夏のかがひむまとめ

みじかめ。安心してよめるかがひむ。







きみがくるのをここでまってる

 氷室辰也は改札口に掲げられた電光掲示板を眺めた。列車の発着を知ろうと、氷室同様掲示板に目を注ぐ者がちらほらといる。
 望みの車両は到着していない。雪で遅れが出ているという。一行の枠に収められた赤字のメッセージを読み、改札の前から離れる。待合を兼ねるベンチ群のひとつに腰をかけた。さほど混み合っておらず、空席がいくつもある。肩にかけていた荷物を傍らに置き、ようやく氷室はかぶっていたダッフルコートのフードを外した。フードに積もった雪はとけていて、水の混じったものが音もなく床に落ちる。
 手袋を脱いで、ごそごそとコートのポケットにしまう。防寒用の手袋は厚みがあり、コートのポケットにしまうと腰にふたつの膨らみが生じた。傍目には不格好であるが、うすい手袋の中でかじかんだ指先をもてあますことに比べればよほど良い。氷室はあまり、寒さが得意ではない。
 鞄の中のスマートフォンを取り出す気にはならなかった。買って幾度も開いていないバスケ雑誌も。人の出入りの多いターミナルは暖房が効いていて、氷室はぬくもるような暖かさを享受する。
 手袋を脱いだ手は赤みを増していた。何をするでもなく膝の上にのせ、ぼうっと改札口を見やる。
 コートの下に巻いたマフラーは駅舎では息苦しく感じた。堅い木枠のベンチに腰を落ち着けていると、雪がとけるように身体中の疲れがゆるゆると染み出していく。
 一度、ゆるくあくびをした。口に手を当てるも気の抜けたようにあふと声を漏らす。心地よい眠気がひたひたと氷室のまぶたに宿り、思考をちりぢりに解していく。
 人の行き交う景色が羊を数えるように眠りを誘った。こくりこくりと首をもたげる意識で浸かるうたたねほど安らげるものはない。眠りの心地よい部分のみをうつらうつらと楽しめる。氷室は砂のように落ちてくるまぶたを懸命に開こうとした。しかしまぶたは貝のように閉じてくる。
 観念した氷室は睡魔に身を任せることにした。どうにもたまらない、すこし船をこごう。スマートフォンに連絡もない。列車が到着すればアナウンスがあるだろうし、火神が改札口に現れれば眠気は途端に吹き飛ぶ。だからほんのすこしだけ。
 氷室はまぶたの落ちるままに従った。身のうちのぬくもりに浸り、ときどき自分が駅のベンチに座っていることを思い出して、また眠る。眠りの霧が薄くなった頃、氷室は目を瞬いた。ぱちぱちと拍手をするようにまぶたを合わせると眠気が遠くなる。
 隣に誰かがいる。いいや、氷室が隣の客に寄りかかっているのだ。はやく退けなければと急ぐ意識とは裏腹に、身体は緩慢な動作で離れた。すまない気持ちで座り直すと、隣の男が挨拶をよこした。
「Morning,my bros.」
「タイガ?」
 黒い帽子をかぶったダウンジャケットの男が、氷室をのぞきこんでにっと唇の両端を持ち上げた。氷室は待っていた弟がいつの間にか隣に座っていたことを、もやの残る頭で考えようとする。ほんのすこしと目を閉じたが、存外に眠り込んでしまったのだろうか。
 ともかく、隣にいる男が火神大我であることは確かだ。氷室は眠気と動揺でゆれるまま、弟の面立ちを眺めた。
「久しぶり。変わりねえ?」
「起こしてくれればよかったのに」
「十五分も寝てねえよ。役得だろ?」
 列車が到着したことも、火神が隣に座ったことも、気のつかないまま眠りに落ちていた。火神の弁を信じるならばさほど時間は経っていないのだろう。眠った十分かそこらの内に列車が着き、火神が先に氷室を見つけた。それはいいとして、すぐに起こさず眠る氷室を放ったのはいただけない。どうせ火神のことだ、役得などと称すのだから、今のいままで氷室の寝顔でも眺めていたのだろう。
 氷室はベンチから立ち上がった。靄がかるような眠気を残す身体を起こして、荷を肩に掛ける。まずはここから出なくては。積もる話はいくらでもできる。
「そろそろ行くか。外は寒いぞ」
「気温差激しいんだよな……雪降ってる?」
「外に出てからのお楽しみだ」
 氷室に続いて立った火神が嫌なものを前にするように顔を曇らせる。温暖な気候での暮らしが長かった火神も寒さは得意ではない。氷室と違って、いまも雪と縁遠い地域に住んでいるのだからなおのこと。それでも外に出れば手袋を穿くのも忘れて雪玉を握るのだろう。弟はそうした性質だ。
 肩を並べて外へ向かう。初めて目にした冬の帽子は似合っていた。

火氷深夜の真剣創作一本勝負
お題「駅」





ねむるねむれないねむらない

 日が落ちれば涼むものだが、この晩は夜が更けるほど蒸し暑さが増した。兄のベッドに寝転がる大我はいつまでも眠れないまま目を開けたり閉じたりを繰り返す。寝返りを打って気持ちを紛らわそうともすぐそばで寝息を立てる兄に忍びなく、大我は身をじっと固くして眠気が訪れるのを待っていた。
 兄の一家が越してくる前から建っていた古い一軒家の、兄に割り当てられた部屋には冷房がない。新しい機能的なアパートメントにある大我の部屋では好きなときに冷房を入れられたから、期待のためではなく寝苦しさのために眠れないのははじめてのことだ。日本にいた頃は扇風機で涼を取ったがそうもいかない。大我の父も扇風機を家財道具に含めなかった。
 一枚きりのタオルケットすら息苦しく感じる。大我は目を閉じる努力をやめ、広がるうすくらがりの先の兄の寝顔を眺めることにした。
 兄は穏やかに眠っている。暗闇に慣れた目では明かりをつけずにあたりを伺うことができる。大我は目を閉じて眠りに落ちた兄の顔を息をするのも忘れて見入った。兄が大我よりも先に眠るのは初めてだ。
 貝のように静かだったまぶたがぱちりと開いた。水に濡れたビー玉のように、瞳が暗がりできらっとひかる。
「タイガ、眠れないの?」
「タツヤ、起きてたの?」
 すこしも寝付いていない兄の声に大我は驚いた。まぶたを閉じ、身じろぎせずに安らかに横たわる姿は眠っているものとばかり思っていた。
 兄が大我を認める。布ずれを立て、大我に身体を傾けた。
「寝息が聞こえてこないんだもの。いつまでも僕のタオルケットを引っ張らないし」
 大我はすまない気持ちになった。兄とともに眠るのはこれが初めてではないが、兄のベッドで広いシーツを分け合うと決まって蓑虫のようにくるくると引き寄せてしまう。朝になればかろうじて端がかかっていることを大我よりも先に目を覚ました兄が知るのだが、大我の寝相の悪さが原因でいままで風邪を引いたことがないのが救いだった。
「……ごめん」
「いいよ。慣れっこだ」
 うす暗がりで答える兄は言葉通り気にしていないようだった。大我に顔を向けたまま、兄が呼びかける。 
「タイガ、手を伸ばして」
 タオルケットの下で兄に手を伸ばした。熱のこもった手が、同じように熱を持ったやわらかい手で握られる。強くもなくゆるくもなく、つなぐためのそれが心地よかった。
「こうすると眠れるよ。僕が眠くなったらタイガも眠くなる」
「そうなの?」
「手を伝ってうつるんだ。試してごらんよ」
「うん……」
 兄の声がやさしく鼓膜を震わせる。大我にはそれが子守歌のように聞こえた。兄の声を聞いていると遠ざかっていた眠りがゆっくりと落ちてくる。つないだ手はあたたかく、蒸し暑いというのに不快に感じなかった。大我は母にするようなあまえたで、目が覚めた後の予定を訊いた。
「明日はバスケできるかな」
「できるさ、ご飯を食べたらでかけよう」
 はっきりとした兄の物言いに微笑を浮かべた。夜が明ければまた兄とバスケができる。ボールを持って雨上がりのコートへ行き、息が上がるまで兄とゴールを狙う。朝になれば兄の父と母がおいしい朝食を用意して迎えてくれる。
 大我は兄に見守られるまま眠りに落ちた。

