電話越しにさようなら
意味を失った布張りの小箱を、部屋に吊しスーツのポケットから取り出した。クリーニングに出さなくてはいけないスーツは、しかしいつまでもタイミングを失って、あの晩から掛かりっぱなしだ。薄らと塵が積もってしまっているのを、氷室は知っている。
似合うからといって選んでくれた、チャコールグレイのものだったのに。結局、あの晩は会えず仕舞いだった。
鏡の前で黒いネクタイを締める。日本の高校に編入してからというもの卒業までの約二年間、日課となった動作だった。おかげで就職活動の時に困ることはなかった。しばらく遠ざかっていても、動作は身体に染みついている。
クローゼットから引き出した黒の背広に袖を通した。長い間、仕舞いっぱなしにしていたわりに、皺の類いは見つからず、ほっと息をつく。いまからクリーニングに出す時間はない。今日からしばらく着続ける背広だった。学生時代の制服のように。
振り返って、壁に掛けたままのスーツを眺めた。テーブルに置いた小箱を手に取り、意味もなくなぞった。形作る輪郭を、動物の背を思わせる手触りを、繰り返し。
葬儀会社から渡された日程表に目を向ける。今回の葬儀は不在となる喪主の代わりに氷室が施主を務めることになっていた。喪主が日本に到着できるのは、故人が骨になってからだそうだ。弟の父親が骨壷に収められた実の息子と対面するまで、氷室が一切合切を預かることとなる。彼のマネージャーから淡々と電話口で告げられた氷室に、拒むという選択肢はなかった。そもそも彼は本当にこちらに来るのだろうか。何度も息子との約束を破った彼が。氷室は、彼が日本に来られたとしても、骨となった息子の始末をも頼まれそうな気がしていた。もし彼の家の墓に納めなくて済むのなら、氷室は自分の墓に弟を、火神を入れようと考えている。葬儀を取り仕切る報酬として、これ以上お誂え向きなものはない。
弟をこれ以上ひとりにさせたくはない。
暗くつめたい石の下でまで、なぜ人の温もりから遠ざけなければならないのか。
弟の父と顔を合わせれば己を抑えられなくなりそうな予感がこめかみを痛ませる。落ち着かなければ、冷静にならなければと自らに言い聞かせるも、彼を考えただけで目の前の物を手当たり次第になぎ倒したくなる熱に襲われる。
氷室は台所に向かうと水を注いだコップに口をつけた。喉を潤しても、臓腑に溜まった怒りがやわらぐことはない。顔を洗った方がいいのかもしれない。だが、何をしても徒労に終わりそうだった。
カウンターにおいたスタンド式の小さな鏡に、自分の顔が写っていることに気がつく。氷室はちいさな枠で区切られた己の顔を確かめた。
寝ていないだけで、まともな顔をしている。誰かに心身を心配される顔ではないことに胸を撫で下ろした。下手に気を遣われたくない。
それにしても鏡に映った男の顔は険しく、自分のことながらため息をつきたくなってくる。思い詰めている、ということなのだろう。当たり前だ。予想もしない突然の幕引きに平静でいられるはずがない。
氷室は黙って己の顔が写る鏡を注視し続けた。予期せぬ誰かが写るはずもない。濡れた鏡像がぬらりと揺れる。
お前が死ななくてもよかったのに。
通夜は身構えた甲斐なく粛々と進んでいった。氷室があらゆる事態に機械的になっていたからかもしれない。十分すぎるほどの葬儀場のスタッフに加え、電話口で話した彼のマネージャー含む数名が補助にあたり、火神の元チームメイトが積極的に手伝いを申し出た。おかげで氷室は彼が望んだ体面を保つための機能を十全に果たすことができた。施主というのは人々の間を走り回るものだが、氷室にはそれほど苦にならなかったことも要因のひとつかもしれない。どうにも現実味を帯びてこなかった。
彼が用意した会場は広かった。通夜振る舞いに参加した人々のテーブルへ一通りの挨拶が済み、宴もたけなわといった空気になっていた。
