おともだちをみつけてあげなきゃ
もちもちマスコットがもちもちマスコットを食べます
「ただいまー」
寒さにぶるぶる震えながらドアを閉めれば、玄関マットにちょこんと転がっているもちむしがぴょんと跳ねた。飼い主であり持ち主である氷室の帰宅にみちみちと綿の詰まった緑と白の胴体を、もちは重力を感じさせない動きで揺らす。氷室の弟は跳ぶことが仕事だった。
「たちゅ!」
「また玄関で待ってくれてたんだ。ソファでゆっくりしてていいんだよ」
屈んだ氷室は冷たい玄関マットからもちを抱きかかえると口づけし、目を閉じてふくよかな布へ頬ずりした。
あかあかと燃える紅の瞳は幼さゆえに大きく溌剌として。目に映るすべてが好奇心を刺激するのだと言わんばかりに。もちのふっくらした面立ちは内面の威勢の良さを如実に表していた。にっと歯を見せるわんぱくな口が喜びで緩む。もちも氷室と同じように目をつむった。
「おなかへった? ごはんにしよう。タイガの好きな手摘み百パーセントのコットンだ」
タイガと呼んだもち、通称かがみもちを氷室は両手でそっと包むように抱いた。正月に飾る二つ重ねのように純白からは遠く、むしろ衣服の緑と白のせいでかしわ餅に見える。真上から見ると特に。
ふさがった両手で不格好に靴を脱ぎ、リビングへ向かった。仕事終わりに毎晩繰り返される出迎えとその応酬を面倒に思ったことはない。犬を飼っていても同じことが起きるだろう。
コートのまま台所へ着くともちは心得て氷室のてのひらから肩へ這う。まるっこくひらべったい小さな手足をもちもち動かして這われるのを氷室は好いていた。
未漂白な天然綿の詰まった袋を片手に、冷蔵庫からピクルスの瓶と冷えたビールやらをごそごそ掴んでリビングへ退散。せわしなくコートと上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた。
木製のミニテーブル、赤いテーブルクロス。陶器でできたミニチュアの皿はクリスマスの模様が縁取られている。床には尻で立っても腹ばいになっても困らない大きめのふかふかしたクッション。もちはそこへ尻で座った。
テーブルの隅には結露の滲んだ缶ビール、蓋を開けたピクルスの瓶には突き立てられたフォーク。人のまばらなスーパーで値引きしていた適当な総菜。
テーブルに広げたもちの食卓の準備を済ませ、氷室は肩からもちを下ろしてやった。食卓に着いたもちの皿には混じりっけなしの山盛りコットン。自らの腹をなでるような仕草で手を合わせるもちとともに、氷室も手を合わせた。
「いただきます」
「たちゅたちゅ!」
ぽこっと音を立てて腹ばいになると、もちは皿に盛られた綿をもしゃもしゃ食べ始めた。物を食べるときにはもちゅもちゅだのたちゅたちゅだのとこのもちは声を漏らす。
口を止めることなく皿へ向かうもちに氷室は安堵して、フォークの刺さった瓶を掴む。よく漬かったピクルスをがぶがぶ噛んだ。すっぱいものが口いっぱいに広がると脳にぴりぴりくるので、氷室はピクルスが好きだった。ある種の中毒といってもよい。一日に一度は口にしないと気が済まない。もちは綿をがっついている。
「たちゅーたちゅー」
「おいしい?」
「たっちゅ!」
両頬へつめこめるだけ詰め込んだ姿は、不細工なふぐのようだった。しかしその姿が氷室には安らぎをもたらした。ふくらんだ頬にくっついた綿の切れ端を、指の先でとってやる。指を近づけなくとももちは氷室の指先から綿のかけらをはぐはぐ食む。昆虫の口にふがふがと噛まれる心地だ。蜻蛉のような。皮膚を食い破るほどでもないもの。いつまで経ってもこの部屋に女の気配はない。
結露で濡れるビールをつかみ、蓋を開けて煽った。苦い後味が心地よく、舌の上で弾ける泡をいつまでも追えた。五日間の疲れが泥のように流れていく。やっと解放された気がした。
「あー死ぬ」
徒労を低く濁ったため息で吐き捨て、人前では出さない文句をひとりごととして吹き出しに描く。
「今週もクソだった……」