火氷深夜の真剣創作一本勝負
お題「熱帯夜」





ねないこだれだ


 とんとんとん、だれのおと?
 とんとんとん、タイガのおと。

 部屋の前を通りかかると、寝たとばかり思っていた息子の声が聞こえてきた。息子が友達の名前を呼んだので、母親は扉の前に止まった。なにやらごっこあそびをしている様子。
 ベッドの真ん中にシーツをかぶって腰掛ける子供ひとりぶんのふくらみが、ほのかに間接照明をつけただけの暗がりに見える。閉じきっていない扉のすきまから息子の姿を認めた母親は部屋に入った。
「なにしてるの? もうおやすみをする時間よ」
 タオルケットをかぶったちいさな顔が母親に向けられる。息子はハロウィンの仮装をしたまま返事をした。
「タイガと遊んでる。夜にひとりでお父さんの帰りを待つのはさびしいからって」
「大我くんを?」
 タオルケットの端をつかみ、そろそろとめくって息子の姿を認める。母親に見つかった息子はタオルケットを放った。
 ひとりぶんのふくらみにいるのはひとり。息子の背中で牛乳の膜のようにくちゃくちゃに皺の寄ったタオルケットが広がっている。
 母親はてっきり息子の友達が忍び込んでいるものとばかり思った。昨年息子の学校に編入してきたあの子はまたたくまに息子と仲良くなり、いまでは一番の友達だ。息子とあの子は平日、休日の境なく連れだってどこへでも行く。もちろんこの家にもよく遊びに来る。学校が終わればボールを持って近くのコートへ行き、休みの日は朝食を食べ終えるやいなや外へ出かける。元プロプレイヤーの女性にバスケットボールを教えてもらったり、どこかへ遊びに行ったり。日が暮れるまで帰ってこない。
 息子とあの子はそろって元気をあり余した活発な男の子だった。息子はもともとそうしたところのある子だったが、内に仕舞いがちであえて静かないい子を演じたがる節がある。息子はあの子をきっかけとして本来の気質を表に出すようになり、母親はそれをよい傾向だと思っている。
 ただし子供の活発さは時として予想もしない出来事を引き起こす。年の近い息子とあの子は連れ立つ毎日を冒険で彩った。子供たちで行ってはいけないと言い聞かせている区域に足を運んだり、庭にある大きな木にのぼっていつの間にか秘密基地をこしらえたり。いつだって大人は彼らのしでかした結果ばかりを突きつけられ、頭を抱えるなり叱るなりを繰り返してきた。
 ゆえに泊まりの約束を聞いてなくとも、息子のベッドにあの子がいるのは仕方のないことに思えた。息子と一晩中はなしをするために、家をこっそりと抜け出す。おとなたちには誰にも知られないよう計画した、ふたりだけのひみつ。
 息子の友達は父子家庭で、その父親も不規則な生活をしている。あの子ならシッターを見送った後、家をもぬけの殻にしても誰かに咎められることなく息子の部屋に来られるだろう。
 こどもの夜のひとり歩きは日本にいる以上に危ないのに。今夜はあの子を泊めて、翌日よく言い聞かせなくては。
 そう決意した母親の予想と違ってベッドには息子しかいなかった。友達の父親が帰ってくるまでの暇をつぶすためにふたりであそんでいたと息子は言うも、肝心のその子がいない。
 母親はそれを想像力が生み出した息子のひとり遊びだとした。電話をしているのならともかく、息子にモバイルの類は渡していない。あの子のさびしさをどうにかして埋めようと子供なりのつたない考えを巡らして行き着いた、まじないのようなままごと。母親は息子の頭を撫でた。
「辰也はやさしいのね。でも明日は学校でしょう。大我くんを思って、お母さんといっしょに寝ましょう」
「タイガは僕がいないと寝れないよ」
「辰也が大我くんを思えば、大我くんにも伝わるわ。辰也が眠らなくて明日大我くんとバスケができなかったら、いやでしょう」
「うん……」
 バスケットボールを持ち出せば息子はどうにか引き下がった。枕に頭をつけて、タオルケットをかけてやる。子供用のベッドに収まった息子は寝るようにあやす母親を見つめた。枕元の明かりを消してやる。
「今日はもうおやすみなさい。ね」







