おわりのおわりのその日まで





 ドアを開ければ漂ってくる味噌汁のにおいが、氷室辰也の一日の疲れを吹き飛ばす。氷室は玄関で靴を脱ぐ間もなく駆け寄ってきた同居人のゆるんだ顔を前にして、目元を和らげた。料理の支度をしていた彼はエプロンをかけている。赤地の、胸元にコミカルな虎の顔をあしらった、見慣れたそれ。

おかえり

 氷室の鼓膜を揺らす、労わりに満ちたテノール。がさつだと称される彼が、こうも穏やかな声の使いかたをすることを氷室以外の誰が知るだろう。
 広げた腕へ導かれるように、氷室は出迎えた弟を抱きしめた。彼の上体の厚みとぬくもりを感じるために、両腕で彼の背を囲う。氷室が彼のエプロンに胸を押し付ける頃には、彼もまた氷室の重い前髪を頬で受け止めている。
 薪のように質量を持った弟の腕が、氷室を抱きしめて離さない。当たり前のように背に与えられるその重みを、堅さを、氷室は目蓋をおろして味わう。
 大の男ふたりが玄関先で、ハグ。大仰な出迎えだと傍目には映るだろう。国を間違えているのではないか、もしくは性別を間違えているのではと茶化されるに違いない。
 だが氷室は、それに弟も、そうした口さのない雑音を気にすることはないだろう。これがふたりの当たり前で、ようやく得られた愛すべき日常。兄弟を誓った火神大我と急かされることなく同じ時を過ごすことが、ここ数年のふたりの願いだった。
 目の前の肢体に思うさま寄りかかり、頬を擦りつけ甘えだす。弟の身体から立ちのぼる芳香は、氷室にはアルコールと同じだ。氷室は火神に飢えていた。なにせ氷室が弟の身体に触れるのは、これで七時間ぶりなのだから。