酔いは遠いが目が潤む。ソファの背もたれへ身体を預け、明かりを落としたキッチンを眺めた。特に意味のあるものがあるわけではない。何も考えない時間を欲していた。
テーブルでは小さな食卓に築かれていたはずの小山が、もう低い台形になっている。忙しなくコミカルに、それこそ往年の米国のアニメーションのような振る舞いで食事に夢中なもちの仕草を追った。それだけで氷室の内で凝り固まったものがすこしずつ溶けていく気がする。もちを愛でているだけで、他人にやさしくなれる。
氷室の口元は穏やかな微笑を描いていた。
「早く友達を見つけてあげなきゃなあ」
指の先でふさふさな頭をなでた。もちはうれしいのか、身体全体を縦に揺らす。もちの頭はなつっこい犬のようだ。触れた感触が大型犬のそれを思わせる。温かくひなたの匂いのする、やわらかな毛並み。弟もそうだった。
かがみのもちはひとつでよかった。だからこの家にもちはタイガだけだ。もちは小箱でめかくしをされてどれが入っているかわからないので、氷室は全種類を買った。お徳用の大きな箱に収められたものだ。それは棺桶のようだった。
家に届いた箱から最初に開いたもちがタイガだった。氷室はその幸運に感謝し、タイガを甘やかすことに決めた。タイガが寂しくないように小箱をすっかり開けてしまえば、リビングのテーブルは賑やかなことになった。どれもみな幼く、飼い主である氷室と部屋への興味で綿をふくらましていた。己のベッドへ連れて行こうかと思ったが、なにせ初日だ。互いに興奮状態で、それでいて神経過敏になるかもしれないと不安になり、用意していた大きなクッションへひとまとめに寝かせて自らも床についた。
色とりどりのもちを見たのはそれが最後だった。
翌朝。クッションの底で穏やかな眠りについていたのはタイガのみ。ぷっくりと肥えて、ひとまわりどころかよんまわりほども嵩を増した一匹のもち。それで氷室は晩のうちの出来事を悟ったのだった。
せめて糸くずやらフェルトやらをかけらでも残してくれていれば、予想を現実として確定できるのだが。食いしん坊はいつだって食べのこしをしなかった。空になった小箱は積み上げてタイガのアスレチックにし、代わりの玩具を用意した週の資源ごみへ出した。
タイガは食いしん坊だ。いつもいつでもいつだって腹をすかしている。それからというも氷室はもちがひもじくならないように綿を積み上げた。台所の戸棚にはタイガのための綿がぎっしり詰まっている。氷室の弟もよく食べたものだ。
ひとりきりというのはどうにも寂しい。ひとりで生まれてひとりで死ぬとしても、人生はその間の時間の方が長いのだ。人間に囲まれて暮らしている氷室と違ってもちは氷室が用意してやらなければひとつきりなのだし。
タイガの同類を迎えてやるまで、できるかぎりタイガのそばにいてやろう。そうしてありったけの愛情を注いでやろう。かつて弟にしたように。
もちへ用意した皿にはもうひと舐めふた舐めすれば消えてしまう霞のような綿しか残っていない。スマホを取り出してスケジュールを確認する。日曜からまた出張だ。仕事を受けて飛んで仕事をして戻って報告書を提出する。氷室は出張の多い仕事に就いている。おかげでマイルは山のように貯まっていて、両親にファーストクラスで行くシドニー旅行をプレゼントした。
今回もまたタイガを連れて行こう。すっかり平らにした皿をじゅるじゅると舐める紅黒の頭を指で撫でてやった。
「はい、チーズ」
平日の空港はゆったりできて居心地がいい。土日ならば混んでいて諦める店も容易く入ることができる。空港には多くの飲食店が軒を連ねるが、搭乗待合室のそれは特別だった。なにせ飛行機で出発する者しか入ることを許されないのだから。