 ダイニングチェアに腰掛ける母親は呷るようにワインを傾けた。ソファに座る夫はチョコレートをかじりながら趣味の悪い映画を見ている。かろうじて声が聞こえるほどに音量を絞ったスピーカーから、悪魔に憑かれた少女の罵詈雑言が漏れている。
 母親は額をこつこつと指でつついた。それは彼女が苛立ちを抑えられないときに行う仕草だった。
「よくない傾向だと思う。あの子はイマジナリーフレンドをつくるような子じゃないわ。辰也が誰かに執着するのも初めてじゃない」
 ソファを立った夫が妻の向かいに腰掛ける。手にはグラスとチョコレートの皿を抱えていた。皿がテーブルに置かれて、ことりと音を立てた。高濃度のカカオを含むチョコレートのかけらは残り少ない。夫はいつもの冗談をはじめた。 
「君は悪魔憑きを信じるたちかい?」
「架空の友人ならわかるわ。でも相手は大我くんで、実在する人間。しかも最も身近な、実体を持った友人よ。私たちも知ってる……不可解だわ」
「イレギュラーでは通常の結論は出せないと?」
 夫は彼女の困惑に苛立つ姿をつまみにグラスを傾けた。彼女は冗談でもオカルトを毛嫌いするきらいがある。何事にも理知的な、理知的すぎてつまらないところがある息子がとうとうその手の想像を膨らませた。とあれば、小躍りして詳細を聞き、行く末を見届けたいと願うのが親であり研究者である努めだ。
 夫はワインの酸味をたっぷり味わって、口を開いた。
「大我君の家は複雑だ、辰也は決して世間知らずじゃない。大我君の境遇を知って、辰也なりにケアしようとしてるんだ。大我君に同情する自分の心を。おえかきの類はしていないんだろう」
「……辰也は十歳よ。想像上の友達を作るには年を取り過ぎてる。友達は大我くんだけじゃないし」
 彼は気を高ぶらせている妻の肩に手を添えた。妻が彼の手を握り、額に手をかざす。
「何にしろ様子を見よう。続くようなら訳を聞いて原因を探る。もしかしたら大我君との仲がこじれているのかもしれないし、僕たちが知らないだけでいじめにあっているのかもしれない。疎外感を感じているのかもなあ。君が見た行為は、大我君との間で結んだ取り決めのようなものかもね。あの子と大我君はそういうことを好むから……。君が今まで気がつかなかったんだ、ごく最近現れたものかもしれないよ。あまり深刻に考えなくてもいい」
 彼女の心配を杞憂だと夫が優しく促す。夫が提示したいくつもの仮定はうなずけるものがあった。多くの可能性を示されて、改めて自分の考えが偏っていたことに気がつく。だが、どうにも気持ちは晴れなかった。気にするなと促されればされるほど、しこりは存在を強くする。
 彼女はアイボリーの壁にまなざしを向けたままぽつりと漏らした。
「ひどい物言いをするけど……気味が悪い。なにか、変」
「今日は僕に付き合って、ワインを飲もう。ぐっすり寝て、また明日考える。チーズを出してくるよ」
 夫はたしなめるように一度彼女の手を握って、キッチンに向かった。明かりがつき、冷蔵庫を開ける音が聞こえてくる。画面は悪魔払いの最中で、神父の深刻な顔が写っていた。
 母親は瓶をさかさまにするようにして、グラスにワインを注いだ。すっかり落としてしまうように瓶を掲げ、赤い水面にしずくを落とす。グラスに注ぎ損ねたしずくがテーブルにぽたりと広がった。






 リビングの床でタオルケットがふくらみをもっている。ちいさな山がふたつ、頭を並べて向かい合っていた。こどもの息をする様に応じて、タオルケットがちいさく、揺れるように動く。

 とんとんとん、だれのおと?
 とんとんとん、タイガのおと。

 またあの遊びをしている。今日はあの子が来ているから、ふたりで布をかぶっているのだろう。天気がいいのだからボールを持って外で遊べばいいのに。なにもタオルケットをかぶらなくたっていいだろう。
 それにしても。
 母親はリビングから顔を背けた。うすく煙をたなびかせるメーカーを開いて、ワッフルを取り出す。網状に焼き上がった菓子は小麦粉の香りを漂わせた。一枚ずつ、熱いそれをふたつの皿に乗せる。添えたアイスクリームごとチョコレートソースで線を引いて、ミントを散らした。
 皿をふたつ抱えて、息子たちに呼びかける。手前のタオルケットの端から、正座をした靴下のつまさきが出ていた。
「ふたりとも、おやつにしましょ」
「はーい!」
 息子は双子のような小山の奥から顔を出した。途端にしぼむタオルケットはひとり分のシルエットしか残していない。
 母親はテーブルの前でしばし足を止め、皿を置いてからタオルケットをめくりあげた。勢いをつけて、床から引き離す。
 座り込んでいるのは息子だけ。靴下の一足も落ちていなかった。
 どうして気がつかなかったのだろう。この家は土足で生活している。息子も母親もサンダルを履いていた。
 母親はそこにいたはずの息子の友達を尋ねた。
「大我、くんは?」
「帰っちゃった」
「いま一緒にいたでしょ。ねえ、いたわよね」
「帰っちゃった。おやつたべたかったって」
 息子はこともなげに友人の行方をいう。母親はしゃがんで息子の前に膝をつくと、両肩をつかんで揺すぶった。
「ねえ辰也、あなたお母さんに話したいことない? 学校のことや、大我くんのこと。なにかうまくいってないことがあるんじゃないの」
「ううん、何もないよ。タイガはハンドリングがうまくなったんだ! 初めはぜんぜんできなかったけど、たくさん練習して……! ねえおかあさん、次の休みタイガと遊びに行っていい? アレックスが海に連れて行ってくれるって……」
 息子は自分のことのようにはしゃいで、その子の上達ぶりを伝える。出かけのゆるしを請う息子の姿に陰はなかった。息子の友人との仲がこじれている様子も。銀の指輪が息子の胸でひかっていた。 
 家を訪ねてきたのなら顔を出し、元気に声を上げて挨拶をする息子の友人の姿を、母親は今日はまだ一度も見ていなかった。







 夫も寝静まった夜おそく、母親は机に向かってキーボードを叩き続けていた。机の周りには積み重なった多くの資料が乱雑に置かれている。どうにかして朝までに仕事を片付けてしまいたかった。
 キーボードから手を離し、椅子に座ったまま背伸びをした。壁に掛かった時計は午前二時を示している。
 ひと息つこうと席を離れた。キッチンに向かおうと廊下を歩く。
 息子の部屋から声が聞こえた。ぼそぼそとしたそれは子供の声だ。息子の扉は建て付けが悪く、いつもこうしてすこしだけ開いたまま止まる。 
 母親はそっと扉のすきまから部屋を覗いた。明かりひとつないのに室内はいやにくっきりと見渡せた。
 タオルケットが盛り上がっている。ふたりだけでひそひそと話をするように。頭を寄せ合って肩を揺らして、布の奥でささやきあっている。
 声がする。息子と、もうひとり。こどものそれ。

 とんとんとん、だれのおと?
 とんとんとん、いぬのおと。
 とんとんとん、なんのおと?
 とんとんとん、包丁のおと。
 とんとんとん、なにするの?
 とんとんとん、やっつける。
 とんとんとん、やっつけた?
 とんとんとん、ばらばらだ。
 ざくざくざく、うめなくちゃ。
 ざくざくざく、うめちゃった。
 ぎゅるるるる、おなかすいた。
 ぎゅるるるる、たべちゃおう。
 むしゃむしゃむしゃ、おいしいよ。
 むしゃむしゃむしゃ、おいしいね。
 むしゃむしゃむしゃ、おなかいっぱい。
 むしゃむしゃむしゃ、タツヤ。