「ただいま、タイガ」






「もうすぐ氷室さんも卒業ですね」

 シェイクをすするストローから口を離した黒子が、いままで交わしていた話題からまったく離れたそんなことを急に出したものだから、火神はがぶりと噛んだひとくちをさっさと咀嚼してしまおうと決めた。向かいに座る相棒にその真意を尋ねるためだ。
 制服の上に着込んだダウンジャケットやらマフラーやら手袋は傍らの席にかけてある。それは黒子も同じこと。国道沿いに面した窓は枯れ枝を晒す街路樹と、冬の装いに身を包んだ人々を映していた。
 手で挟んだ厚みのあるバーガーの断片は火神の歯型のとおりにえぐれて、潰れたトマトやソースのかかったレタス、まだ熱を持ったパテを覗かせている。黒子の口から兄の名が出たことで寄った眉間の皺は、下手を打てば深くなるに違いなかった。
「何だよいきなり。てかなんでタツヤ?」
「木吉先輩経由で虹村先輩から、氷室さんは都内の大学に進学希望と聞きました。どうやらアメリカへは戻らないようです」
 幾ばくかを飲み込んで尋ねた火神に、黒子は淡々と答える。師匠の計らいにより木吉が米国で治療を行っていることは百も承知だ。その彼がなぜ兄の動向を知るのだろう。
 ニジムラ。木吉と親しく、また氷室とも親しい、それでいて聞き慣れない名前に、火神は割れた眉をひきあげる。それは彼の不機嫌な証拠だった。
「誰そのニジムラって。なんでタツヤの進路しってんの?」
「以前話したじゃないですか。帝光中の頃の僕たちの先輩で、(閉じきった暗い倉庫内であんなことやこんなことをし相互理解を深めあった)氷室さんの親友です」
 心外と言わんばかりに高めた声のトーンで、ふきだしに出さなかった台詞をひとり黒子は楽しむ。趣味であり特技である人間観察力を発揮して把握したひとびとの関係に指をさしいれ、ほんのすこしだけ弄ぶのを黒子は好いていた。それは天井裏から関わり合いのない第三者の生活を覗き見る嗜好に近しいものがある。ことに火神大我という人間は身近で、またどうしようもないくらいわかりやすい性質をしていたから、黒子はしばし火神をおもちゃにした。今回の唐突な話題の切り替えもそれにあたる。黒子は火神を前にして、ひそかな愉しみに浸った。
 ―――そう。虹村先輩の名前だけでもおもしろいくらいむくれているのに、(こんなこと)を口に出してはますます火神君が拗ねますからね。そうした火神君を見るのはとても、控えめにいってかなり、僕の好みに合致してはいますが、そのあとがひどく面倒なのでしません。ストバスといいウインターカップといい、馬に蹴られるのはもうこりごりです。
「タツヤから聞いたことねえけど」
 驚きのためにかすかに目を開いた黒子の内心を知ることなく、火神はぶすっと吐き捨てる。きまりわるく逃げるように他方へまなざしをずらしているのが、彼の戸惑いとちいさな哀しみを語っていた。黒子はそれを愛らしいと感じる。容易いとも。
 血のつながっていない、たったひとりの他人に思うさま心を動かされる相棒を嗤いはしない。それどころか、黒子には火神がときにまばゆく映った。自分以外の第三者のために、己を放って愚かになれるひたむきさは黒子にも覚えがある。相棒と互いに認めあう間柄だ、通ずるものがあって当然だろう。
 黒子は予定どおり、助け船を出すことにした。
「虹村先輩の名前を出すどころではないんでしょう?」
 黒子の含みを持った物言いに、火神はふたたび水色の瞳と向き合う。
「どういうことだよ」
「ここに氷室さんを連れてきてほしいものですね。を出したように顔でも赤くしてもらえれば、僕も進んでのろけの種を提供した甲斐があるのですが」
 氷室の名を出した途端、火神の手の内のバーガーがひしゃげたのがわかった。よれた包み紙の内側を伝って、トマトの汁とまじって薄くなったソースが流れている。それはトレイに敷かれたランチョンマット代わりの、クルー募集のうすっぺらい広告をぼたぼたと汚すことだろう。
 まったくもってわかりやすい。この調子で彼は、もしくは彼らはやっていけるのだろうか。
 黒子は火神の手にあるバーガーを眺める。そのずれてしまった断面から色の失せた緑の楕円がぴょこんと顔を覗かせていた。
「話がぜんっぜんみえねえんだけど」
 バーガーから手を離さない火神が憮然と断言する。慕う先輩と、知らない誰かと、目の前の相棒から茅の外にされてゆらゆらと溜まっていた苛立ちが喉元にまでせり上がっている。兄が都内へ進学を希望していること、火神の知らない兄の知り合い、含みを持たせるばかりで一向に明らかにならない黒子の物言い。
 誰よりも兄の近くにいるのは、いたのは火神だというのに、黒子が矢継ぎ早にしゃべりだすそれぞれはどれも理解できないことばかりだ。
 パッケージから黒子がポテトをつまむ。ただそれだけの動作だというのに、黒子ははあと疲れた様子で肩を落とした。そうした仕草がまた火神の苛立ちをあおる。
「君の鈍さには相棒の僕でもが出ますよ。氷室さんもさぞ手を焼いていることでしょう……」
「うるせーよ。回りくどいのはキライだ、言いたいことがあるならさっさと言いやがれ」
 あぐっと大きく開いた口がバーガーを噛んだ。どうやら手にしたバーガーは忘れ去られてはいなかったようで、トレイに積まれたほかのものたちもいずれは火神の胃へ収まるだろう。
 顎を揺らし頬におうとつをつくってもごもごと咀嚼する火神は、抑えきれない感情を食べ物といっしょに呑みこんでしまうに違いなかった。こどもじみたやり方で自分を抑えようとする姿を前にすると、すこしだけ気の毒な事をしてしまったかと黒子は憂う。ただしそれはほんの一瞬で、彼の口が塞がっているこのときを好機と考えた黒子は、いいかげんネタばらしをすることにした。手品師は観客にタネを明かすそのときこそが、最も高揚を感じるのだ。
 いくつもヒントをあげたというのに答えにまで辿り着くことのできなかったできの悪い生徒へ捧げる、とっておきのアドバイス。それは彼の、おそらく彼らのこれからの生活を華やかに彩ることだろう。
 ただし黒子の用意したそれはアドバイスというよりは悪知恵で、彼ら以外の第三者が耳にすれば、なぜわざわざ火に油を注ぐのか? と呆れるはずだ。いまだって彼らの惚気に中てられて、皆被害を被っているのに!
 これからのふたりの関係に起こるであろう変化を、黒子は待ち望んでいる。というより、とっととやることは全て終わらせてしまって、おだやかな熟年夫婦の域にまで入ってくれなくては困る。
 見ている方がやきもきするほど両者ともに関係の進展にはほど遠い、おめでたい頭をしているのだ。こうして傍から節介を焼いてやらなければ、何十年経っても変わらない距離を保ちそうで恐ろしい。そうして冷めることのない無自覚な熱に中てられて、周囲ばかりがぎりぎりと歯ぎしりで歯を痛めるのは不公平だと黒子は主張する。
 みてください火神君の歯を。悩みから縁遠い人間の持つ良好な歯列です。学名を"no ten ki"として歯磨きの教材に用いるべきです。
 研磨の必要のない健康的なエナメル質を頬の内側で動かす火神を前に、黒子は腹の底からよく響くそれで語り始めた。二度も同じことを説明する気力はさすがに黒子にもないので、これで彼が聞き逃したのならば天がそうあれと定めたのだと判断しようと決めている。
 悪知恵といってもまあ、この程度の他愛もないことなのだけど。
「氷室さんが都内に越してくるということは、それだけ頻繁に、長い時間を共に過ごせるのではないか? と部外者の僕は思ったわけです。せいぜい部外者の僕が考えることですら当を得ることはないでしょうけど。ものわかりのよくない火神君にもわかるようにひとことで説明してみましょうか。二泊三日の合同合宿どころではない、おふたりともおまちかねの新生活が、来年から始まるということですよ(このすかぽんたん)」
 忙しなく動いていた顎がぴたりと止まる。競り出た喉仏がひときわ大きく上下に揺れ、黒子は彼の口内が空になったことを知る。
 ようやく火神は掴んでいたバーガーをトレイへ戻したが、黒子の期待を裏切って包み紙からソースが流れることはなかった。
 黒子はシェイクの満ちたカップを手にし、ストローをくわえる。鈍い彼へのにくい気持ちは、最後まで胸にしまっておいた。