機会がなくていつも通り過ぎていた、有名なバームクーヘン屋のイートインスペースに氷室はタイガを並べて写真を撮っている。バームクーヘンといえば甘い菓子だが、ここの店ではバームクーヘンを用いたハンバーガーを提供していた。卵黄をたっぷり用いた黄色い生地に、なるほど甘いトマトケチャップとハンバーグが挟まれている。料理が冷えてしまうと理解していたが、タイガを傍らにシャッターを切った。もちにも匂いや味覚、色彩による美味さというものがわかるのだろうか。タイガは興味深そうにすんすんと鼻を近づけて、唾をこくんと飲む。その様子すら愛らしく、氷室は夢中でシャッターを切った。氷室の生活はタイガを中心に回っている。それでよかった。タイガがいなければ早めに職場を出ることはなかった。今日もいつもと同じように店の前を通り過ぎて、航空会社の出しているコンビニで馴染みのビールを煽ったことだろう。果たされるであろういつかに行動を押しつけて。
何かを飼うというのはいい。特にもちは。もちは氷室を裏切らない。何をしようが氷室を喜ばせる。弟と違って。
「あれ、氷室さん?」
目をちかちかさせる黄色が振り返った先にあった。整った容姿、センスよくまとめられた衣服、手にしたテイクアウトのカップ。それが誰だったのか、名前と顔を一致させるまで氷室はまじまじと見つめた。
「氷室さん、すよねえ」
「えっと……黄瀬くん」
「そうっすー! どうしたんすか、仕事?」
氷室の座るテーブルの椅子を引き、腰掛ける。手にしていたカップをテーブルへ置いた。ペン字のおおきなスマイリーにTHANX!が添えられている。
大きな荷物の類は見当たらなかった。そもそも黒や紺でまとめた氷室と違って、勤め人の気配すらなく。
「仕事の帰りだ。これから札幌へ戻る。まさかこんなところで会うなんてね。君は?」
「ちょっと前まで愛知だったんすよー。でまた仕事なんすけど。へー氷室さんももちむし飼ってたんすねえ。かーわいー。火神っちに似てる?」
「そう、タイガなんだ。あいつに似て食いしん坊でね、いくつ綿を用意しても足りないよ」
もちの頬へ近づいていた指がひたりと止まる。氷室はまだ湯気の上るコーヒーに口をつけた。タイガの関心はバーガーから黄瀬へと変わっている。布と糸でできた口が開きはじめた。
「もちむしは物食べないっす」
かがみもちへ目を合わせたまま、黄瀬はそんなことを言う。じりじりと黄瀬の指はもちから離れていった。
「黄瀬くんのところは食費がかからなくていいね」
「いや、まず食わないっす。綿とか。真面目に」
「うーん、俺のタイガは食べないとだめみたいなんだ。ちょっと目を離した隙に箱にいた子を全部食べてしまって」
「……えーっと?」
撮影どころではなくなってしまったので、氷室はハンバーガーを頬張ることにした。このバーガーでは豚の丸焼きでいうところの鼻から尻までに鉄パイプを通した生地の輪切りをバンズとしたものだ。ひとくちをしっかり噛んでみたが、これはみたらし団子と同じ類の味覚の嗜好を要求されるものだと感じる。ソースが甘いケチャップだったことは幸運だった。
「フェルトの端切れしか残さずみいんな食べてしまって。困った子だよ。だから友達を探していて、タイガの」
「うーん?」
「でももうどこの店でも売り切れてしまってさ。あ、黄瀬くんのところにもちはいる? よければタイガと友達になってほしいんだ。 俺いま札幌に住んでて」
黄瀬はカップを両手で包むとそこに重大な何かが書かれているかのようにテーブルをじっと見ていた。氷室に声をかけた軽快さは消え、石のごとく椅子に腰掛ける。その尻はうわついて今にも席を離れたくてたまらない。
「えーっと。はい。俺、もちは飼ってないんで。だいじょぶっす」
「そうか……残念だな」
「残念すね! 特典の子も食べ?ちゃったんすか? 僕司っちっすよ。火神っちといえどそう簡単に食べないと思うんすけどー」
氷室を一瞥することなく棒読みで述べる様は下手な役者さながらで。しかし、ざらめ糖をがちゃがちゃとかみ砕く氷室には、もはや黄瀬の姿など目に入っていなかった。
特典。そういえばそんなものがあったようななかったような。箱で注文した際に、ひとつだけ棺桶に入りそびれたビニールのもちがあった。そんな気もしてくる。その目が果たして赤色であったか赤と黄であったかまでは、さすがに氷室も覚えていない。
