もういいから俺を巻き込まないで



「やめだ、今日はここまで! 整列! 二年もたついてんじゃねえよ、とっとと走れ! スケジュール通り明日もここで練習、変更があれば部長から伝える。一年は清掃、二年誰か監督しろよ。自主練したい奴は清掃後、体育館の鍵を戻すように。質問は? ないな、解散!」
「ありがとうございました!」

 竹刀の切っ先を床に向け、ジャージの襟を立てた監督に整列した背中が、ぱたぱたと折れていった。一拍子遅れて下げた頭の、結んだ髪の先がつむじまで垂れている。散らすに任せた前髪が顔のあちこちにかかって煩わしい。顔を上げれば重力に従って元の位置に戻った髪の毛、目の前に広がるのは汗染みの浮いたシャツを着た不揃いな頭、それからポニーテールに髪を結った男勝りな監督。中学以上に凝り固まった体育系の指導に慣れることはない。それでも、ここで過ごしてもう一年以上過ぎていた。半年もしないうちに二年が終わる。そうして最後の年だ。
 器具の片付けと床の始末に散る一年生の背中を見ながら紫原は髪留めを外した。輪に戻ったゴムをポケットに入れる。賑々しいシャツの群れに紛れている氷室を見つけ出し、視界に留めた。練習が終わった途端、火が消えたように覇気がない。氷室はシャツの裾をひっぱって、横着に額の汗を拭いていた。

