ケージには鍵をかけて
青峰に人権がない
掌が汗ばんでいる。ない交ぜになった期待と不安が大我のちいさな左胸をひっきりなしに動かしていた。うまくいく、きっとうまくいく。大我は呪文のように祈りながら、高揚する身体で籠を押した。
備品室から拝借してきた洗濯籠は、八歳になったばかりの己の背丈よりもまだ大きい。首を上げても見えるのは籠の編み目ばかりだ。大我は籠でできた影にすっぽり入って、空のくせに重い籠を両手で押し続けた。左胸がずっとばくばく音を立ててはしゃいでいるのは、八歳の手には余る籠を押し続けたからではないはず。前は見えないけれど、籠の向こうには大我と同じように籠を押している兄の姿があるはずだった。自分の押す籠が立てる、廊下を滑る車輪の音にかぶさって、籠を動かす同じ音が聞こえてくるのはそれだけで何だか心強かった。
ふっと辺りが薄暗くなって、がらんとした洗濯室にたどり着く。扉で隔てられていたわけではないのにそこの空気を吸うと、なんだか埃っぽい気がした。
どの洗濯物もすっかり干されている昼過ぎに、洗濯機とにらめっこしている大人は誰もいないようだった。兄が予想した通りの事態に、喜びで胸がふくらむ。誇らしい気持ちが指先まで駈けていって、籠を押す手にも力がこもった。
大我がめったに来ないその部屋は明かりが落とされていたが、窓から陽が差し込んでくるので困ることはなかった。黄色い午後の日差しのなかで塵や埃が舞っていると、誰もいない部屋という思いを一層強くする。
前を行く兄は何も言わない。このまま進むということなのだろう。歩みを止めないままちらと横を見やれば、今日の勤めを終えた洗濯機の群れが並んでいた。
外に広がるはずの馴染みのある景色を思い浮かべながら、頭にピンで留めた家の見取り図を確かめる。このまままっすぐに進めば通用口のはずだ。大我はどうか家の外に、腕を組んで仁王立ちした影の薄いあの世話係がいませんようにと願わずにはいられなかった。
ぱっ、と。眩むようなまばゆさに頭から包まれる。車輪ががたがたと揺れて、砂利を噛んだ。両手を離す。籠から離れて、空に顔を上げた。
(きれい。)
片手で目のあたりを覆いながら、午後の日差しをまぶしく思う。いつもなら部屋で授業を受けている時間だ。狩りや乗馬のために外に出ることもあるが、こうしてぼうっと空を見上げる暇を与えられることはない。大人に、常に余裕をもって優雅たれとしつこいくらいに言われている。大我にしてみれば空を眺めること自体、余裕がなければできないことではないかと思うのだけど、大人が口にする『余裕』とやらは大我の言い分には当てはまらないらしい。兄は決まって、品格の問題だと大我をたしなめるのだけど。
庭とはいえ外に出るのだから、空を見るくらい好きにさせてくれればいいのに。知識としてであれば大我は空を知っていたが、この目でじっくりと見ることができるのは四角く区切られた窓を通すだけ。この地球上で何の制約も課されず区切られることもなく、ひとつのものとして広がっているはずなのに、それはまるで時間によって色が変わる絵画のように小さく収まっていた。
大人にあれこれ言われることなく、ひとりで飽きるまで空を見ていたい。それまで何年待てばいいのかわからなかったが、いつかきっと叶えてみせると大我は心に強く思っていた。そしてこのことだけは、大我も兄には話さなかった。大我は兄にだけはどんなことでも話したのだけど。なぜか周りは大我と兄のそうした様を、どこからか拾ってきた棒きれを主人の下へ喜んで咥えていく犬のようなどと嘘くさい慈愛のまなざしを以てからかった。
大我はそんなことを言うやつらが大嫌いだった。そして、家の外にはそうした輩ばかりだった。もちろん家の中にも。
「タイガ」
弾かれたように顔を向けると、兄は籠を片付けたところだった。大我もまた思い出して放ったままの籠を兄と同じように壁のそばに置く。そばにはふたりが持ち出した籠と同じ物がいくつも並んでいた。均等に刈り取られた芝の上には幾つもの物干し竿が並び、白いシーツが風に吹かれてはためいていた。
「これで終わりじゃないんだ、見つかる前にはやく行こう」
「うん!」
兄から差し伸べられた左手を当たり前のように右手で取る。互いの手が握り合っていることを掌で理解すると、兄は歩き始めた。言葉に反して兄の歩みは早くない。大我がついてこられるだけの速度で進んでいる。