バーガーにピクルスが入っていないことへの不満は消え去っていた。氷室が忘れていただけで、もしかすれば家にもちが残っているかもしれない。かわいそうに、ひとりぼっちでがたがた震えていることだろう。早くビニールを解いてやって、タイガの腹であたためてやれば、タイガのすてきな友達となってくれることだろう。黄瀬からもたらされた助言は氷室を突き動かした。
「僕くんならタイガも食べないかもしれない! ありがとう黄瀬くん、家に帰ったら探してみるよ!」
「食べられてないといいすねー。……じゃあこのくらいで。お仕事がんばってくださいっすね!」
ひとしきり交わすべき挨拶は済んだのだろう。黄瀬はカップを手に、席を離れた。去り際、ウインクとともに片手をひらひらと振られ、氷室もつられて手を振り返した。皿に放った冷えはじめたバーガーはどうでもよくなっている。
「たちゅぅ……?」
放っておかれたタイガがフェルト製の手でつんつんと突いて、かまってほしいと訴えている。元気にぴょんと跳ねている眉すらハの字に下がってしまって、氷室はもちを手のひらへ乗せた。そうして目隠しをするように包んでしまう。
囲った手の内からもちの鳴き声は聞こえなくなっていた。多くの雑踏がイートインスペースを通り過ぎている。ふっくらとして、安堵する重さで、氷室だけを見てくれるもち。それで氷室はもうすっかり黄瀬を忘れてしまった。バーガーを片付けて、搭乗を待って。そうして飛行機ではしゃぐタイガを撮らなくては。氷室はスマートフォンの電池残量を確かめた。
出張の後は直帰が認められている。氷室はスーツケースをごろごろ転がして家路を急いだ。車道と歩道の見分けのつかない道路は色づいた葉で敷き詰められている。そこかしこの庭から大きく伸びた枝がぱらぱらと敷地外へ葉を落としていくのだ。ふかふかと靴底を押す絨毯は秋のおわりに腐りいつの間にか消えていく。スーツケースの小さな車輪にまとわりついては食い込んで止めるので、氷室の歩みは遅々とした。
素直に駅からタクシーを使うべきだったかとうんざりし始めた氷室の前に、薄汚れたゴミステーションがあらわれた。電柱に設置された緑色のネットのそばに場違いな袋がひとつ。今日のゴミ回収は終わってしまったし、かといって明日のゴミ回収に間に合わせるには早すぎる。いわば違反のそれはもぞもぞと揺れていた。内側から。市指定の黄色い袋には違反ゴミであることを示すステッカーが貼られている。赤インキで刷られた、大きなバツだ。
足を止めた氷室はうごめくゴミに目をこらした。よく動いているのはこちらに向けられた袋の表面で、ステッカーの下に見慣れた箱が見える。もちむしが収まっているめかくしの小箱。
興味の赴くまま、傍らから取り出したカッターで袋の表面を破り、箱を取り出す。やはり揺れの元は小箱であったようで、梱包用のラップで厳重にぐるぐると巻かれている。ラップの塊にはべたりとガムテープが貼られており、そこにはこう書かれていた。
【絶対に拾わないでください】
するなと言われればするのが生まれついての氷室の性質で、その程度が大きければ大きいほど手を出してしまう。汚れを気にすることなく小箱を耳に近づけた。かたかた揺れる小箱からかすかな叫びが聞こえる。
うぇるうぇる……。
うぇる……うぇる……。
どうやら箱にあるのはもちらしく、いまだ生を得ている様子。氷室はガムテープの言いつけに背くためにカッターを突き刺した。途端に箱が大きく揺れるも、気に留めることなく刃先を進めていく。
【わ】と【な】をすっかり離して意味を通さなくしてしまえば、弱り切ったもちが箱の隅に身をちぢませて鳴いていた。口は強固な皮紐を噛まされており、ずれて生じた隙間からうぇるうぇると叫んでいたようだ。街灯の下に当ててやれば、野暮ったい黒髪に出汁をたっぷり含んだ玉子焼きのような服、ぷりっとした水色の尻。何より温和にゆるやかな弧を描く曙のくちびるは、通称たまご寿司と呼ばれるもちむし。タイガと同じシリーズでありタイガがすっかり腹へ収めてしまったもちと、個体こそ異なれ同一であった。
「かわいそうに! ひとりで辛かっただろう……!」