「室ちん残る?」
「そうだな。考えるよ」

 歩みを進めた紫原にむりやり人好きのする態度を作って、すぐに会話を打ち切る。二つ返事をするどころか、望んでもいないのに自主練習に付き合わせてきたいつもの氷室の姿はない。この頃の彼は自分から他人に接しようとせず、どこか人との付き合いを避けている節がある。
 氷室の態度に心の中で毒づいた。冬が深みを増してからというもの、氷室はのけものを演じるように暗く、物憂い。部活の時だけは紫原の知るいつもの氷室の姿だが、ひとたび練習が終われば終わらない思案に耽るように沈んだ。
 ウインターカップが終わってしまったからだろうか。今年もまた優勝には届かなかった。最高学年として彼なりに責任を感じているのかもしれないが、もう一月も半ばだ。新しい年を迎え、正月気分も終わった。皆の切り替えはできている。彼にいつまでも引きずられてはこちらもやりにくい。
 気がつけば氷室は、目的もなく遠くを見つめることが多くなった。口数少なく、ときおりため息をついては涙ぐむ手前のように瞳を濡らした。ゆるやかな、しかし日を追うにつれて孤独を深めていく氷室の姿に、不安を感じた周囲は彼の身を案じたが、返ってくるのは決まりきった定型句ばかり。
 大丈夫。何でもない。気にさせてすまない。
 部活に向かう姿勢だけは変わらないので、部員はどう接していいものか戸惑っていた。感情を抑え、自分を律している人間ほど隙を見せないものだ。ただでさえ昨年は歯に布着せない言動で部を掻き乱した紫原で手を焼いている。それに比べれば卒業を控えた氷室のらしくない様子は、まだセンチメンタルゆえのものだと考えることもできた。
 訳も知らない他人が下手につついて悪化させるよりは、彼の抱える問題の解決を待った方が良いのでは。監督が氷室の変化を気に留めなかったことが、歯止めをかけ損ねた原因のひとつでもある。
 部員が氷室の変化に気付き始めた頃から並行して、氷室の奇行が始まった。
 林檎を赤い皮の残したウサギの形に切ればいつまでも食べないまま涙ぐみ、何も表示していない明かりを落としたスマートフォンの画面を無言で眺め、ノートやホワイトボードの余白に得体のしれない記号を残す。自らを語らない氷室のせいで奇妙としか言いようのない行動には尾ひれのついた噂が広まり、二月のイベントを控えていることもあって最近の氷室の女子人気は過去最高だった。
 女子生徒いわく、彼の沈んだ姿は恋煩いゆえのもの、彼の言動、特にあちこちに書き残していく判読不可能な記号は彼の恋を成就させるためのまじないである。
 ミステリアスでクールでアンニュイな氷室くん(先輩)すてき! 彼に思われている相手を殺してやりたいほど妬ましいけど彼が物思いに沈む姿はたまらない! 女子生徒の告白を耳にしてしまった劉はそれから女性不審で苦しむこととなった。
 ファンから手渡されたのか、ウインターカップで遠征していた頃から私物としてあらわれた不細工な赤い毛玉を一昨日はとうとう部屋の外へ持ちだし、氷室はクマのぬいぐるみのように抱きしめては鼻を啜った。氷室の弁によればその毛玉はひよこらしいのだが、それにしても生意気で不細工で眉がふたつに割れていて紫原を始めとした部員は好ましく思っていない。都内にある某高校の宿敵を連想させるからだ。氷室ときたらその毛玉を持ち歩いては自室のベッドですべき事をわざわざ談話室でやるものだから、寮生の困惑と懸念は一斉に部員へ向けられた。寮生は氷室に弱みでも握られているのか、氷室絡みの事柄はすべて部員へ押しつけてくる。
 氷室は入部した当初と変わらず菓子をくれるし遅刻しそうなときは起こしに来てくれるし部活前にはわざわざ教室まで迎えに来てくれるので、氷室の挙動がおかしくなったところで紫原の生活に支障はない。だが、手の打ちようのない周囲に、「よくひっついてるだろお前」「日ごろ氷室の世話になっているのだから恩返ししろ」などと言いがかりをつけられ、このたび氷室を周囲が困らない程度に元に戻す大役を仰せ仕った。氷室の挙動がおかしくなったところで紫原の生活に支障はないものの、一年とすこしの間あちらから押しつけられた傍迷惑な態度がぽっかりと抜け落ちると調子が狂う。覇気のない氷室は妙にきもちがわるいし。
 あと三ケ月もしないうちに卒業でこの学校からきれいさっぱりいなくなり、彼のいない風景こそが日常になるのだと理解していても、紫原の知っている氷室が影をひそめるのは落ち着かなかった。
 指定のセーターとブレザーを着込んだ上にマフラーを巻いて外に出るという、冬の北国を舐めた格好で氷室は雪あそびをしていた。体育館の裏手の誰も足跡を残していないやわらかな新雪の積もった小山に、どこから見つけてきたのか木の枝で絵を描いている。それはまじないと囁かれる件の記号だった。周囲に誰もいないと思っているのだろう、彼は校舎にいるよりもずっとのびのびと振る舞っていた。
 動物の足跡のようにも、無地の壁を埋める偏執的な壁紙の模様のようにも思える記号は、雪の小山一面に描かれている。角を向けた不等号の下にそれぞれ点が置かれ、逆さ三角が描かれているように見えるそれが何を示すのか、紫原にはわからない。絵のようにも見えるし、ひとかたまりで字のようにも見える。超常現象同好会から、異次元に存在する同志へのメッセージとも、UFOを呼ぶための目印とも、はたまたこの地に棲まう土地神への奉仕へのしるしとも注目されているが本人はどこ吹く風だ。
 紫原は見慣れた背中に声をかけた。手袋をしない裸の手は赤くかじかんでいて、見ている方が冷たかった。

「なにしてんのー」
「やあアツシ。今日も寒いな。そのへんにチューペットを突き刺したらすぐに凍りそうだ」
「そうねーそれはおいしそうねー。あのさー俺はべつにどうでもいいんだけどさー、それなに」

 まなざしで示せば、見せたくないものを見つけられた子供のように、氷室は枝で描いたばかりの記号を散らした。紫原に向けた鼻の先が赤くなっている。吐きだした息は白い。

「なんでもないよ」
「なんかあるじゃん。オムライスでたときもケチャップでそれ書いたし家庭科の授業で作ったアップルパイにもそれで飾り付けて周囲をどん引きさせたらしいじゃん。俺うじうじしてるあんた嫌いだからちゃんと言って。それなに」

