやる気なく頬杖をつく。放っておかれるままのグラスの氷が溶けて、からんとひとりでに音を立てた。

「あのさあ室ちん、働くっていう選択肢はないの。火神に働かせるっていう選択肢もないの」

 彼は手づかみでまだ熱い白身魚のフライをさくっとほおばって、すっかり胃へ送ってしまってから。

「タイガはバイトをしているみたいだ。たまにふらっといなくなってふらっと帰ってくる。お年寄りの面倒をみているみたいで、この間も長野の山をもらってきたとかなんとか。タイガはすごいぞ、田んぼも畑も家だって持っているんだ。どこも東京から離れているのが難点だけどね。たまにぽんっと生活費をくれるから、タイガはちゃんと働いてる。ニートなんかじゃないぞ」

 どうだ、すごいだろう! 彼のくちぶりは親ばかのそれに等しかった。否、弟ばかだ。火神の得体の知れない仕事ぶりを聞く羽目になった紫原は本気で耳をふさいだ。すぐそばにある非日常というのはこうしたところからでてくるのだ。夜中に神社の境内を散策するよりも身に迫る恐ろしさ。

「こわいーききたくないー。洒落にならないーやーだーあいつこわいー」
「おとといもこのくらいの厚さの諭吉の束を」
「やーめーてー。こわいおじさんたちとおつきあいしたくないー。……ってゆうか、自分で稼げてんのになんで室ちんにたかるの……? あいつこそが真のクズヒモなの?」

 心霊特集がおわって別の話題に移ったテレビ番組を前にするように、紫原はそろそろと耳から手を離した。紫原の挙動が目に入っていない氷室は、アルコールの作用なしに紅潮した頬で恋するように弟を語る。それは氷室を前にした女性たちのするものとかわらない仕草だった。

「でも、タイガは俺のためにスキンを買ってきてくれたよ……それも一箱……」
「それ当たり前のことだから。生がデフォルトの室ちんたちがおかしいから」
「そうなのかな……。でもタイガが俺のためにわざわざスキンを用意してくれたんだよ。それですごく楽しい時間がすごせたんだ……タイガは本当に兄貴思いのいい弟だなあ」
「釣りの四万九千円強はどこに消えたのさ」

 ものを置いていないテーブルの上を彼はおちつかなくくるくると指で円をえがく。彼は物思いに耽るように、はあと濡れたため息をついた。会話の内容さえ知らなければ、見とれるような仕草だったろう。ことに女性には。

「タイガが欲しがってたんだ、あのくらいすぐに新大久保の子たちが用意してくれる。どうってことないよ……銀座のママなら通帳にシャンパンにマンションに車までつけてくる。めんどくさいから断ってるけど」

 そういって近くを通りかかった男性の店員にビールの代わりを頼む。ひとりフランス映画の登場人物のようにアンニュイな雰囲気を出す氷室に、ビールの注文しか取っていない男まで深刻な顔つきになっていた。おそらくたぶん、彼らはいまが初対面の赤の他人のはずなのだが。
 あっもう性別とか関係ないんだ。紫原はふざけた世の中の成り行きに、ひかりを消したまなざしを送ることしかできなかった。いましがた氷室が吐いたそうとうふざけた物言いに口を挟む気にもなれない。
 男性店員が後ろ髪ひかれるようにちらちらと氷室を振り返りながら去って行った。ビールを頼んだ彼はというと、ピクルスをかじって「まあまあだな」とほざいている。

「ピクルスはタイガか俺が漬けたものにかぎるね。よそで食べるとなんかちょっと……。今度アツシにもわけてあげようか。おいしいよ」
「……俺帰っていい?」
「まだつまみ残ってるし酒も飲んじゃいないだろう。アツシここの締めパフェが食べたくて俺を誘ったのに、食べなくていいのかい」

 ほらほら、これがほしいんだろ。メニューを掲げる氷室に図星を指されて声もなくうめいた。彼のいうとおり、この店は酒を飲んだ後にたべるパフェが有名で、何度か雑誌にも掲載されている。紫原のように甘党ではない彼が、みずから進んでこの店を調べたはずがないだろう。
 さえずくとすれば彼のまわりの華々しい小鳥たち。紫原はうすくなってすっかり飲めなくなったグラスから、オレンジを抜き取った。

「……そのさあ室ちんの飲食風俗ホテルガイドマップ頼りになりすぎてすごくやだ」
「勝手に耳に入ってくるだけだよ。俺はついていくだけ。俺はあの子たちの天使なんだってさ……ふふ、天使はセックスしちゃだめらしいよ。だから俺、あの子たちの誰ともしていないんだ……おかしいの。アツシ、連れていってほしいの? 俺と一緒にホテル行く?」