ようやく氷室は、手つかずのまま放っていた己の席へ着く。弟の元チームメイトからも葬儀会社のスタッフからも彼のマネージャーたちからも、休むようにと追い出された。通夜振る舞いにまで参加するのは、弟の身近な人間に限られる。親族や血縁者は皆無だったが人徳のなせる技か参加者は多く、食事処として用意された和室は賑わっている。
畳に設けられた長机には人数分の座布団が並べられている。氷室は端の席に膝をつくとポケットからスマートフォンを取り出し、脇に置いた。正座をするのに邪魔だった。
熱する必要のない膳を前に手が動かない。割り箸を手に取る気力すらなかった。身体は思い出したように鈍い胃痛に似た症状で空腹を訴えているが、食事を取りたいという気持ちが起きない。明日を考えれば少しでも口をつけなくてはならないとわかっているが、値段だけは張りそうな食事を前に唾液すら湧かなかった。
用意された氷室のテーブルには誰もいない。彼のマネージャーたちと寄せられた席。彼らはまだ雑務をこなしている。というより、氷室より先に食事に手をつけることができないのだろう。彼らのボスから言い含められているのかもしれない。
誰かに注がれたビールがひとくちも飲まれないまま、結露でくすんだコップの中でぬるくなっていた。泡のはじけた金色の水面はそれだけで口をつける気をなくした。
畳の上でスマートフォンが八月の終わりの蝉のように身悶えている。氷室は手に取り、発信者を示す画面を眺めた。当たり前の仕草で画面をタッチし、耳元に寄せる。
こちらから名前を言う気にはなれなかった。誰かの名を騙る詐欺師と声だけの会話をするときは皆、こうした気持ちになるのかもしれない。
なかなか点かないライターをいじるように、少しずつ気が張り詰めていく。
「はい」
「タツヤ?」
「ああ、俺だよ。タイガか?」
「おう、俺」
電話口からは変わらない声が聞こえてきた。口調も物言いも氷室の知る弟と遜色ない。それでいいのだろう。そう思い込むことにした。
弟の声はどこか沈んでいて、氷室はおもむろに指摘する。
「元気、そうじゃないな」
「そりゃあな。後追い自殺しようか考えてるとこ」
氷室のくちびるから乾いた笑いが漏れていた。もう死んだ人間が何を言い出すのか。
電話口では誰が死んでいるのだろう。氷室は弟に何を話せばいいのかわからなかった。
「は……俺は無理だ。お前がいなくなったこの先をどうしていこうか、それすら、考えられない」
「タツヤんとこは、そうなんだ」
ぽつりともたらされたひと言は腑に落ちたと言わんばかりの声で。氷室はそれでひとつの仮説を立てた。くだらない、実に都合のいい理由付け。弟と会話をしている現状が、現実から逃避するために氷室の脳がでっちあげた幻聴の類で構わない。
互いに耳に当てたスマートフォンを境に鏡像が広がっている。だから氷室はこうして火神と会話ができている。声は存外に掠れた。
「今な、お前の葬式に出てるんだ」
「俺も。受付やった。タツヤの葬式だから」
「俺だけがいないんだな」
「そっちは俺が死んでんだ」
「困ったな」
「しょうがないんじゃねえの。どうしようもならねえし」
投げ出すような、諭すような弟の声が耳元で広がる。氷室にも自身にも言い聞かせているように思えた。
施主をやったんだ、とは言わなかった。弟が氷室の両親の様子を話さなかったように。誰が好き好んで葬式の詳細を語るものか。
電話口でわずかな沈黙があった。次に弟が口を開いたときには、彼は静かに観念していた。
「またタツヤと話せてよかった」
「俺はいやだ。さよならを言いたくない。言える気がしない」
「今度はタツヤが電話かけて」
あまりにも聞き分けのよいことばかりを言うので、氷室は思いきり怒鳴りつけたくなった。ひとりで勝手に決着をつけられては困るのだ。なりふり構わずあきらめ悪くねばるのは昔から弟の役目だったのに。
氷室はあふれそうな感情を抑え、低く答える。