 そこでぴたりと声が止まった。布の端がめくれている。その先は暗く塗りつぶされてわからない。手前の小山がひとつ、タオルケットをかぶったまま振り向いた。布越しに目が合う。
「誰か見てる」
 あの子の声だった。
「おかあさん?」
 息子の呼びかけに母親は逃げるようにして壁に身を寄せた。心臓が鼓動を早めている。しばらく廊下の虚空を見つめた。呼吸を整え、改めて扉のすきまから部屋をうかがう。
 息子はタオルケットの乱れもなく、ベッドで眠りについていた。さっき目にした布は見当たらない。そもそもあのタオルケットを母親は一度たりとて使った覚えがなかった。
 寝入る息子の頬に耳を近づけた。間近に母親が迫っていることに気がつくことなく、静かに寝息を立てている。
 いまのは、何だったのだろう。
 胸元までかかっているタオルケットを強いて引き上げて部屋を後にする。部屋を出る前にもう一度振り返り、乱れのない寝台を確かめた。
 明かりをつけたキッチンで水の入ったボトルを傾ける。グラスに注いだ水を一息に煽った。グラスに張り付いてしまったようにかたくこわばる指を、一本ずつ外す。
 誰もが寝静まった家では母親の立てる音しかしなかった。







 彼は割り当てられた寮の自室の前で後輩と別れた。談話室で菓子をかじりながらつい長話をしていれば、彼と後輩しか残っていなかったのだ。
 いまにも眠ってしまいそうな後輩に手を振る。後輩はまなこをこすってだるそうに手を上げた。
「あっふぁ……じゃーねー室ちん。おやすみー」
「おやすみアツシ。また明日」
 後輩の後ろ姿を見送ってドアを開ける。明かりのスイッチを探すことなく部屋に入るとドアを閉めた。
 彼はタオルケットをつかみ、ベッドにうずくまる。頭からかぶった布地は彼の爪先まですっぽりと覆った。
 くらやみに目が慣れてくる。息づかいを感じた。向かいにはいつものように。

 彼は口を開いた。

 とんとんとん、だれのおと?







くびのばけもの

 いつだって俺はベッドの中で、お前にバラバラにされる。

 暗がりで白い蛞蝓のようにぬるぬると好ましく光りながら濡れた胸を上下に揺らして、懐っこく返事を乞う。眠る前に接吻をひとつくれてやって、先に上がった寝息を鈴のように聞いていたのだが。

 眠る前に兄がそんなことをいったものだから、その晩火神は夢を見た。

 満ちた潮がひたひたと砂浜を濡らすように声が、くりかえしくりかえし火神を呼ぶ。眠っていた火神はそれで夜中に目を覚ます羽目になった。草木も眠る丑三つ時。

 たいが、たいが。

 臨終間際の婆様が言いつけを頼むようだ。墨を塗ったように真っ暗ななか声のする方を向けば、隣で寝ている兄の目だけが蛍のようにぼうと光っている。
「タツヤ……? 夜中にどうしたんだ」
 あくびをまじりまじりに目をこすり布ずれを起こせば、兄は寝に入る前とは違った人形のような面立ちで。

 俺のからだが布団の中でばらばらになってしまったんだ。俺の代わりに俺のからだを拾い集めてきてくれないか。

 そうせがむのだから火神はこれは夢の続きだと思った。掛け布団をめくれば、たしかに兄の身体はどこにもないのだった。首すらどこかに消えてしまって、まったく引き抜いた雛人形の頭のように枕の上で転がっている。 
 もの言いたげな目だけがたまにぱちりとまばたきするので、それでこの頭が拵え物ではないと思い出すほどには、まったく兄の頭ときたら人形のようであった。ただ目を開くだけの兄はそこいらに並ぶおもちゃと同じだった。
 ぱちり。ぱちり。閉じては開き、開いては閉じる。目隠しをしたように真っ暗ななかでは蛍の如き兄の目しか頼りになるものはないのに、球の切れる手前の電灯のようにちかちかとまたたかれては困ってしまう。火神は兄のうるさい瞼を鋏で切ってしまいたくなった。
「どこにあんの……」
 夢を喉に引っ掛けたままおっくうに声を出せば、兄の目がぎょろりと下を向く。俎板に乗せた、捌く前の魚のようなぬらりとしたなまものの目。陶器のような肌の隙間にはちゃあんとやわらかく濡れたあつい目玉が埋まっているのだ。火神は兄でめざしをつくってやりたいと思った。兄は目を指のように動かして布団を指し。

 このなかだ。

 探してきてくれと頼むのだから重い身体を引きずって、火神は布団の中に入っていった。掛け布団と敷布団の間、温められた体温でぬくもった狭く暗い隙間をもぞもぞと這って奥へ進む。手を伸ばし、皺の寄った敷布団を撫で、暗闇をきょろきょろ見回しても兄の身体はみつからない。進む進む。あちこちを手で探る。それでも兄の身体はみつからない。どこまでも続く暗がりの深くまで這ったというのに、足ひとつ胴ひとつ転がってやしないのだ。火神はだんだん面倒になってきた。
「タツヤ、身体なんてひとつもねえよ」
 急ごしらえの思いやりを乗せて答えてやったというのに、兄は礼のひとつもしない。灰汁抜きをする前の牛蒡のように、わからずやの苦い調子で遠くから。

 いいや、あるはずだ。そうじゃなければ俺が首だけになるものか。

 そうしてまた火神を急き立てるのだから、たまったものではない。火神はひとかけらの良心を打ち棄てると探すのをやめ、いそいそと枕へ戻ってきた。ぬるい外の空気を胸いっぱいに吸う。布団のなかは暗くて暑苦しく、いつまでもいられやしない。兄に従って果てまで着くころには、帰り道すらわからなくなってしまうだろう。火神は隣に転がった頭を枕のように抱いて寝返りを打った。
「どこにもねえよ。もう寝ようぜ。明日探すからさ。どうせ急がねえだろ」

 からだがないとバスケができない。

「明日探してやるよ。おやすみ」
 眠りに手を引かれるように目をとじた。兄の頭は湯たんぽのようにぬくく、抱いているとじんわりと温まった。すっぽりと腕の中に収まる兄は飼い猫のように気安く、頭を撫でていると尖った心がバターのようにゆるゆると溶けていった。肉に覆われた輪郭はやわらかく、すべすべとして、あたたかい。火神の手に吸いつくようひたりと寄った肌は、まるで撫でられるためにあるようだ。
 口では探すといったものの、火神は兄の身体がどうでもよくなっていた。
 身体などなくたって、頭さえあれば返事をする。身体がない分持ちやすく、勝手にどこかへ行やしない。身体がないから物を食べず、用を足すこともない。しばらくこのままでいいではないか。なあに、いくら兄が願ったところでもうとっくの昔に、兄では相手にはなりやしないのだ。
 頭だけになっても焦がれる、あの競技の相手には。

