そばにいてなんて言えない



「三十八度九分。風邪だな」

 体温計の数値を読み上げる氷室に顔を向けたことで、厚いゴム製の氷枕に満たされた氷水がとぷんと揺れた。額に貼った冷湿布ほどではないが、タオルでくるんだそれは火神の後頭部を徐々に冷やす。
 氷室は火神の脇から取り出した体温計をアルコールを含ませた脱脂綿で拭っている。火神は理不尽ともいえる体調の変化に悪態をついた。咳をしている人間は山ほどいるというのに、前々日前まで健康そのものだった火神に襲い掛からなくともいいと思うのだ。
 火神は板張りのリビングに敷いた客用の大きな敷布団に、ミルフィーユのごとくタオルケットやら掛布団やらをかぶって転がっている。寝床を用意したのは氷室だった。

「くそーなんで俺だけねこむんだ。かぜっぴきいっぱいいただろ……」
「時期だからな。熱が収まるまで二三日そこで大人しくしていろ。インフルエンザやノロウイルスの類じゃなくてよかったじゃないか」
「ターツーヤー」
「心配しなくても今日の夕飯はかつお粥だ。ほら薬」

 ゾンビのようにぬっと掲げた両手をつかんでもらい、上体を起こす。湯のみと薬を渡された。粉薬を飲む時に水を含んでから薬を飲むのか、薬を水で流し込むのか思い出せなくて軽くむせた。昼間から着る寝巻きは自分のものとは思えないほど妙な着心地がする。ぬるめの白湯の入った茶碗を空にして、またずぶずぶと布団に沈む。
 氷室は火神が病人としての支度を整えたと判断したらしく、汗ばむ頬を手の甲でなでた。

「具合は」
「のどいてえ……。からだあちいしだりぃ。あたまぐわぐわする……」
「そうか、寝ろ」

 用は済んだと盛り上がった布団を氷室がぽんぽんとたたく。彼が手を落としたそこはちょうど火神の胃のあたりだった。
 両手で布団の裾をにぎって、席を立つ氷室を見送る。普段寝るときに手はどこへ置いていただろう。ぬるま湯で満たされたポットと、医者から処方された薬の袋をぼうっと眺めた。
 座布団を持ってきた氷室は火神の横に腰を据えると、袋から取り出した銀の棒を動かしはじめる。床に転がした袋から伸びているのはどうみても毛糸で、氷室が手にした棒の先からは編まれた細長い布きれのようなものが垂れている。その色使いに火神は過ぎ去りし七〇年代を思った。冬に大多数が身に着ける色ではない。火神はのどの痛みを堪えて口を開いた。

「なにしてんの」
「見てのとおりマフラーを編んでいる」
「なんで……」
「桃井さんと競争しているんだ。俺が負けたら試行錯誤中の青峰くんとの新しいコンビネーションを見せる、桃井さんが負けたら練習試合を組む。判定を下すのは黒子くんだ」
「それほとんど勝ち負け決まってね……?」
「いいや、俺が勝つ。そして今度こそ俺たちのチームが勝つ」

 手元の銀の棒に注がれる氷室のまなざしは据わっているようにも見え、火神はそれ以上なにかを喋ろうとはしなかった。桃井がマネージャーを務める大学のチームに一点差で逆転されて、ベスト4止まりだったインカレの記憶は、苦々しくも鮮やかに氷室の脳に刻まれているらしい。
 黄瀬が所属する桃井のチームは今期最も優勝に近いチームとして名を馳せていた。事務所に頼み込まれて続けている芸能活動で練習時間が削れてしまうと嘆いていたが、黄瀬の底力は火神の興奮を掻き立てるほど厄介で魅力的だ。もともと選手の層が厚い実力校であったが、黄瀬の加入に桃井の戦略が噛み合い、目覚ましい活躍を遂げている。火神も誰にも負けたくない気持ちはあったが、氷室が黄瀬と桃井に抱くそれは比べものにならないようだ。
 両校のチームメイトもまさか今後の勝敗の行方がある男に捧げるマフラー編みにかかっているとは夢にも思わないだろう。桃井の腕前のほどは知らないが、相手と勝敗条件からして既に氷室はハンデを負っている。おまけにこちらはサイケな毛糸玉。黒子が喜んで首に巻く色だとは金を積まれても言えない。火神は唾ばかり出る癖に一向に改善しない咽を酷使した。トローチかのど飴がほしい。 

「黒子が相手じゃなければタツヤがかつと思うぜ。がんばれ。でもあれだ、もしいちからやりなおすなら毛糸をあおみねに見立ててもらった方がいいぜ」
「そうだな、黒子くんの好みを熟知しているのは確かに彼だ……。聞いてみるのは手だろう。だからお前は寝ていろ」
「ひでえ……」

 のど飴もトローチも取り出すことのない氷室の真っ当すぎる物言いにかすれ声で呻く。暖かく設定されている室温の、寝るには最適な布団のなかで、目を瞑った火神は一刻も早く眠りが訪れるよう努力した。なんとなく掴んでいた布団の裾から手を外し、背伸びをするように両脇に揃える。ねむれない。身体のあちこちで菌と抗体が闘いに励んでいるというのに、火神のまぶたに眠りの砂を投げ入れる妖精は現れなかった。早々に足を崩した氷室は物音らしい音を立てず黒子のための布を拵えている。どれほどの時間が経過したか分からないが、我慢の利かなくなった火神が親の様子を窺うようにそろそろと目蓋を開ければ、まさに氷室はリモコンでテレビをつけたところだった。
 すぐに消音にされ、また流れた番組もちょうど無音であったから火神の鼓膜を苛むことはなかったが、ぱっちりと開けた目にはファミリータイプの大画面いっぱいに襲い掛かる幽霊の姿が鮮明に映された。暗闇にぼうっと浮かび上がる白いワンピースを身に着けた血だらけの女性らしき人影が、髪を振り乱して掴みかからんと手を伸ばしている。火神は布団でびくんと身体を震わせた。身体に掛けた毛布やらなにやらが大きく波打つ。

