産めよ 増えよ 地に満ちよ

 国家の管理下で飼育されている兄弟(人権なし)の飼育員の黒子が、見学に来た小学校低学年に向けて解説をする
 紫笠(出産済み)とモブ青(出産経験あり/交尾中)あり



 大勢の人間を前にするといつだって緊張する。相手が子供であろうと、集団の圧力というのは凄まじい。年齡の低い子供ほど細かなことを気に留めて、思ったことを口にする。三分後には口にした当人も忘れる些末で幼稚な問いに、善良な飼育員として子供の目線に立って答えるのが黒子は苦手だ。
 仕事で相手をする子供のお客様は多い。総合的な学習の時間での施設見学で、どの学校も卒業までに一度は必ず団体で訪れるようカリキュラムに組み込まれている。飼育員はローテーションで来訪した学生の相手をしており、動物の管理と同様にもはや日常業務だった。
 新品の制服に着替えた黒子は鏡で身支度を確認した。今日は気を張る必要のない児童が案内の対象だったが、彼らが抱いている『やさしい飼育員さん』であろうとするならば、細部に気を遣ってやりすぎることはないだろう。尤も、黒子テツヤという人間が彼らの望む『やさしい飼育員さん』であるかどうかはまた別だが。
 
 約束の時間より少し早く飼育棟に到着すれば、元気の有り余っている児童の群れが担任の指示で列を作って待機していた。到着したことに気が付かない担任を呼び止めて、二三打ち合わせを行う。主役は収監された動物たちであるし、元来の影の薄さでナレーションに徹してもよいのだが、それはやめろと先輩である虹村から釘を刺されている。黒子は彼らの意識がこちらに向くよう、巧妙に視線を誘導した。
「『ゝ幼稚園』のみなさん、こんにちは」
 パノプティコンを模したドーナッツ状の棟の一端。飼育員たる黒子の声がこの場の人間の意識に染み込んでいく。学童服と紅白帽を被った園児が立ったまま規則正しく敷き詰められている様は、満開の菜の花畑にも酩酊に向かう机上の錠剤にも見える。
「今日みなさんに動物園の案内をする、黒子テツヤです。短い間ですが、楽しく勉強してください」
 飼育等は円状をしており、その中心から周縁に設置された檻を四六時中監視することが可能だった。ドーナッツの穴が監視部で、ドーナッツ本体が通路、ドーナッツの外縁に広がる余白をn等分すると檻となる。見学が来ないときは職員と関係者のみが通路を闊歩するのだった。
「まずこの施設の説明をしますね。ここには何がいますか?」
 多様な動物の名前が上がる。今日の団体客はレスポンスが旺盛で有り難い。一般的に動物園にいると周知されている動物がほとんどだが、必ずひとりはませた知識を披露しようと図鑑やインターネットやテレビで聞きかじった動物の名を叫ぶのだった。たとえば今日はタスマニアコモドドラゴン。
 黒子はお決まりの返答で飽ききった自我を伏せた。
「はい。ありがとうございます。みなさん物知りですね。ここで暮らしているのは国の保護対象、国を挙げて守らなければいけないと判断された大切な動物さんとなります。その希少性から保護・管理・繁殖……ええと、動物さんたちに楽しく過ごしてもらって、たくさん赤ちゃんを産んでもらうために僕たち飼育員はお手伝いをしているわけです」
 施設見学の副次的な目的は、児童生徒に普段触れ合えることのできない動物の姿を実際に見せることによる情動の獲得である。主たる目的は当然、この施設の目的意義と存続の必要性の学習だ。
 教育とは国家理念を国民に啓蒙することである。座学とともに五感を通じて体験することで国家の意思を内面化していくというのが、政府と教育機関の見解だった。
 いわば黒子はスピーカーであり、園児に施設の存在意義を正当なものと認識させるための伝導者である。黒子はそれで構わなかったし、事実この仕事を続けるための必要な業務であると感じている。動物の飼育よりもやる気がないだけで。
「みなさんはお菓子やおもちゃを買うときに消費税というものを国に収めていますが、そうしたみなさんの税金でここにいる動物さんたちは暮らせているのです。みなさんも働くようになったら、国と動物さんたちのためにたくさん税金を収めて、優良な国民となってくださいね」