広げられた洗濯物の影に隠れるように、物干し竿の合間を通る。広大な家の裏手を過ぎて、庭に向かった。手入れされて同じ頭を並べる生け垣。迷路状になっているそこへ挑むことなく通り過ぎると、林の中へ入っていった。山の管理を任されている小屋の管理人くらいしか見て回らないそこは、外と家との境界線のようなところだ。
普段着で林の中を抜けるのはほんのすこし骨が折れるが、こうでもしないとふたりきりで家の外へ出られない。大人に外へ行きたいと言えば身支度を調えさせられて息苦しいまま、ふたりにとってふさわしいとされる場所に車で送り出される。そこへ着いてもふたりの側から大人が離れることはない。要するに兄と大我はまだふたりだけでの行動を認められていないのだ。だからわざわざこうして課せられた様々な決まり事を破りに破って抜け出している。街に行くのは楽しいし、こうしろああしろと急かす大人たちの目をかいくぐって家を抜け出すのは大好きだ。その代わり勝手に家の外へ出たことは、必ずばれてしまうのだけど。
兄がさほど苦労しない道を辿って進んでいく。大我が足をくじかないように、八歳の子供でも抜けることのできる山道を兄は用意していた。幾度かの試みのうち、ちょうど良い道を見つけると、忘れないよう兄はその都度いくつもの目印を立てた。それは兄と大我にしかわからないものだ。
ひとつしか年の違わない兄弟の首には、それぞれ鎖に通された指輪がペンダントトップのようにぶら下がっている。それはふたりの母親がそれぞれの父親からもらった指輪。母はふたりを生むと己の指にはめることなくふたつの指輪をふたりに与えたのだった。ふたりの指にはまだ大きすぎる、飾り気のない銀の指輪はまるで示し合わせたようにそっくりだった。
梢のカーテンが次第に薄くなっていくと、とうとう舗装された道路が姿を現わした。辺りは一面の野原となっていて、緑の色紙を引き裂くように拵えられた一本の道がどこまでも続いている。
後ろを振り返る。昼でも薄暗い木々の間から誰も追いかけていないことを確認して、大我は兄に問いかけた。勾配のある道を歩き続けたせいで息が弾んでいる。
「うまくいった?」
「うん。誰も気づいてないみたいだ」
兄は林を振り返ることなく弟を勇気づける。存分に身体を動かしたせいもあってか、清々しい気分でいっぱいになった。胸の奥まで思い切り空気を吸って、ぎゅっと両の拳を振り上げる。身体があつくて、汗が額から頬をつぅと流れていった。
「やった! 当分このやり方で抜け出そうぜ。まさかみんなも、俺たちが洗濯物のカゴにくっついて外に出るなんて思ってないよ。俺たちが家にいないって気付いたら、まず抜け穴を探すもん。あんなに堂々と外に出たの、はじめてだ!」
「洗濯部屋から物干し場までは監視カメラの死角が多いんだ。籠に隠れようなんて思いついたのは、タイガが段ボールをかぶってくれたおかげだよ」
思い出したくもないことを指摘されて、言葉に詰まる。う、あ、と声に出してたじろぎながら、大我は体をちぢこませた。
逆さにした段ボールに隠れて数々の死地を潜り抜けた、伝説の工作員。そうした人間がいたのだと世話係から聞いたのが始まりだった。色素も瞳の色も薄く、黒をどこまでも落としていったようなうす灰色の男、ふたりの世話係は何の感情も浮かべないまま、淡々と喋った。
身近な容れ物がまさか身を隠すものになるとは。ひどく驚きながらも使えると思った大我は、渋る兄を説得して家を抜け出す道具に使った。その結果は兄の予想通り散々なものだった。なにせ抜け出そうと試みた今までの中で、最も早く見つかってしまったのだから。仏頂面を努めようとして堪えきれず笑みが漏れている件の世話係、黛千尋によって。
「……だって、あのときは名案だと思ったんだ。千尋が一世紀前に使われた有効な手だって言うから」
「タイガは千尋にからかわれてばかりだなあ。でも、今回ばかりは千尋の教えたことが裏目に出たね。ちゃんと抜けられた」
「ほんとだ。千尋、きっと今頃あせってるぜ。俺たちがいなくなって一番こまるの、あいつだもんな」
示し合わせたように、笑みを寄せる。共通の敵を負かしてやった、という喜びがふたりの胸を弾ませた。
ぴぃと兄が指笛を吹く。林を抜けてきたばかりだ、このままここでゆっくりひなたぼっこでもしていたいけれど、そうもいかないのだろう。大我は、兄の指笛に呼ばれて住まいである緑の影から複雑な脚をてこてこと波打たせてやってくる、いつもの姿を待った。
梢や芝を物音ひとつ立てずに踏み分けてくる多足歩行型の自動椅子が林の奥から駈けてきた。家の私有地である林の中に放してある、兄専用の乗り物だ。街へ行くには、これがなければ始まらない。