「ひぇあぁ!?」
「いいリアクションだな。目が覚めたのか? すこし熱が下がったのならいいんだが」
「たったたったつたつやかえてはやく!」
「あ。悪いわるい、うっかりしていた。お前苦手だったなこういうの……。へえ、恐怖心霊動画専門チャンネルなんてあるんだ」

 悪びれた様子もなく氷室がぽちりと指を埋めて電源を切る。ヒロインを祟っていた幽霊は暗闇の向こうへ消え、火神はようやくまともに息を吸うことができる。どっと噴き出した汗が身体中を覆っていた。心臓は左胸で騒ぐままだ。火神は布団の端をきゅっと握って目を見開いていた。もしかしたらあまりの恐さに白目が充血しているかもしれない。

「しぬ、かとおもった……どこに需要があんだよ、こええよ……」
「結構たのしいぞ。CGが粗い。カメラの振り方が同じ。出てくる投稿者が劇団員」
「やめろよほんと……病人にみせるもんじゃねえ……」
「身体がよくなったら見ような」
「やだよ」

 眉間に皺を寄せて怒気をあらわに反対すれば、氷室は穏やかに火神の汗ばんだ額をタオルで拭う。水を飲むかと問われて、うなずいた。身体を起こして白湯を貰う。すこしばかり目を閉じていただけと思ったら、窓の外は薄暗い橙に染まっていた。もしかしたら火神の気のつかない間に眠っていたのかもしれない。ずっと起きていたと思っていたことこそが夢なのやも。
 氷室は夕暮れのなかで変わらず棒を動かしていた。こころもち布切れが長くなっているような気がする。火神が目を閉じている間、氷室はこうして棒を動かし続けていたのだろう。寝付いた火神の横で、火神の寝息を聞きながら。
 部屋はガラス窓の向こうで走る車の音しか聞こえなかった。眠る努力を放った火神は、同じ動きを繰り返す氷室の指先とその表情を眺めた。喉はまだ痛む。

「たつやは」
「何だ」
「がっこだいじょうぶなのか。授業あるだろ」
「ノートを見せてもらうし、ひとつやふたつ休んだくらいで単位は落ちない。お前が気にすることじゃないよ」
「ぶかつ……」
「二日三日休んだくらいで調子を崩す、軟なやり方はしていない。いいからお前は黙って寝ろ」

 登校途中で歩いていられなくなった火神が携帯電話で呼び出したのが氷室だった。火神のチームメイトである紫原に状況を説明し諸々の連絡を頼むと、氷室は火神を連れて病院へ向かった。気心の知れた幼馴染ではあるが、他校の生徒の予定を潰してしまったことに火神の良心が痛んでいる。
 火神は今年二十歳になる。氷室は二十一歳だ。誰かを巻き込むことなく自分の身体を休めることは十四の頃からできた。どうして今日に限って氷室を呼び出してしまったのだろう。
 氷室が編み針から目を離した。指の動きも止まっている。

「そうだ、合鍵借りていいか? いちいちインターフォンに出るの辛いだろう」

 氷室は言葉通り、すくなくとも二三日は火神の様子を見に来るつもりらしい。そのための合鍵だ。火神は喉元で渦を巻いている泣き言と本音をどうにかして押し込めようとした。

「……電子レンジのよこ」
「ありがとう、助かるよ。なあタイガ、俺この近くに」
「そういうの、いい。タツヤのがっこ遠いだろ、へんな気つかわなくていい」
「乗換場所が変わるだけなんだけどな」
「いいから。……ごめん、俺寝る」

 そうして氷室の姿が視界から消えるように寝返りを打つ。口を噤まなくてはいけないと思った。のどが痛い。ちくちく、粘膜をつついている。
 大学の都合で上京してからというもの、彼はたびたび火神の傍で暮らすことを提案した。そのたびに火神は熱いようで凍えるようで泣いてしまいたいほどの居心地の悪さを味わっている。
 顔を合わす頻度が高くなれば火神はきっと氷室に甘えるだろう。火神の自覚が追いつかないほど彼を兄として頼るに違いない。
 氷室を追い詰めたくなかった。また火神の振る舞いが原因で兄を怒らせたくない。失望させたくない。悲しませたくない。
 また喧嘩別れをするくらいなら、初めから距離を設けておけばよかった。どちらかがいなくなっても平気でいられるように練習を重ねていく。それがこのさきふたりにとって望ましい関係に思えた。そもそも、いつまでも一緒でいられるはずがないのだから。

「なあこれ、練習なんだ。できたら貰ってくれないか。お前に風邪は似合わないからな」

 背の向こうで氷室が思い出したようにそんなことを言う。話の流れを変えるように、つとめて明るく振る舞って。
 彼が編んでいた独特な色合いの布きれを思い出す。あれはマフラーというよりも、イベントで首にかけるタオルのようだった。薄く、でこぼこな編み目の不格好なそれの手触りを思う。
 氷室の代わりに貰えるのであればいいのかもしれない。火神は壁を見ながらそう思うも、返事はしなかった。