あなたがわたしを泳がせる
暗い
エレベーターを出て、しんと静まりかえった廊下を進む。かつん、かつん。自分の足音だけがフロアを満たすように響いた。休日の午前は、こうして誰も彼も扉の内側に閉じこもって、生きているのを覆い隠しているものなのだろうか。それとも皆外へと出払って、もぬけの殻と化した部屋を並べているのだろうか。
誰かいてくれればいいのに。ここには氷室ひとりだけではないと、他にも住んでいる人間がいるのだと、はやくその扉を開けて証明してくれればいいのに。
開くはずのない他の扉に爪を立てるような思いで、そんなことを考える。
いくつも歩かないうちに、家に着いた。見慣れた鉄の扉が、のっぺりとした別のいきもののように思えた。ドア以外の何物でもないが、そのノブに鍵を差し込み扉を開けるには、今の氷室には荷が重すぎた。
ひらけごま。
氷室はこの扉の開け方を知っている。開けるための道具を持っている。この扉は氷室と、この部屋の持ち主しか開けることができないことも、氷室は十分すぎるほど知っている。
ノブに、鍵を差し込んだ。
いつもの方向に回せば、かちり、と。鍵が開く音がした。
手応えを感じないまま鍵を引き抜く。なにか、触れてはいけない物のように氷室はノブを掴んだ。
かちゃん。
開いたドアの先。窓から燦々と差すフロアの陽光が入り込み、見慣れた玄関を照らした。
薄暗がりをこじ開けたひかりの中で、弟が待っていた。
爪先を玄関に向けて体育座りをした火神が、氷室を見上げて待っていた。
「おかえり、タツヤ」
一歩、二歩。氷室は玄関に身体を押し込むと、ドアを離した。がこん。支えを失ったドアは、ひときわ大きく音を立てて閉じていった。
「……ただいま、タイガ」
氷室は靴もそのままに、火神の元へ歩いていった。小さな手提げ袋が音を立てて隅に放られる。玄関マットに膝をついて、足を組んだまま微動だにしない弟の身体を抱きしめた。慈しむように頭を撫でれば、火神の短い髪が氷室の手をざらりと撫でた。
「ちゃんと寝たか?」
「一度ベッドに入ってうとうとしてたけど、寝れなかった。落ち着かなくて、ずっと待ってた。タツヤ、俺ちゃんと待ってた。タツヤがここに帰ってくるのを、ちゃんと待てた。タツヤが帰ってくるのはここだから」
「タイガ、一緒に寝よう」
靴を脱ぎ捨て火神を立ち上がらせると、ゆったりとした足取りのままベッドへ連れて行こうとした。いまの火神に必要なのはたっぷりの休養と氷室だった。それは、火神を放った氷室自身がよくわかっている。
火神が、腕を引いた。
「タイガ?」
どうした、と。尋ねるべきことばを恐れるように口にしたことに、火神は気付いているだろうか。視界が、地に落ちていく。舞い上がった気持ちは朝になる前に消え果てていたが、絶望には更に底があることを氷室はひさしぶりに思い出した。背に固い床が横たわる。押し倒すというにはゆったりとした動作で、氷室は火神にのし掛かられた。
これはまずい。それも相当。過去を紐解くまでもなく、氷室は唾を飲み込んだ。普段は多少の恐慌に陥っても、氷室があやせば火神は言うことを聞いたものだ。ベッドに寝かせ付けて、火神の気の済むまで隣にいてやる。己はここにいるのだと、火神のそばから氷室が離れることはないのだと、赤ん坊にするように接すれば自然と眠りに落ちたのに。
いまの火神はひどく参っている。そうさせたのは、他でもない氷室だ。
氷室はされるがままであろうと身体から力を抜いた。それだのに、火神の好きにさせようと意識すればするほど、意に反して氷室の身体はこわばっていった。
ぎゅうとすがるように抱きつかれる。ここに氷室がいるのだと、己の腕の中に愛すべき兄がいるのだと、確かめなければ気が済まないとでもいうように。遠慮のない力で腕の中にしまいこまれて息ができなかった。このまま火神は己の息の根を止めてしまうのではないかと勘ぐってしまうくらいには。だが、それも慣れたことだ。火神に一方的な感情で抱き潰されることも、おそらくこれから起きることも、氷室には慣れたことではないか。
「タツヤ、たつや、タツヤ、たつや……」
肩口に押し当てられたくちびるから、己の名前がぼろぼろとこぼれていく。いくつも呼ばれた自分の名前はどれも異なるニュアンスを帯びていて。氷室はそのまま、火神が名前を呼び終えるまで待った。下手に呼び返したらどうなるかわからない。