 話に飽き始めた菜の花畑を、この先の展開に期待を持たせるよう一瞥する。前座が終わったことを示すために、手を叩いて渇いた音を響かせた。努めて表情筋を微笑のかたちへ歪ませる。
「それでは動物さんたちを見てみましょう。さあこちらです。後ろの人も見えるように、場所を譲ってくださいね」
 ゴム長靴を特徴的に鳴らして歩みを進める。先導者の誘導に弛緩した脳で菜の花畑も移動を始めた。小鳥の囀りのごとき喧しさを伴って。ほんの少しの移動で目当ての檻に辿り着いた。大きな影と小さな影の二体が収監されている。これがこの施設の目的なのだから当たり前の光景だった。
「まず、この檻の中にいるのは童謡で有名な動物さんです。小さなクマさんはわかりますか? そうです、アライグマですね。紫原種の敦君と笠松種の幸男さんです。え、違う動物さんを同じ檻に入れていいか、ですか? だいじょうぶです。みなさんのお家にも猫や犬や鳥がいると思いますが、それらと違って異種間の交配は基本的に問題ありません。家畜や愛玩動物と違って彼らはそもそも去勢をしていませんからね」
 初めて動物に接するであろう児童に、愛玩動物や家畜との違いを説く。この違いを説明することは重要で、税金を用いてまで保護および繁殖が必要な種なのだということを認識させる必要があった。
 大勢の子供に観察されているが二匹の対応は平時そのもので落ち着いていた。檻の外で喚く外野に興味を示さないそれである。両者の掛け合わせは保存すべき遺伝子の優位性、それから繁殖のしやすさ、相性といったもので決められる。この二匹は顔合わせのときこそ注目すべき態度は見られなかったものの、暮らしを共にする時間を増すごとに互いに絆されていった。特に一方における態度の軟化は特筆すべきものがあった。
「この紫原君は笠松さんをすごく気に入っていて、ひとときも離すことはありません。ここにいる動物さんたちは両性単為生殖と一般的な有性生殖が可能なため、自身の相似個体と遺伝子の掛け合わさった新たな個体を生み出すことができます。この二匹ではもっぱら笠松さんが産んでいます。紫原君も産めますが、笠松さんが産褥期のときだけですね。めったにないです」
 種の保存において相似個体を生み出すことが第一に望ましいが、相似個体の誕生を目的とするのならば孕み袋なり人工授精なりで事足りる。わざわざ貴重な種を掛け合わせる理由は優れた遺伝子を持つ新たな個体の発現に尽きる。各国で動物の管理および繁殖に取り組んでいる理由はここにあった。優秀な遺伝子は様々な分野で利用されており、どの国も独自の遺伝子を発現させようと動物産業は盛んだ。
 尤も動物にその自覚はない。彼らは与えられた檻で与えられた番と自らの遺伝子を次代に伝える生存戦略に励むことが喜びなのだから。
「紫原君は笠松さんを自分だけのオナホ妖精さんにするって宣言していますから、この関係は二匹が死ぬまで続くのでしょうね。僕たち飼育員にとってこうした強い結びつきの番は嬉しいです。相性が合わないとどれほど優秀な個体でも子供を残せませんし、ストレスにもなります。僕たちはのびのびと彼らが暮らしてくれることを何よりの幸せと考えます」
 複数の個体を妊娠しているために膨らんだ腹を抱え、母体の維持も行うため睡眠に耽る笠松に対し、その膨らんだ腹へ耳介を寄せ、目を閉じてその様子を確かめる紫原。紫原へは年上の番を当てるべきであろうという事前の打ち合わせはあったものの、収監した当初の無気力な態度からここまで番への執着を見せるとは思わなかった。
 繰り返し笠松を妊娠させることで、他の番との実験を行わせない意図が彼にはあるのだろう。紫原は飼育員への怠惰な態度とは裏腹に、人間の思考や習慣をよく観察して思考する。笠松は飼育員の見立通り、手のかかる年下の番に求められることで己が孕む性に回る決意を固めた。もともと快楽に弱い性質があることも一因だろう。