 暖房によってぬくもった談話室では寮生が思い思いに穏やかなひとときを楽しんでいた。この時期になると個人の部屋で過ごすよりも大部屋の方が暖かく、寮生たちは木のうろへ這い寄る虫のようにもぞもぞと集まるのだ。
 九時台から始まるドラマに食い入るいくつもの背中と、カードゲームに興じる椅子まわりと。体躯の豊かな寮生でも四人は腰かけることのできる壁際のゆったりとした大きなソファは、たったふたりによってまるまる占領されていた。
 ひときわ目を引く長身の膝を悠々と枕にし、見栄えのする長い脚でソファを占めた最上級学年生―――いわゆる氷室は鼻歌を奏でながら小さな画面でネットサーフィンを楽しんでいる。その氷室にあわれ枕にされてしまった紫原は、菓子袋の底のぎざぎざが氷室の顔をこすらないよう一定の距離を保ちつつ、中身をつまんでは味わう。
 きまぐれでこうして氷室に枕にされてから、もう幾ばくかが過ぎていた。はじめのころは菓子くずをばらばらと落としながらおやつを食んでいたのだが、膝上から前触れもなく笑顔で胸ぐらをつかまれたので、以来氷室が膝に寄ってきたときはチューペットかマシュマロあたりに菓子を切り替えている。今日は鈴カステラだ。
 初見には異様な、しかし寮生には普段の光景となったソファまわりは、テレビやリビングチェアから離れた位置にあるので人が立ち寄ることはない。というより、わざわざ進んで厄介ごとに関わる物好きはもはやいない。
 最も寮生を集めているテレビでは流行りの女優が出てくる月9ドラマを流しているので、皆それに釘付けだ。ゆえに枕がこんなことを素っ頓狂に叫んだところで、うるせーよと文句を言う輩はふたりが属する男子バスケットボール部のレギュラーくらいなものだった。
「えっ室ちん火神と手ぇつないだことないの? コスプレひめはじめもしたっていったじゃん!」
 紫原の声は部屋中に響いたが、空気を読むことのできる寮生たちによって完全に黙殺された。そのかわり、ふたりに背を向けている一部は頓狂な叫びに含まれた単語の内情に聞き耳を立て、今晩あたりのおかずにしようと意識を研ぎ澄ませていた。
 紫原の問いに、氷室がほわほわと毒気なく微笑む。この国では一般的な風習および行事だというのに、紫原ときたらやけに喰いついてしまって。そうしたところが、まだまだ幼さを感じさせる。
 氷室は古くなりはじめた記憶を呼び起こした。コスチュームプレイの何たるかを知った今ではあれがコスプレに入るのかわからないが、紫原の口にしたコスプレとは初めて火神の部屋に泊まった際に購入した衣装を指すのだろう。
 赤い頭巾をかぶった白うさぎと、淡いピンク色をしたもこもこの羊毛を持つ羊の二着。氷室は今でも昨日のことのように思い出すことができる。百九十センチのもこもこにのしかかりプロレス技をかけるのは、ひどくゆかいだった。
「コスプレといってもドンッ・キホーテでパジャマ代わりに着ぐるみを買っただけだよ? それにひめはじめはみんなすることだろう?」
 紫原のかたちのよい眉が、ねじのはずれた帰国子女の認識を正すためにひゅっと上がる。
「ねーよ。一部のリア充だけだしそんなことすんの」
「えっ、アツシは正月に米を食べないのか?」
「なんで米? なんかの隠語とかそういうあれ? もしかして俺セクハラされてる?」
「正月に米を食べることをひめはじめというんじゃないのか? タイガが昼に雑煮を空にしてしまったから、夕飯に米を炊いたんだ。ほら、ウインターカップの時に福井先輩から新米をもらっただろう。五キロは重かったけど、タイガが悠々と運んでくれたよ。部を離れても後輩である俺たちを気遣って、試合会場にわざわざ米を持ってきてくれるなんて、さすが福井先輩だ」
「あー……そいえば室ちん火神のとこで年越してたねー……せんぱいからの愛のムチならぬお泊まり阻止フラグがまさかあーもあっけなく折られると、逆に『行ってこい!』って気になったよねー……」
 紫原は口の中に鈴カステラを放るとそのまま噛まずに舌で上顎へ押しつけ、ぐじゅっと潰した。唾液に浸せば噛むことなしにぐずぐずに崩れていくのだ。
 氷室と火神にひめはじめへの贈り物として働いてしまった福井のいやがらせは、部員及び寮生が泣きついたゆえのものだった。いわば、『お前ら年末年越しといちゃつくつもりか、ちょっとパッション抑えろマジで(TPO)』である。
 秋田から届いたそれを岡村が息を荒くしようやく運んできたというのに、自分たちに贈られた米だとわかった途端、からっと笑みを浮かべて揚々と肩に担いだ火神に、荒木を除く一同がうなだれたのは言うまでもない。
「タイガがしまいっぱなしにして賞味期限ぎりぎりだったの味覚くりごはんの素はおいしかったな。やっぱり秋田の新米はいいよアツシ。タイガも頬にいくつも飯粒をつけてがっついてたっけ」
 氷室が手を伸ばしてビニール袋の側面をくしゃくしゃと揺らしだす。指が袋の口にまで届いていないというのに後輩の菓子をつまもうとする不届き者に、紫原は袋を傾けてやった。
 一部ではあんなことやこんなことをされたいと評判の整った指が鈴カステラをキャッチする。それも二個。
「もういいよ米の話は。それよりさぁ、なんで手つないでないの。おそろい指輪は買ったくせに、室ちん奥手ー。早稲二毛作ー」
「指輪っていったって、あれは兄弟の証だ。手をつなぐこととはまた別だろう」
 まるで他人事のようにどこまでも澄ましている氷室に、紫原はわざと事実を並べることにした。もちろん、焚きつけて氷室の本音を引き出すためだ。
 八つだか九つだかの頃に氷室が将来を誓い合った指輪を火神に渡したせいで、一年の頃はいざこざに巻き込まれた。公式試合をまるまる私情でぬりつぶして、やっとのことで仲を修復したと思ったら今度は人目をはばからない、それでいて無自覚ないちゃつきが始まって。それだのに手も繋いでいないなんて。順序がずいぶんちぐはぐじゃないだろうか。
「ふーん。初詣いっしょに行ったくせに。カップル割引で映画みたくせに。火神と電話すると二時間も三時間も話すくせに」
「アツシ!」
「むーろちんなんかこーわくないもんねー。おやつのストック切れる方がよっぽどこわいし」
 べえと舌を突きつける。これで右ストレートが飛んでこようが足技をくりだされようが、紫原には手にした菓子袋だけは絶対にひっくり返さない自信があった。それさえあればこの傍迷惑な先輩にも立ち向かっていけるのだ。
 ところが氷室はコートを前にしたように目を輝かせて。
「よく知っているな! もしかしてアツシも俺たちと一緒に出かけ」
「ねーよ」
 氷室が言い終わらないうちに断言する。
 なにを、どうして、どうなれば、そうなるのだ。無自覚というのはただのブラフで、実はハーレムもののラノベの主人公のように計算高く偽っているだけではないのだろうか。そうして新たなハーレム要員を増やしているのだ。
 もはや感性が宇宙人に近しい彼とその弟によってうっかり間に挟まれてしまったら、一体何が起こるのやら。紫原は静かに恐怖した。だが何も気のつかない彼は、「遠慮しなくていいんだぞ?」とこれまた調子のずれたことを言った。