 たいが。たいが。たいが。

 また鈴のように聞こえだした兄の声を子守歌に火神は眠りへ落ちていった。腕のなかに抱いた兄はしばらく火神を呼びつづけ、火神にはそれが心地よかった。誰かに呼ばれると嬉しかった。誰かの熱に寄り添うと落ち着いた。ひとりで暮らしていると誰かが恋しくなる。自分だけの誰かが。
 何度も何度も兄が呼ぶ。そのすべてに返事をしないで眠ってしまうと、兄は呼ぶのをやめた。くうくうを寝息を立てる火神に向けて拗ねたようにひとこと。

 ほら、やっぱりお前は自分のことしか考えていないじゃないか。

 途端に火神は跳ね起きた。タオルケットを蹴飛ばし、ベッドから身体を起こす。左胸がどくどくと早鐘を打っていた。手はタオルケットの端を固く握りしめた。
「タイガ?」
 隣から名前を呼ばれて、すぐにタオルケットを捲った。大判の布の下から露わになった兄には、はたして身体がついていた。毛布を剥がされた兄はきゅっと身を縮ませて、寝る前と同じ姿の肌をぽつぽつと粟立たせた。
「さむい」
 タオルケットをかけてやって、気が抜けたように背を丸めた。すべて夢だった。夢だったが目が覚めても居心地の悪さは拭えない。肩まですっぽり布団の中に仕舞った兄が、まだ身体を起こしたままの火神を見上げて。
「布団なんかめくって、どうかしたのか?」
「なんでも、ない」
「そうか? ……夢でも見ていたんだろう。だってお前」
 兄は自分のことのようにやわらかく微笑んだ。

「嬉しそうに笑っているぞ」









ひとりぼっちクレドール

 タツヤはときどき、俺の知らないところにいる。

「どこか遠い宇宙の端に星があるんだ」
 ベッドのとなりに敷いた布団から、タツヤの声を聞いた。眠そうな感じはしなかった。俺はベッドに転がったままなんとなく天井を眺めてたけど、タツヤの方へ寝返りを打った。
 開けた窓から、車の走る音がする。こんな夜にどこへ行くんだろ。まるでミサイルが飛んでくような音だ。
 むかしみたいにひとつのベッドで眠れるような身体じゃなくなったから、俺はいつも寝てるベッドの隣に客用の布団を敷いて、タツヤといっしょに寝る。タツヤもそれがちょうどいいみたいだった。
 カーテンを閉めて明かりを消した部屋の、すこし高いベッドの上からじゃ、タツヤの顔はのぞけなかった。首を伸ばして目をこらしても、きっと、鉛筆で塗りつぶしたみたいにわからない。俺は身体を動かさないで、タツヤが寝ているはずの毛布のふくらみに目をやった。
 どこか、とおい宇宙のすみっこにある星。今日のタツヤはそこに行ってるみたいだ。
「青くて、ちいさな星なんだ。でも、降りてみると、ずっとずっと広い」
 俺はタンザナイトみたいなまるっこい石を思った。青ざめた湖みたいな色をしてる。青や水色やねずみ色や白、それくらいのいろんな色鉛筆を何度も重ねて塗らないと出せないような。それは親父の部屋にあった机の引き出しの、片隅にしまわれた、片方だけのイヤリングにくっついてた。小指の爪くらいの、まるっこい石。数珠の玉よりもちいさい。親父は結局家に戻ったから、あのイヤリングもしまいっぱなしになってるんだろうか。
「その星ではずっと機械たちが争っていて、互いをばらばらにするために四六時中ミサイルとエンジンと重機の音で埋め尽くされてる」
 なんで人がいないんだろ。俺は聞いてみたかったけど、しゃべるのがおっくうで黙ってた。タツヤの声だけで満たされた今を、こわしたくなかったから。
 人がみんな死んでしまったのか、命令を受けたきりそのままになってしまったのか。わからないけど、タツヤが言うんならそうなんだろう。俺はタツヤの描いていることをうまく考えられない自分が悔しかった。
「機械がこわれると、機械だった部品たちはばらばらに崩れて、おちてくる。くずれた部品はどれも白くて、かたちが違っていて、まるで骨のようなんだ。それが、だだっぴろい地面に落ちて、広がる」
 俺はつみあげた積み木の城がくずれる様を思った。さんかくや細長いもの、ましかくなものから、アーチを描いたものまで。色を塗ったそれがところどころ剥がれて、白っぽい木の部分が見えている積み木。それが、ぶんと腕をふりまわしただけで、ばらばらと崩れて、床に広がる。
 むかし、いつだったかもう覚えてないずっと前、家にあった積み木であそんでた。あの積み木、どこにいったんだろう。家を探せばまだあるんだろうか。 
「部品をひろいあつめる係りの機械があって、それがばらばらになった部品を集めて、また機械を作る。使えなくなった部品は溶かして作り直してから、また新しい部品として使う」
 タツヤの声は静かだった。タツヤがしゃべればしゃべるほど、部屋は静かになっていく気がする。タツヤの声が静けさを連れてくるのかもしれない。
 車の音は聞こえなかった。薄い窓で、寝入りばなには外の音がうっすらと漏れてくるのに。
「でも、部品を拾い集める機械はひとつしかないから、あちこちに散らばる部品をあつめきれない。だから、その星のあちこちで回収しきれずにばらまかれたままの部品の上に、つぎつぎとあたらしい部品がおちてくる。珊瑚の死骸に朽ちたプランクトンが積もるように、雪野原に新しい雪が落ちるように、散った桜の花びらが道端に溜まるように」
 俺はとっくに、タツヤが言った景色を思い浮かべることができなくて、ただ、タツヤのなぞることばを聞き心地のいい音として聞いていた。俺はこのまま眠ることができると思った。タツヤの声を聞きながら眠りに落ちることができる。なんて贅沢なことだろうと思った。タツヤが話を続ける。
「それは、ためいきよりも静かな音を、していると思うんだ」