 氷室は手にした枝を落ち着きなく握りしめたり指先でなぞったりしている。うつむきがちな顔から漏れる白い息を紫原は見つめていた。耳当てもしていないのに寒くないのだろうか。紫原は氷室が身に着けていないものすべてを着込んでいたが、廊下で過ごすのと大差ない姿の氷室を見ていると自分の身体も同じように凍えていくような気がした。
 このひとが喋れなくなったときは、本音が出かかっているときだと知っている。彼の鼻から漏れる白いけむりが幾度となく形を変えて空に消えていくのを見守りながら、紫原は待った。そうして。

「……たいが」

 ようやく表に出した不明瞭な切れ端を、紫原はつなげようとした。

「鯛がどしたの」
「しばらく、会ってない」
「そりゃあ腐っても高級魚だから簡単に食卓に上がるわけないし。なに、そんなことで悩んでたの?」
「そんなことじゃない……!」

 ただでさえ凍えた指先が、枝を強く握りすぎたせいで白くなっていた。彼を気遣うための台詞を用意しなければならないとわかっている。だが、彼を悩ませる原因が魚とわかって、張り詰めていた紫原の気苦労は泥のように崩れた。氷室に対する口調が苛立ちを含んできつくなる。
 確かに鯛はおいしい。鯛の煮付けも鯛飯も刺身もめったに食べられないものだし、尾頭付きは目出度くて立派だ。値も張るのでまず寮生活で口に運ぶことはない。正月か宴会か、はたまた結婚式か。どちらにしろ高校生の身でありつけるものではなかった。だからといって、機嫌を損ねる理由にはならない。

「室ちんにとっては大切なことかもしれないけど、室ちん以外にはどうでもいいじゃんそんなこと。まわり巻き込むのほんとやめて。お金貯めて自分でどうにかすれば済むし」
「でも、俺は……。あいつ、電話に出ないんだ。いくらかけても通じなくて、メールを送っても返事がなくて。俺が嫌になったのならそれでいい。だが、直接会って確かめようにも時間がない」
「めんどくさいなー。そんなに必要なら誰かに頼むなりすれば? 会ってみたところで話ができるわけないけどね。室ちんと鯛が同じだとでも思ってんの?」
「……っ、アツシにはわからないさ」
「室ちんの事情とかしらないもん。あーやだやだめんどくさーい。さっさとさあ、解決すれば。室ちんだったら融通きかせてもらうくらいできるでしょ、食堂のおばちゃんとかさあ……」

 投げやりに言い捨てれば、遠い地平線から地鳴りのような轟と共に、何かがこちらへ向かってきていることに気がついた。一糸乱れぬ足取りでばたばたと雪を駆け、黒い影の輪郭が徐々に姿を現していく。雪原を踏み散らし、人の手の入っていない新雪の山道を駆けてくるのが六頭の大型犬だとわかった頃には、橇に乗った火神が氷室に手を振っていた。シベリアでも通用しそうな毛皮の帽子をかぶり、鼻の頭を赤くしている。

「タツヤ!」
「タイガ……! どうして……」

 予告のない来訪に驚く氷室の前で橇が止まった。火神は犬たちを宥め、これまでの旅路を褒めてやると、手綱を離して橇から降りる。
 火神は羆の皮を剥いで拵えたような分厚いコートを脱ぎ、氷室に掛けた。氷室は初めて己の手の冷たさに気がついたように、コートに指を埋める。火神が喋るたびに白い息がもうもうと上がった。