「お前がかけろ」
「すげえ横暴」
「自殺されたらかなわない」
電話口の氷室の気迫が伝わったのかもしれない。答えあぐねた弟が息をついた。氷室には降参と両手を挙げる弟の姿が目に浮かんだ。
「わかったよ。しねえよ」
「部屋にかけてある、チャコールグレイの背広のポケットを探してほしい。お前が選んでくれた、あの」
火神が息をのんだが、氷室は気にも留めなかった。ここにくるまで互いに十分すぎるほど困惑と疲労を重ねた後だ。何を言っても互いの傷をえぐるに違いない。
平静を保とうと努力した声が、火神の喉から絞り出される。
「わかった。ほかには?」
「体に気をつけて」
これまでの会話にそぐわない笑い声がスピーカーから響く。腹の底から出しているであろうそれに氷室は怒りも呆れもわかず、ただ行為を咎める。
「笑うなバカ」
「ギャグじゃねえか」
「俺は本気だ」
火神の笑いが収まる。そうして互いに口をつぐんだ。言うべきことは、伝えたい事柄は山ほどあるが、すべてを話すには膨大な時間が必要で、かといってひとつ切り出せば止まらない。頃合いだと互いにわかっていた。惜しむように沈黙を引き延ばす氷室に、火神が別れを告げる。
「またな」
「飲み過ぎるなよ」
そのまま端末を耳に当てた。何も聞こえてこないスピーカーに耳をこらし続け、端末をつかむ指は痺れていた。耳から引きはがしたスマートフォンの画面を見れば、とうに通話は終わっていた。
スマートフォンを畳に戻す。しばらく電話に触れる気になれなかった。顔を上げて席から見えるざらついた砂壁は薄汚れているのかこれが普通なのかわからない。
弟に伝えたいことを、伝えるべきことを、何ひとつ口に出せないまま終わってしまった。
蛇足のようなひとときだ。
それでもまた、声が聞けた。
氷室はコップを掴むとぬるくなったビールを一息に飲み干した。気の抜けた炭酸がしゅわしゅわと舌と喉と胃を思い出したようにいじめている。
家で袖を通してから一度も脱いでいない背広のポケットに指を入れた。思った通りの感触が指の先を滑る。弄ぶことなく、指でつまんで取り出した。
あの日、仕事終わりに待ち合わせしようと言い出したのは弟で、その時ばかりはこちらから誘いたかったのにと氷室は表に出さず悔しがった。弟から電話が来たのは、予定より早くできあがったからと、店から連絡が来た後だった。
氷室が勝手に選んだ銀の輪はためらいを抱かせるほどの重みを持たない。氷室は右手で輪の端をつまむと、左の薬指に埋めていった。指に通らないはずがなかった。氷室の指に合うよう仕立てたのだから。
揃いで用意したもう片方は棺の中のあるべき場所に収まっている。
蛍光灯の下で薬指に通った指輪は鈍くひかっていた。
「火神さん、火神大我さんですね」
開いたドアから現れた職員は火神を前に手にした書類を読み上げた。椅子に座っていた火神は詫びも含めて挨拶したが、男は遺留品の入ったビニール袋をテーブルに滑らせた。火神が彼に急がせなければ、現場に残った遺留品一式が形ばかりのお悔やみの言葉とともに段ボールで届けられるはずだった。
「お待たせしました。氷室さんが着ていたスーツのポケットに入っていたものはこちらになります。お持ち帰りいただいて結構ですよ」
礼を言い、渡された品を引き寄せる。大きすぎるビニール袋の底には小箱が入っていた。
案内された部屋を後にし、人気のない廊下の隅でビニールを開く。がさがさと大きな音ばかりがした。箱を取り出し、用済みとなったビニールを床に落とす。何も考えられなかった。しっとりとした布張りの小さな箱。布の色は濃紺で黒に近い。
現実とは思えない心地で箱を開いた。指も身体も震えていないことが救いだった。
はっくりと開いた白地の底に大きさの異なる同じ指輪が収まっている。箱から取り出すことも、箱を閉めることもできず、火神は受け取るはずだった未来を眺めつづけた。