 俺にはその声こそが、溜息よりもしずかな音に聞こえた。
「どこか遠いところで、こわれた機械の部品がばらばらに砕けて地面に散らばり続けている。そんなことを思うと、俺は静かに眠ることができる」
 ばらばら、ばらばら。俺はタツヤのいう部品の散らばる音がそれほど静かな音には思えなかった。だけど、タツヤがそれで眠れるならいいんだろう。俺は身体をタツヤに近づけようとベッドの端にずらした。静かに布ずれが起きる。俺は話を閉じることにした。
「それがタツヤの子守歌なのか?」
「子守歌か。そうかもしれないな」
 タツヤはあいまいに、うなずくでも否定するでもなくそう答えた。名前のない、タツヤを眠りに導くためのなにか。それでいい。
 あ、とあくびをする声がする。タツヤはすっかり戻ってくると、眠そうに声を漏らしておやすみをいった。明日の予定なんかを口にして。
 おやすみ。俺もそう答えて目蓋を閉じた。
 おやすみ。ちゃんと話を閉じて、タツヤを隣に戻したのに、気がつけば俺は遠いとこにいた。
 見上げた先、てっぺんは黒くくらく、だんだんと地平線に降りていくにつれて、色が薄くなっていく。俺はグラデーションになった空の様子で、その闇が紺を煮染めたような深さでできていることを知った。
 まるで夜明けが来る前に止まった空みたいだ。三十分もしないうちに訪れるはずの朝日の不在を、ずっと受け止め続けてる。いつかこの空の深さが薄くなる日は来るんだろうか。
 絶え間なく同じ音が聞こえる。しゅーっと風船から空気が抜けていくようなそれ、何かに何かがぶつかって爆発したり、負荷がかかりすぎて止まった歯車をむりやり動かされたり。遠くのあちこちから、何かが弾けてぱらぱらと散らばる音が繰り返される。ばらばら、ばらばら。
 遮るものを何ひとつとして用意していない広いひろい景色を、自立するガラクタが埋めていた。藍色をした空に三角や四角の、飛行機が飛ぶみたいにごおおおとうるさい船が、風船でも浮くみたいに浮かんではいくつものミサイルを飛ばす。集まった鳩が一斉に飛ぶようにまとまって放たれるそれは、地面をぎちぎちとローラーで踏みならしていた、アームのついたやつに当たったり、車輪で動くちいさなものに当たったり、空に浮いているシャンデリアみたいなものに当たったりして全弾どこかしらにぶつかった。たくさんのミサイルがいろんなものに当たる様は、俺にはあたりかまわず喧嘩を売ってるみたいに見えた。
 やったらやりかえす、とばかりに、地を這うでかいものからもいくつかのミサイルが出て、それは空に浮く大きなしかくだけではなく、やっぱりほかのかちかち歯車を回すものにも当たった。シャンデリアみたいなのは懐中電灯みたいにまっすぐなレーザーを出して車輪で動くものを爆発させ、ばね仕掛けで動く細長いものは動きの遅い小さいやつを踏みつぶした。
 ちいさいものはおおきなものに、おおきなものはよりおおきなものに。動いているものはみな敵なのか、どれも見境なくこわしあっている。きずついてこわれたものから、まるで血でも噴き出すみたいに、白い部品が舞いあがる。肉が吹き飛ぶみたいに、かけらたちが弾けてはばらまかれる。
 俺はローラーを動かして地面に落ちた部品を腹にいれていた。伸びたベルトコンベアで部品を籠にしまいこむ。籠はまだ余裕がありそうだ。
 よく見ると地面だと思っていたそれはばらばらになった部品の山で、ベルトコンベアを傾ければざくざく部品を吸い上げることができる。見渡せば、俺が立っているのは部品で埋め尽くされた地面。ローラーの下には地層のように部品が積み重なってる。どこもかしこもまっしろだ。真っ白になった枯葉が腐らずに埋もれるような部品の上を、そいつらはがちゃがちゃ鳴らしながら進んでいく。
 部品を吸い上げている間、また目の前で何かがくずれて部品が散らばった。俺はあたらしく積もったところにコンベアを向けた。穴を掘ったところでどうにもならない、とにかく積もってくものを集めないと。
 俺はコンベアを動かして腹いっぱいに部品を集めた。空に浮かんでたでかいのにミサイルが当たって、花火でもあがったみたいに部品がちらばった。ばらばらと落ちて、部品の積もる地面にあたる。地を這ってたでかいのにいくつものミサイルが当たって、部品がくだける。空にはまた、あの四角いのが浮かんで、ぶるぶるとミサイルを撃っている。
 そういう、ことか。俺はベルトコンベアを動かしながら白いかけらが砕けては落ちる音を雨のように聞く。ばらばら、ばらばら。つめたい機械のかけらが生まれては、積み重なったそれに落ちて、音を立てる。
 人なんて必要ないんだ。こいつらは、こわれるために動いてる。くだけて、部品を落とすためだけに。落とした部品で音を出すために。
 ばらばら、ばらばら。俺はうまれた部品を拾い集める。あつめて、持ち帰って、またあたらしい機械を作る。そのために俺はここにいる。地球にいるタツヤが、ひとりで静かに眠れるように。いつでもタツヤがきもちよく眠れるように。
 だからこいつらはいつでも争って、こわれなくちゃいけない。ちらばった部品は集めきられることなく、いつまでも広い地面に積まれていなきゃならない。
 終わりなんかない。なぜならタツヤが静かに眠れるために、この星はあるのだから。
 ばらばら、ばらばら。白いかけらがぶつかっては弾けるそれは、俺にはちっとも静かに聞こえなかったけど、どこかで静かに眠るタツヤの寝息を思うと、俺はひとりぼっちでいられた。
 空にいくつものミサイルが飛んでいる。俺はどこかに必ず当たるそれらの白い軌道のさきに、折れ曲がったアンテナの塔をみた。