「タツヤ……っ」
火神は必死だった。全力で氷室を求めていた。こうなることなど、初めからわかっていた。なぜなら氷室が、火神をここまで追い込んだのだから。
黒子の言葉に甘えずにひとりで帰っていればよかったのだ。一晩中火神を玄関マットの前で座らせないで、抱きしめてやればよかったのだ。ごめんね、つらかったね、俺はずっとここにいるから。そうやって傷ついた火神を優しく慰めるべきだったのだ。だが。
もどかしいほど時間をかけて、火神が氷室の衣服を脱がしていく。火神から逃れようと思えば、いくらでもできただろう。抵抗する隙と余裕は氷室に与えられていた。だがここで氷室が一度でもほんの些細なことでも拒絶すれば、火神は二度とかえってこない。
だからこのまま、火神の望むように待たなくては。己は餌を与えるためにここへ戻ったのだから。
己がこしらえた鉢のなかで泳ぐ、赤い鱗の金魚に。
「タツヤは俺のこと、すき?」
貪るために中途半端に脱がされ露わになった皮膚を、手のひらで撫で上げられる。腰骨のあたりをわざとらしく触られて腰が揺れた。火神のやり方に慣れた身体は、いとも容易く熱を灯らせた。お互いをつないでいるのが執着だけであっても、触れられれば身体は火照る。
「タイガが俺を思うように、好きだよ」
耳介を濡れた舌でねっとりとなぶられる。近くで発せられる彼の吐息に、ぞくぞくと背が震える。細かな突起やくぼみを執拗に舐められて、耳朶を噛まれた。そして、誓わせるようにはっきりと火神は訊いた。
「タツヤには、俺だけだよな?」
「タイガが俺しかいないように、俺にはお前しかいないよ」
はじめからそうじゃないか。
引きちぎるように頬の肉を噛みしめる。破けた肉から流れ出すなまあたたかい液体が口を満たすが、氷室は構うことなく歯に力を入れ続ける。
濡らすということを知らない指が、加減のない力でくぼみを抉った。ひきつるような痛みに背が跳ねたが、氷室の陰茎は屹立していた。誰にも触れられることなく。
そうだ。氷室のくちびるはひとりでに弧を描き始めた。その代わり、彼は存分に打ちのめされていた。己の身体に。黒子がしきりに羨ましがるこの肢体に。
俺はこいつにこうされなければ、きもちよくなんてなれないんだ。
「タツヤは俺の兄貴だよな? ずっと、ずっと、俺だけの兄貴でいてくれるんだよな?」
「タイガは俺の弟以外の何者でもない。お前は俺のただひとりの弟だ。弟を見捨てる兄がどこにいる?」
火神のために用意した解答を間違えることなく示してやれば、火神は感極まったように身震いした。火神の声に恍惚の色がまじりはじめる。どうやら氷室は正しく火神を導くことができたようだ。火神の厚いてのひらが氷室の頬をゆっくりと撫で、そのまま膝まで下ろしていく。氷室の身体にぞっと悪寒が広がった。火神に触れられて喜び以外を感じたのはこれが初めてだった。
「タツヤ……」
力の抜けた氷室の足を抱え上げ、あらわになった窄まりに舌を突き入れる。氷室はふるえながら唾を飲み込んだ。錆くさい液体がねばつくように喉を通っていく。
そうなのだ。こうでなければ己はいけないのだ。
何もしないでも屹立している陰茎がすりつけられる。氷室が相手ならば火神はいつだってひとりでに勃起した。氷室は火神の苛烈ともいえる行為にのみ快楽を見いだした。それが彼らのいままでのやり方で、あり方だった。
火神に身体を犯される。そんなことなど火神が氷室を床に押しつけたときから、わかっていたことではないか。だが、改めて火神に行為をまざまざと与えられ、決心した心とはちがう言葉を氷室はしゃべっていた。それは、火神には決して言ってはいけないことばだった。
「やめ、ろ。たい……が」
氷室の窄まりは突き立てられるがままに、一息に火神の物を飲み込んでいった。氷室を痛めつけることなく火神を受け入れた己の身体に、氷室は声に出して笑いそうになった。
火神の望むとおりに反応する肢体。そうあらねばならないと火神を使って身体を作り替えたのは、氷室自身だ。いくらあまい思い出で忘れようとしても、それはこの身体が覚えている。
火神の耳には氷室の声は届いていないようだった。もしかしたら火神に届くのは、火神が必要とする兄の声のみかもしれなかった。