氷室はもちをむんずと掴むと、おにぎりを握るようにぎゅっと包んだ。手の内でもちはもぞもぞ暴れたが、荒らしたゴミを放置してふたたび家路を急ぐ氷室である。手の中のもちがいくら暴れようが気に留めるものではなかった。
片手にもち、片手にスーツケース。氷室は浮かれ調子で足を進めた。家にあるかもしれないタイガの食べ損ねのことは抜けてしまって、いまはこの新たなもちの世話をしてやることで頭がいっぱい。
氷室から逃れようともちは氷室の指を噛んでいるが、革紐のせいでそれはマシュマロを押し当てられた感触に近く、要するに意味をなさなかった。むしろ、戯れているのだと氷室は好意的な解釈でスキップをした。跳ねたスーツケースががこんと音を立てる。
氷室のコートのポケットに入っていたタイガが、ひょっこりと顔を出す。そうして布地の間から紅の瞳でもちの姿を認めれば、うっかり地上へ出てきたモグラのようにさっと隠れた。
洗剤や柔軟剤を浸したタオルでたたき洗いを繰り返したもちを隅々までタオルで拭いてやる。塵芥から別れられたもちは、ふかふかのクッションの上で風呂上がりのようにふっくらとした肌を落ち着かせていた。
「うぇる……」
身体を清められてもちはうれしそうだった。このまま日陰で干さなければならないが、カーテンを閉め切った室内にあるのだし、さらに陰を探してやる必要はないだろう。朝になれば日の当たらない部屋へ移してやればいい。ソファへ埋もれた氷室は缶ビールを煽った。旅と仕事の疲れだろうか、心地よい疲労が脳からとろとろと垂れて眠気を誘う。洗面所から一定の感覚で洗濯機の回るそれが響き、氷室はこのままソファで眠ってしまいたくなる。ビール片手に居間で独り寝など、まさしく哀しい独り者の姿ではあるのだが。
かつて多くのもちの寝台となりいまは招待客の寝床となったクッションへ、かがみもちがそろそろと這う。前置きなしにクッションへ乗れば、ソファへ座る氷室のようにうとうとしかけているもちへ声をかけた。まるで許しを請うように。
「たちゅ…たちゅぅ……」
「うぇ……うぇるうぇる、たいが……」
ねむたそうに緩んだ灰の瞳が驚きにまるく開かれる。氷室の眠気は晴れることがない。目蓋は閉店間際のシャッターのようにうすい隙間を残して下りていた。
「たいが!」
「たちゅ! たちゅたちゅ!」
「たいがぁああああ!」
「たちゅちゅちゅ! ちゅっちゅ!! ちゅー!」
「たぁいがぁあああ!」
騒がしさに眠気の膜が弾ければ、クッションでもちたちはころころと転がって戯れている。上になったり下になったり、まるで尺取り虫が絡んでいるようだった。クッションが柔らかすぎてふたりで寝そべることができないのではと危惧したが、あまりに二匹がはしゃぐのでそのままにしておく。どうやらどちらが上になるかを競っているようだ。
ひとまずビールをひとくち。掴んでいても冷たいままで、氷室は舌でぱちぱち弾ける炭酸に気をよくした。ぴぎゃーぴぎゃーと怪獣のように転がる二匹はたのしそうである。さすが綿が詰まっているだけあった。タイガ一匹のときでは考えられなかった光景に、氷室はくちびるに乗った泡を指で拭った。
これでようやく、タイガに友達ができたのだ。もうタイガはひとりきりではない。氷室の目出度い頭は拾ってきたもちが特別に大きいタイガと遜色ない体積をしていることに何の疑問も抱かなかった。二匹は威嚇し合うように本来裂けるべきではないところまで口を生成して、妖怪大戦争へ突入している。しかし氷室が二匹をみることはなかった。
ソファの下から伸びた手が、氷室のむきだしの足首を撫でている。かつてボールを欲した手が己の肌を愛でるのは蕩けるような恍惚をもたらした。しばらくだんまりだった弟が寄せるサインに氷室は気分よく口角を上げた。片方の足の先で、触れる弟の指をさすってやる。弟の指は軒に下がるつららのように冷えている。
「ひさしぶりだね。今夜は出てこれそう? お前がいないと毎日がつまらないよ、タイガ。バスケでもしようか」
ひと息に缶を空にしてしまうと氷室は腰を上げた。そのまま裸足でぺたぺたと床を踏めば、ソファの下から這い出た陰は氷室を追ってずるずると伸びていった。
おわり