「休みだから来た。ケータイ爆発してメモリぜんぶ吹っ飛んで連絡取れなかった。タツヤ、いままで、ごめん」
「お前、犬は……平気になったのか?」

 姿を見ただけでちぢこまり、吠えられれば怖がり、追いかけられれば全力で逃げてきた動物に対し、目の前の火神は別人のように穏やかだ。ましてや移動手段として犬と信頼関係を築くなど、火神にできることではない。氷室が気遣えば、火神はどこに隠していたのかと思うほど、温かく微笑んだ。それは氷室の張り詰めていた不安を春の雪解けのように溶かしていく。

「タツヤで頭いっぱいで、恐がる余裕なかった」

 氷室は思わず目の前の弟に抱きついていた。袖を通していたコート越しに、弟の身体をひしと囲う。コートから移った獣のにおいを嗅ぎながら、火神の胸に恨み言を吐いた。

「もっと早く連絡寄越せ、バカっ……郵便とか伝書鳩とか方法あるだろ……」
「わり、ひよこから育てたけど、あいつら空飛べなくて」
「俺が……嫌いになったんじゃ、なかったんだな」
「あるわけねーよ、そんなこと」

 厚い胸から顔を離し、泣くまいとして零さずにいる瞳で弟を見上げる。弟は何も変わっていなかった。犬への苦手意識を氷室への愛で払拭しただけで。氷室は火神に提案した。弟が秋田の地を踏むのはこれが初めてだ。ようやく顔を合わせて誤解を解いたのに、これでさようならではふたりとも納得しないだろう。
 犬たちが舌を出して荒く呼吸をしながら、主とその兄を囃し立てている。一頭がアンと吠えた。

「お前に秋田を案内したい。ついてきてくれるか?」
「タツヤの行きたいところなら、いくらでも付き合うぜ」

 氷室はつまさき立ちをして間合いを詰めると、不意打ちのようにキスをした。主とその兄の熱い間柄にいよいよ犬たちは騒ぎ出す。紫原は氷室が投げ捨てた枝が雪道に転がっているのを眺めた。

「紫原、差し入れ。タツヤが世話になったな」

 火神が大振りの立派な鯛の尾を掴んで紫原に差し出した。受け取らないでいると火神の手の内でびくんと鯛が跳ねる。魚の心得のない紫原は手袋を脱いで、どうにかして尾頭付きを両手で抱えた。まだ生きている鯛は紫原の手の中でもびくびくと跳ねる。生きのいいことだけは紫原にもわかった。鱗は硬く、体液が染み出しているのかぬめっている。
 火神が橇に戻り、手綱を持つ。火神のコートの裾をぱたぱたと揺らして橇に乗り込むと、氷室は火神の腰に腕を回した。そのとき紫原は、火神の動かしてきた犬橇が二人乗りであることを知った。
 走る準備を整えた犬たちがふたりのこれからを祝福している。氷室は弟が手懐けた犬たちを、肩の向こうからひょっこり覗き込んだ。火神が嫌がるために縁遠かっただけで、もともと氷室は犬や猫や小動物の類を好いている。

「いい犬たちだな、名前は?」
「小野に小野に小野に小野。それから小野と小野。みんな小野だ」

 威勢のよい火神の掛け声で、犬たちが走り出す。兄弟を乗せた犬橇は道なき道を滑るように駆けていった。ぴちぴちと揺れる鯛を抱えた紫原はふたりと六頭の犬がすっかり見えなくなってしまうまで見送り続けた。視界から彼らが消えて、夢から覚めたように頭が働きだす。
 紫原は鯛を食堂へ持っていくことにした。尾頭付きのおめでたい生き物はまだ生きている。鮮度のいい身は締めて刺身にすべきだろう。紫原がどうにかできなくても、食堂にいる誰かが捌くはずだ。氷室は七頭の犬と共に秋田旅行へ出かけてしまったが、戻ってくるころには皆の知る氷室辰也に戻っているに違いない。
 
 後日発行された超常現象同好会の会報誌には、地獄の番犬ケルベロスを呼び寄せる魔方陣として件の記号が紹介された。