 笠松が紫原の面倒を見ているようでその実、笠松が己から離れられないよう紫原は彼への態度を考えて行動していた。今では笠松自身も紫原から離れるのを嫌がるだろう。
 黒子は児童たちへの身の入らない説明を続けながら、改めてこの番の特性を思った。やはり動物は間近に観察することで新たな発見を得る。
「笠松さんのおなかが膨らんでいますね。今週出産予定なんです。安定期のときは紫原君が妊娠中に交尾を行いますよ。紫原君は本当に笠松さんが好きですね。仲睦まじくてうらやましいです」
 この番の担当者はしばらく安泰だろう。関係性が成熟期に入った番は不安からくる精神病や突発的な身体の病に罹患しない限り、穏やかな飼育が続く。黒子が担当している番とはまた異なる理想のパターンだと言えるだろう。黒子が担当の種を扱ってから数年が経つが、黒子の理想にはまだ届かなかった。
 次の檻が近いせいで、待ちきれなくなった児童の一部がタンポポの綿毛のように駆けていった。黒子は注意することもせず、させるがままにしている。動物の行動に興味を持つことは、有望な飼育員の素質といえる。
「次の檻を見てみましょうか。声で気になった人もいるみたいですね」
 種付け中の檻を案内する。檻の中は完全防音になっているため外の音は聞こえないが、廊下は動物の状態を観察するために筒抜けとなっている。
 孕み慣れた雄特有の低い嬌声が廊下に響いていた。相手の雄の動きに合わせて壊れたテレビのように喘ぐ動物の瞳は虚空を向き、結ぶことのない唇から流れた唾液が床に溜まりをつくっている。交尾のための台こそあるものの、相手の雄に腰を掲げられて身体ごと持ち上げられている現在の態勢では意味を成していなかった。孕ませる性の身体に執着する交尾は、相手を気に入っている証拠である。この檻はいわば、見学者にとって最も有意義な時間となっていた。
「ここで寝ているのはヒョウ科の青峰種、大輝君です。はい、今ちょうどウシ科の▲▲▲種と交尾の最中ですね。青峰君は貪欲で、頑強な母体なこともあって年中発情期です。また、雑種を産むのが得意なので、こうして交尾に不慣れだったり初めての交尾を行う相手の苗床として頑張ってくれるんです。そうですね、彼は快楽に流されやすいので、こうして声が大きく響きます。僕らはもう慣れっこですけれど、みなさんはびっくりしますよね。え……楽しいですか? 嬉しいです。ぜひ将来は飼育員を目指してみてください。ああ、原則人間は動物と交尾をしてはいけません。家畜や愛玩動物は性欲処理家畜として扱ってくださいね。また、ちゃんと去勢した個体じゃないとみなさんが国から家畜扱いされてしまいますので、気をつけてください。もちろん、ここで飼育している動物さんは性欲処理家畜ではありませんよ」
 児童は興味深く檻の前で交尾に励む二匹を観察している。一部の生徒はスケッチを行い、気になったことを拙い字でまとめている。黒子は目の前の事象を果敢に受け入れる児童の性質に感心していた。この年次は担任の教育が行き届いているのだろう。
 青峰は犯され、孕み、出産までを何度も繰り返したことで、与えられる痛みや生じた不快すら脳内麻薬を分泌させる引き金になっていた。分泌量は動物が性交で得られる一般的な量の実に数倍。妊娠期しかまともに自我を保てなくなっているが、飼育員の桃井はそれが『かわいい』とのことである。妊娠中に性器を欲したときは、桃井自ら性玩具を片手に性欲処理に努めている。最近は腕が気に入っているのだと、声を弾ませて黒子に伝えた。
「彼は相手の遺伝子を受け入れやすいのか、相似個体をなかなか産んでくれません。彼が産んだ雑種は品種改良されて高級愛玩動物になったり、各地の繁殖センターで苗床として活躍しています。相似個体の数がもう少し増えたら、現在の交尾の頻度をゆるやかなものに変えることができるのですが。
 虹村先輩とも話していますが、なかなか扱いが難しい個体です。でも、こうした個体に対するアプローチを試行錯誤するのが飼育員の醍醐味ですから、頑張っていこうと思います」