ひとりぼっち惑星








きみのみそしるがのみたい

「出汁は取りなれてるわ。去年はみんなでよくちゃんこ鍋をしたのよ」
「お鍋っていいですね! 冬は部のみんなで鍋をしようかなあ……監督も誘って鍋パーティとか。私、トマト鍋すきなんですよー」
 ひとつに縛った髪を三角巾でまとめ、エプロンをかけたふたりが鍋の前で和気藹々と料理に取り組んでいる。鍋の中身はまだまともな色と形をしているが、彼女たちが腕をふるうたびに見知らぬ何かへと変貌していくことを、同席する火神と桜井は知っていた。
 遠くからボールの弾む音とかけ声が聞こえている。体育館で行われている合同練習にまじりたくてうずうずする火神は、思わぬ形で合宿所をともにすることになった秀徳との練習試合を思い出した。あのときも火神ひとりだけ、試合そっちのけでジュースを買いに行かされたのだ。今回は道連れがいるとはいえ、ボールを触れないことに変わりはない。むしろ身体を動かしていない分、考えをそらせなくて落ち着かない。
 それに。
 火神は腕を組んで彼女たちを見守る隣の男を盗み見た。彼は平気な様子で、いまにも吹きこぼれそうな鍋を眺めている。桜井があわててコンロの火を止めに入った。
「わりぃタツヤ、巻きこんじまって……」
「いいよ、彼女たちのスキルアップのためならどうってことないさ。他校の家庭科室に入る機会なんてそうないだろ? 一度誠凛をのぞいてみたかったんだ」
 夏休みを利用した、誠凛と桐皇の合同練習という名の料理合宿。企画を立ち上げ、履行までこぎつけたのはそれぞれの部をまとめる紅一点だ。部員が各メニューに基づいた練習を行っている間、彼女たちは火神と桜井の手を借りて、料理の練習に励むという寸法で。名目は部員の栄養管理と士気向上だそうだが、それがこの短期間でどれほど実現できるかは火を見るより明らかだ。
 彼女たちは合同練習期間中、相田の家に泊まるそうだ。かつては乳の大きさやら女の勘やらなんやらでことあるごとに火花を散らしていたと思うのだが、いつの間に仲良くなっていたのだろう。
 リコとさつきのわくわくクッキング、もとい火神と桜井の料理教室に氷室が飛び込んだのは偶然の産物で。盆休みを気ままに過ごそうとした彼は相手の予定も聞かないまま火神の家を訪れた。それがちょうど今朝のこと。キセキの世代に喧嘩のひとつやふたつ、ふっかけてやるつもりだったのだと彼はさわやかに語っていたが、ボールを持つ手には力が籠もっていた。
 ストリートに知り合いがいないのはつまらないからと火神について誠凛を訪れたものの、いつぞやうっかり料理もまあできるよなどと口を滑らせたせいで、氷室もまた講師役としてこの場に付き添うことを余儀なくされた。何も知らない彼は女性陣の料理を楽しみにしているが、出来上がりを見れば考えを改めるだろう。氷室が名状しがたいおぞましい何かを口にするかと思うと、火神は気が気でない。
「できたわ! さあめしあがれ!」
 相田が掲げた椀はどどめ色をした粘液で満たされ、こぽこぽとあぶくを吹き出した。木片を思わせるサイコロ状の物体がぷかぷかと浮かび、変色したちいさな輪がいくつも中央に添えられている。見間違いと思いたいが、砕いた錠剤のかけらが顔を出していた。
 一度桜井と火神が手本を見せ、取りそろえたまともな食材で彼女たちに課したメニューは味噌汁だ。同じ材料を用いた火神たちの試作品は、澄んだ柿渋色の汁に絹豆腐とわかめ、小口葱が浮かんだはずだが。
 桃井は手際よく三人分の支度を進めていく。火神は額に手を当てて天を仰ぎ、桜井は脂汗の浮いた顔で口の端をきゅっとつり上げた。互いに顔を見ず、つぶやきだけで現状を確認する。
「どこからはじめます……?」
「はじめるもどーも、まずは持ち込んだプロテインとサプリ探さねえと……」
 理解していた結果に解決策を模索するふたりをよそに、氷室は瞳を輝かせて相田と椀を覗き込んだ。それが料亭のおみおつけであるかのように、生き生きと声を弾ませる。
「わあ、すてきだね! 個性的なできばえだ、俺はここまですごい料理は初めてみたよ! 君たちの作る食事に囲まれたら、毎日がたのしいだろうな」
 願っていたはずの素直な反応を示され、相田はたじろいだ。いつだって料理を作れば部員も父もきまずい様子で目をそらしたり、びっしりと汗をかいたりして、どうぞどうぞとゆずりあうのだ。
 氷室が椀を受け取り、調理台に置く。相田は顔を伏せ、伸ばしたひとさしゆびのさきをつんつんと合わせては話したりを繰り返した。氷室の反応を願っていたはずなのに、ためらいなく繰り出されるとどうにも落ち着かない。
「そ、そうかしら。ちょっと手順を間違えたんだけど……」
 隣では桃井が鼻をすすり、エプロンの裾で目頭を押さえていた。うっ、ひっく、と嗚咽さえ漏らしている。
「そんなふうにいってくれるの、はじめてで……。何か作ってもみんな遠慮して、おどおどするの。大ちゃんなんか、おなかへってるだろうと思っておにぎり持って行ったら、『ブスまたかよ!』とかいってくるし……会心の出来だったのに、利尻産こんぶおにぎり……」
 まなじりをこすろうとする桃井に、そっと木綿のハンカチーフが差し出された。エプロンから顔を上げれば、ハンカチチーフの先には氷室が微笑んでいる。涙でくもった瞳には、盛りつけの雑なオリーブオイル使いも真っ当な好青年に見えた。
「とんでもない、さつきちゃんは開いたばかりの皐月の花のようにかわいらしい。リコちゃんにいたっては聡明で、凛とした美しさがある。君たちに作ってもらえて喜ばない男はいないよ。たとえば俺みたいな……」
 氷室が歯の浮く台詞を言い終えることはなかった。おもむろに掴まれた腕は、有無を言わさずやめておけと告げている。氷室は平然を装う弟の、腕をつかんでまで制止する姿に吹き出しそうになった。まだなにもしていないというのに。
「タツヤ、退場」
「僕もそのほうがいいと思います、すみません……」
 火神の後方で桜井もちぢこまっている。氷室は桃井にハンカチーフを渡すと火神の肩に手を置き、耳元にくちびるを寄せて言ってやった。
「なんだタイガ、妬いているのか? 俺が朝に飲みたいのはお前の味噌汁だよ」
 呆気にとられる弟を尻目にドアへ向かう。講師役が揃っていることだし、部外者は退散するに限る。
「それじゃあ、俺は練習に混ざってくるよ。うまくいくことを願ってる」
 氷室は楽しげに手を振り、戸を閉めていった。嵐のように過ぎ去った一連のできごとに、うまく頭が動かない。彼は何がしたかったのだろうか。桜井がしゃっくりをするように声を上げた。
「あっ」
「どうした?」
「氷室さんひとくちも食べずにいなくなりました……」
「あ」