 刻々と夕飯客が入れ替わるマジバーガーの一席で火神は頭を抱えていた。それというのも、煙に巻くばかりでちっともわからないことばかりを並べていた黒子が、とんでもない説明を始めたからである。
 おかげで火神のトレイにはまだ裾野を残したバーガーが丘をつくっていた。黒子の語るこれからを前に、バーガーを味わう余裕など持てるはずがない。
 火神は呻くように黒子の言葉を繰り返した。
「タツヤと……新生活……」
「そうですよ。の舞う季節に合いを渡すんです。放課後にはマジバーガーへ寄って氷室さんにピクルスをあげて、の日には相合い傘をしてふたりきりで同じ部屋に帰る。こちらへ来て間もない氷室さんは氷室さんでしょうから十中八九間違いなく迷子になるでしょう。その都度火神君は氷室さんを見つけなくてはなりませんが、君なら心配ありません。君、氷室さんに関してのみ犬並みの嗅覚といいますか第六感を働かせますからね……」
 すっかり聞く姿勢となった火神を前に、黒子は年齢制限に抵触しなさそうな可能性を並べた。その様子は黒子を認識できる高尾あたりが目にすれば、催眠術をかけるひとりといままさにかけられているひとりとして映っただろう。
 黒子はストローからシェイクを味わった。さっぱりとした甘みと気分を変えてくれるつめたさが心地よい。
 本当はもっといろいろなことができますけど、このくらいがちょうどいいでしょう。ほのぼのですとか、全年齢の健全ですとか、誰でも安心して受け止めることのできる事柄は大切ですからね。有害指定されそうなあれこれは、あとでまとめて青峰君もふくめた別の機会に負ってくれます。
 黒子は大学生となった氷室と高校三年生の火神が顔を合わせる場面を想像した。ひとつしか年が変わらないのに謎の色気を発する氷室と、体躯こそは大人のそれだが溌剌であどけなさのある火神である。そのふたりが頻繁に都内で会うのだ。
制服姿の君と私服姿で会う氷室さんを思うと、ますますいけないおにいさんって感じがしますね。職業・大学生と高校生の組み合わせ、しかも似た年齢の男同士で胸に同じような指輪を下げて……なかなかにいかがわしい組み合わせですええそうですともリア充爆発しろ。そうだ、これでバレンタインはクール便で秋田まで発送しなくてすみます。よかったですね火神君、来年は誠凛の文化祭に氷室さんを呼べますよ。ああ……旅行なんてのもできそうですね。おふたりで里帰りはしないんですか?」
 うってかわってだんまりな火神に問いかける。
 黒子は火神が氷室を迎えるたびに、彼の好物をテーブル中に並べることを知っている。まるでひとつきごとにクリスマスがやって来たかのように。もちろんそれはどれも火神の手作りだ。氷室が火神の下へ身を寄せれば、それが毎日続くのだろうか。黒子はフォアグラの鴨を思い出した。むちむちの氷室さん、それはそれでまたよし。
 畳み掛けるように続けられる黒子の弁に、あわてて火神は手を突き出した。黒子は広げられたてのひらの結婚線を探しながら、制されるままに口を噤む。
「ちょっ、ちょっと、待ってくれ。やべえじゃねえか……それってつまり……ほとんどmarriageってことじゃね……?」
「飛躍しすぎですが正直端から君たちを見てると早く結婚しろって思うのでだいじょうぶです合ってます爆発してください」
 燃え盛るように頬をあかあかと染めた火神がてのひらに生じたすきまから窺える。いまにもこぼれおちそうなほど瞳に涙を溜め、強いて結ぼうとするくちびるはよれてしまって。威勢の良い眉は上向きではあるものの、芯を失ってふにゃんとしている。不確定要素の強い妄言だというのに、火神はすっかりノックダウンされていた。
 結婚。なにをどうすれば同居から同棲と婚約を飛び越えてそこに着くのか理解しがたいが、火神はすっかりその気になっている。己の弁がそこまでの効果をもたらすと思っていなかった黒子は、この事態にテーブルの下で堅く勝利の拳をつくった。やりましたよ巻藤君。僕は、君がお膳立てしたニアホモから見事ニアをなくしてみせました。
 火神は額に手を当て、与えられた衝撃に耐えようとうつむいた。めまいを起こしたかのようにバーガーの並ぶ景色がくらくらと歪む。身体があつくて、うまく息ができなくて、それから、ええと、ええと。
 包み紙でしまいこんだ食べかけのバーガーの断面から、ひょこんと鮮やかな緑の一片がひかりかがやいている。火神は引き寄せられるようにバーガーをそっと手に取ると、まばゆい緑の宝石に釘付けとなった。
 うつくしい彼のための玉から、己を呼ぶ声が聞こえてくるような気がする。火神は応えるように彼の名をつぶやいた。
「タツヤ……が、こっちにくる……」
「はい」
「タツヤ……と、もっと、会える……」
「はい」
「タツヤ……」
「火神君、バーガーのピクルスをいくら見つめても氷室さんには化けないことを忘れないでくださいね」