 汗に濡れた胡桃色の下腹部で蠕動する凹凸が個体を孕ますのだと息巻いていた。桃井の提案により、青峰には複数の雄が割り当てられている。今度こそ彼女の努力が実を結べばよいのだが。
 出産と授乳によって肥大化した乳首がぽってりと膨らんでいる。以前、出産後の青峰が発情した際の性欲処理で桃井が馬用のディルドを用いた際、膨らんだ乳房から母乳が噴出したことを思い出した。あの光景は青峰に興味のない黒子も見入ったものだ。
 複数名の児童が檻をぎゅっと掴み、もしきは覗き込むようにして青峰の挙動を見守っている。彼らには次の檻を案内せずとも、そのまま気の済むまで観察を続けたほうが学習に役立てるだろう。黒子は次の檻へ案内するために周囲と目を合わせた。
「ああ、青峰君の檻から離れたくない人がいますね。そのままでも大丈夫です。後で迎えに来ます。それじゃあ、次の檻に行ってみましょうか」
 青峰を収めた檻からほんの数歩。手の届かない黒子の偶像は相手を抱き潰してしまう格好で己より恰幅の良い番に覆いかぶさり、自ら頬を寄せていた。戯れのように相手の厚い下唇を食み、互いの睫毛が重なってしまうほどの近さで二匹だけの会話を続ける。
 彼の灰青の濡れた瞳が決して自分に向かないことに、いつだって黒子は燃えるような黒い衝動を抱いた。
「ここで暮らしているのが僕が担当している動物さんです。はい、飼育員は一組の番のお世話を担当することが多いんです。飼育・記録・繁殖から看取る時まで、動物さんに嫌われなければずっと彼らのお世話をします。僕は二匹の世話をするために飼育員になったので、こうして仕事をすることができて本当に恵まれています」
 官庁に勤めていた黒子が氷室を知ったのは、国内で初めて発見された希少種の捕獲計画による。資料の写真で彼をひと目見た時から、衝動が抑えられなくなっていた。確実に配属されるよう根回しを行い、必要な資格を習得した上で現在の職種に異動を果たすまで、我ながら実に鮮やかな手際だった。
 その彼には捕獲前から既に契った番がいることも、飼育員となった黒子には関係なかった。
「トラの火神種である大我君と、お兄さんであるリュウの氷室種、辰也さんです。トラ科はみなさんもご存知のように、年々絶滅が危惧されている動物さんです。氷室さんは初めて見た人がほとんどではないでしょうか。リュウ科、いわば幻獣はその存在自体が幻とされています。国内で確認されているリュウ科は現在氷室さんだけであり、非常に貴重で有意義な種です」
 戯れのために自ら収めた火神の性器を体内で遊んでいるのだろう。うっすらと色づいた氷室の肌が描く背を黒子は舐めるように視界に入れた。
「彼らは他の番とすこし異なる点があって、互いを兄弟として認識しています。他の個体でも見られることがありますが、種も科も異なるのにこうした認識を行う番は稀といっていいでしょう」
 檻の中の彼らから檻の外の黒子たちを視覚で識別することは可能だ。しかし、この番は他の番に増して、外界を気に留めようとしなかった。肌の色素の異なる弟の指に、氷室が己の指を絡ませて何かを囁く。氷室が弟を収めた結合部は縁が捲れ、どちらかのものかわからない体液で濡れて光っている。間近に迫る弟の熱が彼の瞳に宿っていた。
「火神君はいま超初期段階の妊娠期にあります。おなかが膨らんでいないのはその証拠ですね。基本的に甘えたがりの火神君が氷室さんに生殖器を挿入することで交尾が成立しますが、氷室さんはタツノオトシゴ科の性質も持っていますので、妊娠した受精卵はすべて火神君のおなかで育ちます。また、火神君は氷室さんと一緒にいるだけで勝手に妊娠しますので、火神君は上手に二匹分の子供を産みます。そうですね。出産された子供は圧倒的に火神君の相似が多いです。氷室さんは幻獣ですので、受精し着床するまでが非常に難しく繊細です。そのせいか、非常に性欲が旺盛で、食べる・寝る・じゃれる以外の時間は火神君の性器を体内に収めている事が多いです。火神君の熱を感じていないと寂しいのかもしれません。火神君は火神君で氷室さんにべったりです」