肉と肉がぶつかる音を狭い廊下に響かせながら、火神がうわごとのように口を開く。氷室はそれを揺さぶられながら聞いた。火神の言葉を聞き留める役割は己に与えられたものだ。
「タツヤ、俺わかったんだ。俺、タツヤのこと、ずっとずっと愛してた。タツヤが俺のこと愛してくれていたのに、俺自分がタツヤを愛していたことを知らなかったんだ。ごめん、タツヤ。あんなにいっぱい俺を愛してくれていたのに、俺馬鹿だった」
腰を穿たれながら洪水のように名前を呼ばれて、頭がぐるぐると回っていく。このまま火神にこじ開けられたまま、意識が飛んでしまいそうだ。
氷室は思い出していた。自分はタツヤなのだ。タツヤというのは火神が必要とする兄で、火神を絶対に見捨てない。それがあるべき『タツヤ』のかたち。だからこそ火神は己自身をも氷室に託して、氷室の弟に甘んじている。とうにいらなくなったごっこあそびの皮を未だすっぽりかぶっている。
絶対に離れることのできない関係。兄弟という名の下につくられた、己に忠実なこどもと彼を庇護する自分。それで完璧だった。いくら世界が変わろうと、ふたりの間だけは絶対に変わらない。時計の止まった箱庭の中で互いにしなだれかかっていればいい。
黒子と付き合ってから、まざまざと思い知らされた。
おかしいのは自分たちだった。
自分のすることすべてに賞賛を投げかける人間などいないのだ。自分の選ぶ物を手放しで選択する人間など異常なのだ。
誰かを思う、誰かから思われるということは、これほどまでにいびつな形を築かなくとも成立する。それを教えてくれたのが黒子だった。そうして氷室ひとりだけ、掬い上げてくれたのが黒子だった。
己と火神との関係を黒子が知ってしまったら、どう思われるだろう。軽蔑される。それだけは耐えられない。
黒子に、まっさらな身体のまま出会いたかった。黒子が初めてでありたかった。本当に愛おしい相手が最後の相手であれば報われると聞くが、自分にはきっとそれすら与えられないだろう。
最初の相手も最後の相手も、弟だ。
火神とつながる度に中で出されているが、一度も腹など壊したことがないのだと、言えるはずもない。そもそも己が黒子を求めること自体が汚らわしいのだ。
黒子に愛されている。愛されているからこそ、自分が呪わしい。自分には黒子を愛する資格などない。それでいて、黒子を求めずにはいられない。
黒子と一緒に暮らす。
昨夜、黒子の口から誘われて氷室は何もかもが吹き飛んだ。家族か、弟以外の誰かと暮らすなど考えたこともなかった。出会って五年も過ごしていない他人と生活を共にする。だが、氷室は不快を感じていなかった。ただ、まっしろだった。思うべき感情を氷室は知らなかった。
黒子の言葉だけが何度も何度も頭の中でこだました。もしあのとき、火神から電話が入らなかったなら自分はどうしていたのだろう。結局氷室は返事をしないまま逃げてきたのだ。逃げた先がこの鉢の中だ。
んっと息を詰めて、火神が吐精する。氷室も追いかけるように溜まった熱を吐き出して、息をついた。腹に飛び散った自身の精がひえていくのを、肌でぼんやりと追う。腹の中には氷室の体温と同化しつつある精が、ゆっくりと広がっているのだろう。まるで初めからそこにあったかのように。
一晩逃しきれなかった思いを吐き出せて、すっきりしたのだろう。普段遣いの仕草を取り戻した火神が、氷室の手の甲にくちづけた。
「ずっと一緒だな、タツヤ」
他人から見れば己は幸せなのだろう。すべてをかなぐり捨ててまで己を優先するやさしい弟が、絶対に裏切ることなく側にいる。
どちらかが死ぬまで。
鮒を鉢の中に閉じ込めて、赤い鱗の金魚に仕立て上げた氷室には似合いの結末だ。鉢を割ることも出来ず、金魚を河に放すことも出来ず、ただただ餌を与え続ける氷室に相応しい幸福。
鉢を捨て置けることのできる機会はとうに過ぎていた。一度、確かに一度、あったはずなのだ。そのまま互いが交わした約束を果たしていれば、鉢は空のままであるはずだった。だが、鉢には再び水が注がれた。たっぷりと鉢に水を注いだ手を、氷室は憎むことができない。なぜなら氷室を掬い上げた黒子こそが、火神に兄弟の仲を途切れさせないよう願ったのだから。
鉢の中の金魚。ひとりで弟を置いて出て行けたなら、初めからここにはいない。
氷室の眼から、涙がひとすじこぼれていった。
「ああ。ずっと、一緒だ」