兄弟の前で八つの脚が乱れることなくぴたりと止まる。椅子が礼儀正しく頭を下げた。辰也がその首筋を撫でてやる。大我もまた、兄に導かれるようにその背を撫でた。
最初、大我は不思議でならなかった。なぜ兄は、道具に動物を相手にでもするように構うのかと。大我の問いに兄はやさしい瞳で、乗り手の感謝の気持ちだから、と答えた。
これがないと僕らは街にも、家に戻るのにも一苦労だ。世話になっているんだから、ちゃんとありがとうって伝えてあげないと。ずっと昔の人は、乗り物にこうして愛情を注いでいたんだって。家族として、一緒に暮らしていたらしいよ。
紫原みたいに? 大我がシーツにくるまりながら尋ねると、兄はそうだと頷いた。
敦とは根っこの部分が違うけどね。それに、物にはいつか魂が宿るっていうよ。だから、今日みたいに僕らがあれを大切に扱うことは、きっと大事なことだと思うんだ。あれも敦と同じ、元を辿れば動物だからね。
『紫原』『敦』と大我と兄であの動物の呼び方は異なるものの、どちらも赤司が飼っているいきもののことを指している。大我はペットの同伴を許されたパーティで、飼い主の膝にもたれ掛かってお菓子を食べさせてもらっている、ぬいぐるみのような紫の姿をしばしば目にした。赤司は大我と同い年だというのに一匹のペットの飼い主で、それも飼育が大変な大型の動物を飼っているのだった。大我もいつか自分だけの動物がほしいと思ってはいるのだけど、母が許す気配はない。大我の性格ではまだ動物を飼うことはできないと、使用人たちにも言い留められている。
もうすぐ九歳の誕生日を迎える兄は、ペットを飼ってもいいと許可を与えられていた。たったひとつしか年が離れていないのに、兄には良くて大我には駄目であることを、大我が不満に思ったことはない。兄がすることはなんだってすごくて、いつだって賢くて、自分よりとても優れている。だから、大我よりも多くのことを許されている兄のことを嫉みも恨みもしなかった。そういうものだと思っていたから。それに、兄は大人から与えられた数々の特権を大我のために使ってくれるのだから、むしろ大我は兄が誇らしかった。
動物を飼っていいのに、兄はいつまでも血の通った生き物に首輪をつけようとしない。兄は動物に対してあまり興味を抱いていないようで、それが大我には不思議だった。どうして飼わないのかと尋ねれば、兄は微笑みを浮かべてこう言うのだった。
僕にはタイガがいるからね。
兄に続いて、血の通った座席に乗り上げる。ふかふかの毛が歩き疲れた大我の腰や足をふんわりと包んだ。思わず、ふうと息をつく。
稼働のためにぴんと伸びた道具の首筋を撫でながら、兄が行き先を伝えた。
「時速四〇キロメートルほどで街まで。跳ばなくていいから安全運転だよ」
硬い針のような脚が動き出す。まるで宙に浮いているかのようになだらかな震動のみを乗り手に伝え、風景が滑り出した。緑の原っぱが彼方へ遠ざかっていく。
大我は車よりもずっとこの椅子の方が好きだった。外の景色を楽しみながらいっぱいに風を受けると、まるで自分がこの乗り物になったかのような気分になる。疲れを知らない道具になって、どこまでも行けてしまえそうな、そうしたある種の開放感。
汗をかいた短い髪が風に吹かれて心地よかった。兄の髪は風を孕んで流れている。ふと大我は兄の頬に触れようと手を伸ばした。だがそこに声をかけるにしては自分でも訳のわからない恐れが宿っているのを感じて、伸ばした手を座席に下ろした。触れたところで兄はくすぐったく笑うだけだろう。恐れることなど何もないはずなのに、なぜか大我は兄に、兄の頬に、触れることができなかった。
行き場を失った指先がやわらかな毛に埋もれる。目の前は濃緑の景色が過ぎていくばかりだ。大我は気持ちを切り替えるために、わざといじけたように漏らした。
「なんで外に出ちゃいけないんだろう。こんなに楽しいのに」
「外には行けるよ。その代わりあの窮屈な車で、頭から足までがっちがちに固められて、めんどくさいパーティに出るんだったら」
パーティ、という単語に大我は顔をしかめた。同じ外に出るのでもパーティは大の苦手だ。
「げえ。俺たちの気持ちをわかってくれるのはアレックスぐらいだ。アレックスと一緒だったら、パーティも楽しくなるのに」
「いつもいつもアレックスがあの場所に来るとは限らないから。それに、アレックスだってほかの大人たちと話していて僕らにばかり構ってくれはしないだろう?」
「うー……家のなかで勉強するのも嫌だけど、パーティにいくのもやだ!」
「むくれない。後見人がいらないくらい大人になったら、僕らだって自由に街に出られるよ。それまでの辛抱だ」