 しゃこしゃこと軽快に音を立てながら歯を磨いていた劉は、じいっと隣の男を盗み見た。普段ならば右側の前髪にピンを差して顔を洗うなり歯を磨くなりする同級生が、いまは何も手がつかないといった様子で洗面台に立っている。その表情はいつになく憂いを湛えていた。
 劉は手早くブラッシングを終えると、口をゆすいで泡をすっかり吐き出した。
「どうしたアル、浮かない顔して。紫原に漬け物でもとられたアルか」
「俺、そんな顔してるのか」
「誠凛のにくきあの弟が漬けた瓶詰まるごと床に落としたような顔してるアル」
「……そうか」
 氷室の眉間に険しさが増した。物を思うように胸元に掲げた指輪をいじっている。鈍いひかりを放つちいさな輪にはもう指が入らないようで、ひとさしゆびの先を押し込めては、出したり入れたりを繰り返した。
 まるい輪のかたちを確かめるように、思い出すように、何度も指で触れては、また元のように胸へ戻すことができない。指が指輪から離れてくれなかった。それはまるで氷室の心中を表わしているかのようだった。

 なんで、手、つないでないの。

 紫原の放ったひとことが、いつまでも胸に刺さっている。
 指摘されるまで気がつかなかった。火神と、弟とならば何だってできたのに、手を繋いでいない。
 手を繋がなくともこれまで通りやってこれたのだし、無理をする必要はないとわかっている。
 それでも。
 銀の輪の縁を押しつぶすように、おやゆびとひとさしゆびで挟んでいる。いくら力を込めようと指に伝わるのは金属の堅さだけだ。無機物が持つべき冷たさは、氷室の熱ですっかり溶けてしまっている。
 声変りを迎える前は手を繋ぐことなどなんでもなかった。あたりまえの、動作だった。たった数年離れていただけで、どうしてこうも意識してしまうのだろう。
 たかだか手を繋ぐだけだ。ふたりきりの部屋で、もしくは外で。ちょっとそのあたりを歩けば、手を繋いで歩いている恋人たちなど容易く見つかる。火神とはきょうだいなのだし、手を繋いだところでやましいことなどなにひとつないのだ。それでも氷室は、自分からあのてのひらを求めることができない。
 のなかでならいくらでも手を繋げるのに、なんて。とても言えない。
 広いくせに頼りない胸に思い切り抱きついて匂いを嗅いで、そうすれば手を繋ぐなんて簡単にできるのに。
 毎日のように背中を合わせては変わり映えのしない互いの背丈を比べあっていたあの頃ならば、触れ合うのは自然なことだった。いまだって抱きつくことはできる。キスも、ひとつのシャワーで身体をあたためあうことも、ふたりでできることなら、なんだって。
 手をつないだ途端、なにかが変わってしまうような気がした。
 きょうだいから別のものになってしまう、そうした不安がいつだって氷室を襲う。
 そのくせ氷室にはあるひとつの欲求がふつふつと起こるばかりで収まる様子をみせない。それは氷室もうんざりするほど、ひどく子供じみたものだった。