 濡れた黒髪の艷やかな様。指を通せばするすると流れるであろうその感触を黒子は何度も夢の中で味わった。きめ細やかな肌は触れればしっとりと、黒子を求めるように吸い付くのだろう。黒子よりも広く、厚みのある肩幅は腕力がある証左であって。広い背中に耳を押し付けて、彼の鼓動を感じたかった。彼のくるぶしの整った丸みに触れ、いつまでも眺めていたい。柔らかな土踏まずを指でなぞり、彼のくすぐったそうな表情をこの目に焼き付けてみたかった。
「火神君は氷室さんが本当に大好きで、氷室さんが他の種と交雑するのを許しません。以前、研究のために実験棟で氷室さんに別の種と交尾してもらおうとしたのですが、火神君ときたら勝手に檻を抜け出して、その動物を噛み殺してしまいました。あの時は飼育員も数十名犠牲になってしまったんですよね。氷室さんは自分のために牙や爪を奮って血に染まった火神君を待ち望んでいたかのように抱きついて、長い時間交尾を続けました。その結果、たった一匹の氷室さんの相似が産まれたことは、僕たち飼育員にとって誇らしい出来事です」
 多大な犠牲を生じた上で産み落とされた彼の相似は、黒子の手を離れ政府の研究機関の管轄となっている。あくまでそれは相似であり、黒子が求める彼ではなかった。
 無自覚に傲慢で尊大で、己の興味の範囲の外にあるものには決して目もくれない。美しく残酷なあの生き物だけが、黒子のすべてを狂わせる。
 黒子は氷室が伸び伸びと尊大な自我を伸ばす様を見ていたい。氷室の研究のために火神を引き離すべきだと提案したのは黒子だったが、これもまた氷室のためであった。彼は相手が彼のために取り返しのつかない犠牲を払うことに深い喜びを感じている。その適任が誰でもない火神であった。
 政府も施設も、希少種の相似個体の誕生に比べれば、代えの効く職員など微々たる消耗品に過ぎなかった。計画の提案者である黒子は咎を負うことなく、こうして兄弟の管理に当たっている。
「僕は二匹のお世話を通して、幻獣や兄弟における番の研究を行っています。飼育員は動物のお世話をするだけではなくて、研究成果を国内外に発表する義務があるんです。ですので、沢山の言葉を身につけることは非常に大切ですよ。特に∈語は共通言語ですから、みなさんも今のうちに基礎を学んでください」
 いつまでも兄弟の檻の前で解説を続けていたい黒子の前に、不意に虹村が現れる。制服の一部である帽子のつばから窺える彼の表情は、緩慢な怒気に満ちていた。
「あ、虹村先輩。どうしましたか?」
 園児の引率をしている意識をようやく思い出した黒子は、そこで虹村から交代を言い渡される。そのためにこうして飼育棟まで来たのだと彼は言った。
「僕の説明が長い……ですか? まだ時間じゃないですよね。え……もう次の場所に行くんですか? 実験棟と処理施設ですか。わかりました。つい熱が入ってしまったようです」
 施設全体を見学することによって国家が動物を管理する意義を教育するのだから、主な施設は一通り見学する予定になっている。こうして動物に興味を持つ児童であれば、他の棟でも意欲的に学習することだろう。黒子は心にも思っていない事柄を適当に繕いながら、ようやくお守りから外れることに安堵していた。自然とほころぶ口元を隠すことなく園児に向ける。
「みなさん、全ての檻をお見せできませんでしたが、どうやら次の場所への見学の時間がきてしまったようです。今度はみなさんが管理する側となって、檻を覗いてみてくださいね」
 虹村が物言いたげに時計を見ながら急かしている。黒子は自分の担当する番の世話に戻れる幸福に浸りながら、思いつくままの定型文で挨拶を放った。他人の家で飼われている動物などどうなっても構わない。ただここにいる彼の側にいられればそれでよかった。そしてそれを今から享受できる喜びで黒子はこの日最も力の籠もった台詞を滔々と吐いた。
「僕の案内はここまでです。今日はたくさんの動物を見てくれて、ありがとうございました。みなさんのお家の犬や猫や鳥たちをかわいがってください。それじゃあ次は、こちらのお兄さんのお話を聞きましょう」