「それっていつ?」
前を向いたままの兄が黙った。どうやら考え事をしているらしい。わずかな沈黙を挟んで、兄が口を開いたことに。
「僕らが社会的に必要だと認められたとき……って武田先生は言っていたね。早くても十年くらいかかりそう」
「じゅうねん……武田せんせい、もっとぷるぷるになってそうだな!」
「そうだね。スプーンでつついたゼリーみたいにぷるぷるしてそう」
年齢不詳の家庭教師の姿を思い出しながら、ふたりで笑った。杖をついて歩く、口数の少ない老いた教師は、ふたりのやんちゃを開けているのか閉じているのかわからない瞳で見守ってくれている。家の大人たちと違う、誰よりもしわしわな手で頭を撫でられるのが大我は大好きだった。
おとながみんな武田せんせいだったらいいのに。そうしたら家の中も、あのつまらないパーティも、居心地のいいものになるような気がした。
世界は大我を縛り付けるものばかりで溢れている。大我を抑えつけようとする大人たちから逃げだそうと手を伸ばしてくれるのは兄だけだ。それでも兄もこのごろは、大我ばかりに構ってはいられなくなったようで。
人付き合いがあまり得意ではない大我は、パーティに行かされると必ず兄の後ろにくっついた。兄はふたりに話しかけてくる大人たちやふたりと同じように連れてこられた子供たちを上手くあしらう。だから大我は安心して兄の背に従っていたのだけど。
この間のパーティで、大我は兄を探していた。ちょうど二十皿めになるパイ包みのシチューをコックからもらいに行こうとほんのちょっと離れた途端、兄は煙のように消えてしまったのだ。狐色のパイが照り輝くあつあつのシチューを側のテーブルに放って、大我は兄を探し続けた。奥まった庭の端でようやく見つけた兄は、知らない誰かと楽しそうに話をしていた。
兄と同じ髪の色をした、似たような背格好の子供。年は大我よりも上だろうか、なんだか意地の悪そうな顔をしていた。兄は追いかけてきた大我に気付いて大我と彼を紹介してくれたのだけど、きちんと名前を覚えていない。
確か兄は彼をシュウと呼んでいた。彼はいつの間に兄と仲良くなったのだろう。兄が大我と離れることなどほとんどなかったというのに。
「街についたらどこに寄る?」
兄の黒に近い灰色がかった瞳に見つめられて、大我は我に返った。兄は大我の返事を待っている。大我は一瞬、答えにためらった。素直に行きたいところを言えばいいのだが、どうしてだかそんな気持ちになれない。
シュウとかいう子供のことはあれ以降まともに兄に聞いたことはない。聞くのがこわいのだ。兄が大我以外の誰かを親しげに語る姿など見たくない。大我は兄に、大我以外の誰かと仲良くしてほしくなかった。アレックスや武田ならばいいのだ。年が離れているし、彼らは兄だけではなく大我のことも好いていて、大我もまた彼らのことを好いているから。
兄には、自分の知らない誰かと親しくしてほしくない。大我は兄なしではいられないのに、どうして兄はわかってくれないのだろう。
直接ぶつけることのできないわだかまりは苦く胸に広がったままで、こうしてときどき大我の喉を握りつぶす。決まって大我は何も言えなくなってしまうのだけど、今そうなるわけにはいかなかった。家を抜け出した喜びに心を弾ませている兄が、大我の返事を待っているのだ。過ぎ去ったはずの思い出に振り回されてつまらないことを考えたところで、何かが変わるわけではない。思い悩むくらいならば楽しまなくては。煩わしいことがすべて立ち消え、ここには兄と大我しかいない。他の誰が何をしようと、いまここにはふたりしかいないのだ。兄が大我の返事を求めているのなら、大我はそれに応えなくては。兄が喜ぶ、とびきりの返事を。
気持ちを切り替えると、腹の虫は正直にも街という単語に反応した。すぐ隣に座っている兄にも聞こえる程の大きさにかあっと頬が照り、恥ずかしくなったが大我は安堵した。これで上出来だ。おなかが減っているのは確かだし、行きたいところもあるけれど、自分のこの反応は兄を喜ばせる。大我はやっと心から落ち着いて、勢いよく返事をすることができた。おずおずと甘えを口にすることも忘れずに。
「カゲトラさんのとこ! その前に、キャンディ食べたいな……」
大我から何を感じ取ったのか、兄は細めた右目のまなじりを下げた。まるで庇護すべき対象を見つけたかのように。それから、わかっているとばかりに大我に向けて小さく笑みを漏らした。
「ハンバーガーもだろう? 街に着いたら、まず腹ごしらえしようか」