 火神を、ひとりじめしたい。

 氷室ひとりの頭のなかでなら、好きなだけそれができた。かつてと異なりいまの火神の周りには、火神を慕う才能に恵まれた友人が多くいる。いくら兄を名乗ろうと、幼い頃の思い出をそらんじようと、僻地で暮らす氷室は弟の縁辺にあるに違いない。
 とうに手放したはずの独占欲に、自らへの嫌悪感が湧いてくる。兄として、幼馴染として、まばゆい未来にあふれたひとりの人間と接するために、抱いていい感情ではない。
 自分すら制御のできない氷室が、火神に手をつないでくれなど、求められるはずがなかった。
「……ダメだな俺は」
「このさい弟がらみなのは大目に見てやるアル。うじうじする氷室は見てるこっちがめんどくさくなるアルからな、もう喧嘩するつもりでぶつかってきたらいいアルよ」
 洗面道具を片付けた劉の姿をまじまじと見やる。劉の放った何気ない一言は、氷室にある光明をもたらした。
「けんか……?」
「そうアル。欲しいものは全力で取りに行かないと手に入らないアルよ。最新式炊飯器しかり、監督の交際相手しかり」
「……そうか」
 友人から背中を押され、氷室の内で火が点る。じれったく指輪をもてそんでいた指がようやく離れた。弟との思い出に耽ったその手で、決意の拳を握る。
 氷室の瞳にもはや迷いはない。紫原の言葉によって揺れていた氷室受け(純情仕様)の気配は消え失せ、宿敵ともいえる弟をこの手で叩き潰したい懐かしい闘牙(原作・陽泉戦仕様)で満ちあふれている。それはいわば師匠であるアレックスの称した『すげえ湯気』だ。
 氷室は劉に感謝していた。まさにその通りだ。拳を交わしてわかりあえない相手などいない。
 死ぬ気で事を起こせば、大概の揉め事に片がつくのだ。今までもそうして己は問題を解決してきたではないか。氷室はそれで虹村という素晴らしい友人を手に入れた。
「ありがとう劉。全力で腹くくって殺す気でいってくるよ」
「俺はエールだけは送ったアルからな。あとはふたりで頑張るアルよ。俺は一切の責任を負わないアル」
 妙なところでスイッチの入ってしまった朋友に、劉は釘を刺した。恋愛中の女子のようにうじうじと悩む氷室よりは、こちらの頭まで熱の回ってしまった氷室の方が遥かに好感度が高いはずである。その結果を一身に背負うであろうあの弟とやらがどうなろうと、こっちは知ったことではない。なにせこれは彼らふたりだけの問題である。その巻き添えをわざわざ食らわされているのは、他でもないこちらだ。
 虎の名を持つ弟とやらが氷室の面倒をみるように、あの動物の責任は氷室ひとりが負えばいい。






 ぴちゃん、と天井からしずくが落ちて湯船で弾けた。換気扇をつけていない、湯気でくもった浴室ではささやかな水音もよく響く。
 火神は湯をためたバスタブに身体を預け、ひとりぶつぶつと考え事を吐きだしていた。黒子と別れ、家に帰ってきてからというもの、彼のひとりごとが止まることはない。
「ふたりぐらし……できんのか? でもタツヤ仕送り受けてるし、こっち住むったらわざわざ部屋借りんのフケイザイだし……」
 部屋ならば父親が入る予定だった、今は物置となっている一室が空いている。すこし外れているが、都心へのアクセスも良い方だ。家事もふたりで分担すれば、ひとりで暮らすよりもずっと過ごしやすい。食事であれば大学へ持参する弁当まで火神は喜んで腕を振るうだろう。

 どうしよう。
 兄がこの部屋に来る。
 兄とふたりきりでこの部屋で暮らす。

 決まって火神はその仮定を浮かべただけで顔に熱を集めてしまい、まともに頭が働かなくなる。詳細を楽しむべき具体的なことがらにまで考えが進まない。
 じっとしていられなくなった火神は、熱い湯船に勢いよく顔を突っ込んだ。目をぎゅっとつむって、たっぷり一分ほど頭を冷やすつもりで湯に浸かる。頭を冷やすもなにも火神が顔をつけているのは湯であり、頭を下げて息を止めれば物を考えるのに逆効果だ。それでも火神はいてもたってもいられず、かといって古代の物理学者のように風呂場から飛び出して彼の名前を叫びながら外を走り回るわけにもいかず、自分を宥めようと息を止める。
 そうしてざばあと顔を出した。飛沫がばしゃばしゃと壁やバスタブを打つ。当然、こんなことをして緊張がほぐれるはずがない。
「あーっやべえ! ぜんっぜんおちつかねえ! どうすんだ俺。やばくね、これつづくのってかなりクんだけど」
 ひとりきりの浴室にひとりごとが響き渡る。火神は濡れた前髪をてのひらで思い切り掻きあげた。重く水を含んだ紅と黒の髪は、額より先ですっかり貼りついている。
 まだ氷室の口から直接、都内へ進学すると聞いたわけでもないのに、なにをひとり舞い上がっているのだろう。
 いくら周りが騒ごうと、兄は自分の道をゆくひとだ。あれこれ憶測を立てたところで、彼の口から聞かない限りわからないはずなのに。
 風呂を出て、電話で尋ねれば容易いのだろう。短縮ダイヤルを押して彼を呼び出せば、ものの五分とかからないうちに答えてくれるはずだ。
 だが火神には、てのひらに仕舞い込んでしまえるちいさな端末を操作するだけの勇気を、出すことができない。
 面と向かって兄の口から直接、兄の声で、真実を知りたいと思う。それだのに不確かな噂しかすがるものがないだなんて。
 まるで肝試しをさせられているようだ。道中並ぶ脅かし役はすべて火神のかたちをしていて、手をこまねいて火神の不安を引き出そうとしている。それらに耳を傾けず、兄の言葉を目指さなくてはならないのに、火神の歩みは止まったままだ。彼が卒業を迎えるまで、あとひと月と半分あるかないか。今後の報告として兄から語るそのときまで、火神は待てそうにない。
 頼みの綱の携帯電話は、リビングにほっぽったままだ。火神の不安と期待を一身に負うあの端末は、暗闇を切り裂く懐中電灯となるのだろうか。
 貼りついた前髪が崩れだし、額をぱらぱらと打ちはじめる。ほつれるオールバックを気に留めることなく、火神は愛おしい名前をくちびるで紡いだ。
「タツヤ……」
 もし、兄が都内へ進学したら、今のように時間に追われなくて済む。
 もうで別れを告げなくていいんだ。
 兄と同じ時間を過ごしたい気持ちを我慢しなくていいんだ。
 愛おしい想いが胸いっぱいにあふれだす。火神の耳介は静かに赤みを増していった。
 どうしよう、兄としたいことがたくさんある。
 ふたりで浴衣を着て、夏祭りに行ってみたい。人々の合間から花火の上がる夜空を、ふたりで見たい。
 昔のようにふたりでに行きたい。波打ち際であの頃のように、波に乗る姿を見てほしい。火神はあれからもっとずっと高い波に長く乗れるようになった。
 それから、それから。もっと、バスケがしたい。勝ち負けなど放って、もっと、もっと。兄のボールをたぐる姿を見ていたい。触れていたい。感じていたい。火神がダンクを決めるところを見てほしい。
 兄と、バスケをしていたい。飽きるまで、ずっと、気が済むまで。遮るものは門限しかなかった、あの頃のように。
 将来のことなんて、なにひとつわからないけれど。だけど、こうして兄と未来をひとつずつ積み重ねていくことができたならば、それはきっと待ち遠しいものになるに違いない。
 火神は色づいた目蓋を、そっと閉じた。濃いために黒に近しい紅の睫毛をふるわせて、己の左手の薬指に接吻した。