 公衆の面前で平然とのたまう氷室に、食んでいたオレンジをひといきに飲み込んでしまった。皮だけになった白いうちがわが間接照明に照らされて、いやに目につく。まだ粒をいくつものこしたままの実が、ごわごわと皮ごと喉をすべり落ちていくのがきもちわるい。氷のちいさくなった水で喉の不快を押し込めてしまうと、くちびるを手の甲でぬぐった。
 どっどっと心臓が左胸で跳ねている。耳のふちが火のついたように熱くなって、顔中が燃えているようだった。紫原はわけのわからないまま、両手でぺちぺちと頬をはたいた。氷室のこうした物言いに慣れることができない。火神のようにふたつ返事で応じることも、戯れ言と無下に断ることも、紫原はいつまで経ってもできなかった。

「いっい行っかねえよ?! なっ、なにをどう聞いたらこの流れでそうなるのさ! つか今の聞きたくなかったし!」
「遠慮しなくてもいいのに……。あ、俺じゃなくてあの子たちといっしょに行きたかった? アツシならモテモテだ」
「こわいおにーさんが出てくるからヤだ!」
「そんなことないよ。俺、あの子たちといっしょにいて恐い思いをしたことはないなあ……どこのお店の事務員さんも俺のこと知ってるみたいで、俺が行くとおんなのこを呼んでくれる。なんかね、俺を知ってる子と知らない子とじゃ売り上げがちがうとかなんとか」

 紫原のあわてぶりに動じることのないまま、彼のかたちのよい指がポテトをつまむ。ちょうどビールが運ばれてきて、氷室はポテトを口にくわえたままさっきの店員に顔を向けた。彼女のひとりでもいそうな店員は無防備な氷室を前にまともに固まり、ぎこちない動作でグラスをコースターに置くと足早に去って行った。彼の足の向いた先は厨房ではなく控え室で、第三者のあわてぶりに紫原の気持ちも冷めていった。
 いつもの落ち着きを取り戻して、まずいとわかっている橙の液体をひといきに煽る。溶けた氷でうすくなったアルコールは胃に収めても酔いを招きそうになかった。

「そりゃヒモいたら貢ぐためにはたらくでしょーねー……」
「アツシはひもひもうるさいけど、なにかひもに恨みがあるのかい? 貝のひもはわさび醤油で食べるとおいしいよ」

 注がれたばかりのビールをひとくち堪能して、グラスから離したうわくちびるのあたりに、ひげのように黒い泡がついている。ふざけた格好なのにへんに似合っていて、すこしだけ目の前が熱くにじんだ。
 彼は年を取っても、この端整な顔立ちをくずすことはないだろう。いくらふざけた生活を送ろうと、取り返しがつかなくなるまで身持ちを崩すことのないように。
 きっといつまでもこんなふうに、ままごとのような暮らしをつづける。よくもわるくもそれが紫原の知る氷室辰也という人間なのだと、ほんとうはわかっていた。
 人差し指をのばして、彼のうわくちびるについた泡を線を引くようにぬぐった。彼はされるがままだった。キスを待つように目を閉じることなく、まっすぐに紫原をみつめる。紫原は指でぱちぱちはじける泡を床におとした。氷室は紫原のしたことに眉ひとつ動かすことなく、かわらず酔いのかけらもない瞳で穏やかに座っている。

「アツシ、酔った?」
「ううん、ぜんぜん」
「酒が足りないんだよアツシ、俺がたのんであげよう」

 すぐそばを通りかかった店員に紫原の酒を頼む。女性とみれば呼吸をするように話をはずませる氷室に、どことなくきつそうな感じの店員がゆるゆるとほだされていくのを、紫原はただ眺めた。氷室に彼女を口説いているという自覚はない。彼と話をした相手が勝手に勘違いをするだけだ。
 冷め始めたポテトを口にほうって、粗塩をじょりじょりと奥歯で噛む。彼女が紫原の酒をもってくる頃には、連絡先をしるしたナプキンかコースターが氷室の手元におさまることだろう。彼の、重みのない真摯なことばだけを耳にしていると、どんな女性もかんたんに転がるに違いなかった。
 彼の弟のように、なにもかも知らんぷりしておなじところに収まってしまえば楽なのだとわかっている。赤の他人だがみずしらずの誰かよりは深いところでつながる後輩。あまやかされるおんなのこにはもうなれない。

「室ちんの仕事ぶりを見た」
「え、なに? しごと?」

 店員が去って戻った静けさにそんなことを口にした。紫原の指す意味をわからないでいる氷室がさして気にならない様子で聞き直す。彼がこちらの意図に気づいていようが気づいていなかろうが、ほんとうはどうでもよかった。
 高校からやりなおしてえと本音の底をさらけだせば、ひとでなしはおだやかに紫原の頭をなでた。