 月を思わせる乳白色のドーム型の場内に明かりが満ち、プラネタリウムの上映が終わる。夢から覚めたように周囲の人々は席を立って出口へ向かっていた。並んで上映を楽しんだ火神と氷室は、去りゆく人々の立てるひそやかなざわめきをよそに、席に腰掛けたままだ。
 火神も知らない天文台を案内したのは兄だった。ひとつきに一度のはずの逢瀬を早め、兄がコートよりも真昼の天体観測を望んだことに、火神は違和を覚えた。
 プログラムは季節に合わない真夏の星座で、火神はとうに昔のものとなった、もしくは次のものとなる熱帯夜をスクリーンで過ごした。映し出された星空はどれも火神の古い思い出に刻まれたものだった。
 あちらに越してもうすぐ一年になろうとする夏休み。ある週末に、兄は火神をキャンプに連れていってくれた。教会が主催するサマーキャンプに火神が参加できなかったからだ。
 兄の父に指導を受けながら組み立てたテントの入り口のジッパーを開き、頭だけをひょこんと出して、いつまでも星空を眺めていた。兄はたくさんの星と、そのつなげかたと、夜空に掲げられた英雄の逸話を知っていた。

 タツヤはなんでそんなにいっぱい、知ってるの?

 いつもならば『兄だから』と気にも留めない事柄を、あのときは疑問に抱いた。寝そべった兄は夜空から大我へと、大粒の濡れた瞳を向けた。大我にはあのとき、前髪で覆われていない灰青のそれこそが、何物にも代えられない一等星に思えた。

 家に星座の本があるんだ。それを読んだだけだよ。でも、こうして本物の星を見ながらタイガに教えることができて、僕は。

 空の端が白みはじめても、兄は火神の望みを汲んで請われるままに話し続けた。いつもならば明日のことを考えて寝ようと促してくれるはずなのに、あの日だけは兄は火神に夜更かしを許した。
 そのときだけだ。火神が夜通し目を覚ましていても、眼球に赤い彩りを添えなかったのは。

 あのとき兄は、なんと言ったのだっけ。

 いつだってそうだ。火神は肝心なところで、兄の思いに応えることができない。それだのに兄はまだ火神を弟とみてくれる。きょうだいだと、火神が彼のそばにいることを許してくれる。
 残っている観客もまばらになり、席を立とうとした火神の手首を兄が掴んだ。火神の動作を制したその仕草にすこしだけ、戸惑いがあった気がした。
「タイガ、話がある」
 平時を装う兄の硬質な声に、いやな予感がした。こんなふうに彼が改まって話を切り出すときは、決まって何かが起こる。そしてその原因はいつも火神にある。

 また、なのだろうか。
 また火神は兄に、ひどいことをしてしまったのだろうか。
 また兄は火神のために、つらい気持ちを負って。
 
「お前は嫌がるかもしれないが、だが俺はどうしても譲れない。もしかしたらお前との関係はまたこじれてしまうかもしれないな。それでも俺は、お前に言っておきたいことがある」
「なんだよ、それ。なんの、話」
 両手こそ膝の上に置いていたが、火神はいますぐにでも氷室に問いただしたくてならなかった。ここがいつかのようにストリートではなく、公共の施設でよかったと思う。あの頃は黙って聞くことしかできなかったが、いまならば火神自身何をしでかすかわからない。
 周囲をはばからない火神の声に、近くのカップルが気遣わしげにまなざしを向けている。兄は火神に、まるで責められているかのように、まなざしを伏せる。黒々とした豊かな睫毛の先が揺れて、白磁の肌に影をつくっていた。
「ふたりきりじゃ、とても言えそうにないんだ。わかって、ほしい」
 舌が上顎に貼りついてしまっていた。火神は自分のものとは思えないそれを無理に引き剥がし、物を言おうとする。
「俺、は。……俺も、タツヤに話したいことがある」
 幾度端末を耳に押しつけようと、ついぞ出ることのなかったそれがくちびるから滑り落ちていった。
 顔を向けた兄の、顔色が変わる。それは火神の弁に興味を持ったあらわれだった。
「どうやら、互いに伝えておかなくてはならないことがあるようだな」
「そう、みてえだ。だからいっしょに、いって。俺ひとりじゃ、聞けそうにねえから……。俺が、掛け声するから、それで一緒に言ってくれ。それくらい、わがままいっていいよな」
 氷室が席を立ったので、火神もまた兄に倣った。兄は沈んだ面持ちのまま指を組み始める。ゆがみひとつない兄の指の間から、ぱきゃ、と懐かしい音が火神の鼓膜を心地よく震わせた。
 そう、決まって兄は自分から喧嘩を売り込む際、こうして指を鳴らす癖があった。バスケを続けたいのなら使うのは脚だ。兄は火神に幾度となくそう言い聞かせたのに、彼はいつだって拳を振るう。
 まるであの頃の路地裏に戻ったようで、兄の奏でた音は、火神の緊張を和らげた。
 すうと肺に息を送り込む。火神は自身を鼓舞するように、円陣を組む気持ちで掛け声を出す。いちにの、さん。
「せーのーでっ」
 ふたりの声がまばらな場内を満たす。
「俺と……手をつないでくれないか」
「俺と一緒に暮らしてくれっ……ださいっ!」
 きゅっとつむった目を開けば、映るのは呆けた兄の顔で。兄の右目が驚きに見開かれている。その瞳に映し鏡のように、火神もまた映っているのだろう。
 互いの告白を間違いなく聞き留めたふたりは、同じように呆気にとられていた。そうして、ふたつのくちびるが揺れる。
「は?」
「え……」
 いまだ席を立たずに星空の余韻に浸っていた複数のカップルと、ふたりの成り行きを不安げに見守っていたカップル、ならびに次の上映にむけて整備を進めていたスタッフは、突如として奏でられたデュエットに面食らったことだろう。
 そう、製作が危ぶまれた待望のアニメ二期のOPで、氷室辰也の声に酷似したボーカルが歌うテーマ曲を聴きながら、指輪にくちづける氷室辰也のどアップが映し出されたのを初めて目の当たりにした全国の視聴者のように。
 黒子がいたならば作画崩壊レベルか、もしくは神作画と讃えられるレベルの、とかくふり幅の大きい表情をつくっていたに違いない。
「いま、なんて……タイガっ」
 問いかけに答える前に、火神の左手が氷室の右手を包み込む。与えられたその温かさと厚みに、氷室の鼓動は跳ねるように走り出した。
 力の抜けた脚が、氷室を導く火神によって動き出す。火神は場内を抜けると、ホールを目指して人で賑わう廊下を進んでいった。火神に手を引かれる氷室はただ脚を動かすだけだ。
 気のついた人々が火神と氷室に目を向けたが、注がれるまなざしがつないだ手ではなく胸元に掲げたそろいの指輪であることに、ふたりが気づくことはない。
「ちょっと、待ってくれ」
 氷室の呼びかけに火神がようやく立ち止まる。氷室は五指を包む火神の手から離れると、あらためてその左手に己の右手を絡めた。ゆるんだ弟の指の間に、あまえるように指をはさめて。
 そうして、隙間をなくしてしまうように、ぴったりと埋めてしまう。氷室はいますぐにでも、弟の肩口に鼻先を押しつけてしまいたかった。
「こんな、こと……参ったな、まるで」
「恋人みたい?」
 火神から与えられたひとことで、目の前が熱くぼやけた。氷室は下唇に歯を立て、どうにかして収まりをつけようとする。いけない。こんなことでは、とても彼とはやっていけない。自分を抑えなくてはいけない、のに。
 氷室は血を吐くように、胸に溜まった思いを声に乗せた。氷室を慕ってくれる火神には、弟には、どうしても見せたくなかった弱い姿を。
「お前と一緒にいることで、浮かれたくないんだ。いつも通りの自分でいたい。お前から与えられた新しい関係にまた馬鹿みたいに舞い上がって、お前を傷つけたくない」
 自分からつないだ指先に、力が籠もる。
「あんなことは二度と御免だ」
「それなら俺はずっと思い上がってる。だってタツヤが俺に、全部与えてくれたんだから」
 火神の指が氷室の左に垂れた前髪を静かに撫でていく。こまかな髪がぱらぱらと打つのにまじって彼の湿った指先が額をかすめていくのに、息がつまりそうになる。
 弟の指はほてって、湿り気を帯びている。彼もまた氷室と同じように、戸惑いと不安に揺れていた。
 氷室に応えるように、火神がつないだ左手に力を込める。
「恋人になろうが、じいちゃんになろうが、俺とタツヤは変わらない。そうやってずっと思い上がっていたい」
 タツヤは、どう? そう言いたげにこちらを伺うやわらかな紅のまなざしに、抑えていたはずの感情が涙となってあふれていく。それでも決して表に出すことはしないで、氷室は己の気持ちを声に出した。迷いのない、まっすぐな自分の願いを。
「おれ、は。……俺も、そうありたい。お前となら、そうしていきたい」
 火神がつないだ手にきゅっと、力を込める。彼のするそれはまるで氷室の奏でる鼓動のようで、氷室は熱に浮かされたようにくちびるを開いた。周りなどどうでもいい。いますぐここで。
 弟が熱に潤んだ瞳を照れたように細めて、氷室に訊いた。
「恋人っぽいこと、していい……?」
「奇遇だな。俺も同じことを考えていた」
 ふたりの視界がゆっくりと閉ざされていく。
 熱い目蓋の内側でこしらえたふたりだけの暗闇で、彼らはすぐに互いのくちびるを見つけた。 






ワンドロ一周年おめでとうございます!
タイトルはサンタナインさまから(2016/10/24)

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