火氷深夜の真剣創作一本勝負
お題「合宿/欲しいもの」=胃腸薬








ブラウンホワイトマーブル

 それがキスだと気がつく前に珈琲の匂いが鼻についた。相手の飲んだものといましがた自分が口にしたもの。隣のカップからあがる砂糖抜きミルク抜きの深い香り。カフェオレを頼んだ火神は珈琲よりもコーヒー牛乳が好きだ。気兼ねなくごくごく喉を動かして飲めるのがいい。珈琲はにがくて、あつくて、飲み干すのに時間がかかる。あれは飲み物というより時間をかけて味わう嗜好品だ。そうしたものを日常的に、すきこのんで選ぶつもりはなかった。
 テーブルに置いた手の甲に兄が手を重ねて、囲うように握っていた。ビターチョコレートの色をした、むき出しの木目がざらざらするカウンター。ナチュラルでシンプルな分、値が張りそうな調度品。兄につながれたてのひらは汗をかかなかった。木製のスツールがきしむ。右側に垂らした前髪が火神の左目から頬にかけてを撫でるので、兄とくちづけるときは目をつむらなければならなかった。近づけた頬に兄の髪がふれるのは指でふれられるように心地よい。
 突然のことだったので目は開いたままだった。兄のくちづけによって設けられた暗がりのあたたかさに浸り続けた。声をかければ造作もなく注文の届くカウンター席。理科の実験器具としか思えないサイフォンのガラスのなかで、深いブラウンの液体がこぽこぽと揺れていた。兄と火神の注文を取った店員は白いネルシャツに丸眼鏡をかけて、目と鼻の先で珈琲を注いでいた。それが彼を確かめた最後。
 人がごったがえす休日の都心。時刻は午後三時半すぎ。あそびにきた兄を駅で迎え、買い物をこなした脚を休めに適当なカフェへ入った。なにか話をした気がする。兄が買ったバッシュのこととか、都内のひとの多さとか、互いの近況の詳細とか。カウンター越しに渡されたカップの中身は冷めていない。
 ふれあったくちびるが離れていった。兄は粘着力の弱いテープを剥がすように、焦れるような時間をかけた。まだ吐息のかたちがわかる近さで、前髪に指を伸ばす。額をあらわにする暗い髪の端に人差し指をかけて、ぱらぱらと梳いていった。兄の飲んだ珈琲の匂いが強くなる。昔はミルクで、ホットココアで、ぱちぱち弾けるソーダだった。コーラを飲んだ後にくちづければ、あまいといった。
「髪、短くなったな」
 まぶしいものを前にするかのように兄は目を細めた。ため息のようにぽつりともらす。
「似合う」
 その声があんまりにもひっそりとした、火神だけに聞かせるものだったので、胸に拳大の石を投げ込まれたように気が張った。夏を迎えるにあたり、黒子と揃って主将に髪を短くしてもらったのが二週間ほど前。こざっぱりとしたくらいで以前とさして変わっていないように思うのだが、行くさきざきで小さな驚きでもって気づかれる。
 兄は賑わう店内で、目と鼻の先に店員のいるカウンターで、堂々くちづけたことなどただのついでだと言わんばかりに、火神の髪を気にかける。唐突なくちづけと火神の短くなった髪を愛でるのは、兄の中では同列につながる行為なのだろう。慎重で冷静な人柄のようにみえて、兄はしばし感情のままに振る舞う。冬を終えて、ふたりきりで逢う機会を設けていくうち、それは顕著となった。それは火神だけにみせる兄なりの甘えであり、戯れであることを知っている。知っていても、こうした人目をはばからない行動には理性とこの国の一般常識とやらが、物言いたげに顔を出す。
 まばたきすら許されなかった火神は、わずかな気後れを抱きながらも兄を窘めるために名前を呼ぶ。兄の取った行動がまわりにどう思われるのか、この国でながく暮らした分知っていたから。
「タツヤ」
 つないだままの手の甲に力が加わった。愛おしむように撫でさする。
「カンザスのダイナーにいるわけじゃないんだ。ゲイカップルくらい見慣れてる」
 変わらず兄は兄弟にしては近しい距離で火神の反応を楽しんでいた。兄のあからさまな物言いに自身の眉頭の寄ったのがわかった。
「……ゲイって」
「ハニー、お前がそのつもりじゃなくても周りはそう見るんだ」
 兄は重ねた火神の指の間をこじあけて、色素のうすい指をからませる。火神は人前で、男同士で、指をからませることが、くちびるを重ねることが、必要以上に身体をちかづけることが、何をもたらすのかを知っている。もちろん、兄も。彼はこの行為がここにいるその他の目にどう映るのかをわかっていて、ままごとを演じてみせる。その振る舞いに初心な火神が戸惑うことも兄には愉快なのだろう。
 手をつなぐのはすきだ。くちづけるのも、その先も。問題は恋人同士でおこなうそれらが、ふたりにとってはバスケに興じるのと同じカテゴリーに分類されていること。恋人などと肩書きをさげて気張らなくとも兄とならあいさつのようにすることができる。兄以外の誰かで、おなじようにしたいと思える相手はいまのところいない。おそらく、兄も。
 血はつながっていないのだし、そもそも男同士であるからして、いまの関係を恋人と規定してもよいのだろう。兄と火神がつきあったところで、誰かが不幸になるわけではないのだし。でも、どこか、互いをつなぎとめる現状を恋人と称するのは、パーツの異なるパズルをむりやり押し込むようにしっくりこなかった。関係のない第三者から恋人同士と称されるのも。
「嫌か?」
 兄の、冬の湖を思わせる瞳がたのしむように火神を見上げる。見せつけるようにスキンシップを重ねる兄は、火神がいやだと口にすればあっけなく引き下がることだろう。そうかと頷き、火神から離した手でコーヒーカップでも掴むに違いない。
「言わせときゃいいだろ」
 ジャケットを着た腰に手を回して、あからさまに引き寄せる。兄は笑みを深くした。火神からこうした、世で言うところの恋人らしいことをしたのは初めてだ。腰掛けた腿と肩がふれあって、妙な気分だった。こんなことをしなくともソファに並べばくっつくし、ベッドでは脚をこするのに。
「いい子だ」
 火神の納得のいかない表情すら、彼はたのしんでいるようだった。指を伸ばして火神の前髪をぱらぱらと梳く。兄の前でそれはおもちゃだった。
「ひさしぶりに顔を合わせたときのお前も好きだったが、いまのお前はそそる」
「ペド趣味はごめんだ、ダーリン」
 髪を短くした姿でアレックスとスカイプをした。カメラに映る火神の姿を前にして、アレックスは口笛を吹いた。小学生に戻ったみてえだな、タイガ。
 彼女には好評だったこの髪を、かつての火神を知る兄もまた同じ意味合いで捉えたのだと思えば、面白くなかった。それにしても、そそる、なんて。今日の兄はいやに露骨な物言いをする。
 髪をいじる指が額にふれそうで触れない。兄は仏頂面の火神を眺め続けた。
「さして美味くもないコーヒーだが、すすりながら考えていたんだ。この店のトイレは清潔かどうか」
 指先が前髪のひとすじをもちあげたまま止まる。兄は考え込むように真顔になって火神の前髪をみつめていた。そのまなざしに身体の奥がほてり始める。
 婉曲で俗物な誘い文句とは裏腹に、兄の瞳は静かだった。本当に欲しい物を前にしたときの彼のサイン。コートの上でも火神の下でもその瞳のうごくさまを知っている。
 兄に求められるとその気になる。まだ日も高い、休日の街中にいるというのに。抑えのきかなくなるのが、怖い。
「シナモンロール頼めば」
「甘い物は好きじゃない。お前以外は特に」
 遠ざければこの返答。どうして兄は今日に限って火神を試すようなことばかり口にするのだろう。彼の腰に回した手を離して、頭をかきむしりたかった。
 兄が髪から手を離さない。火神はその手を遮ることができなかった。
「タクシーで帰らないか」
「歌舞伎座行くんじゃねえの」
「物事には優先順位がある」
 髪の先から指が離れる。求めるために伸ばされた彼の唇をてのひらで仕舞い込んでいた。
「……駅からずっと我慢してるんだ」
 てのひらの向こうで堪えるように兄がひとりごつ。火神は兄との間に広げた手の甲へくちづけた。テーブルに置かれたはカップはあれから一度も傾けられていない。ふたりして口をつける対象を間違っている。
 それでも、やめる気にはならなかった。
「マイアミでいくらでもしてやるよ」


 彼の喉からあぶくのような吐息がもれる。長く深いくちづけを終えた後の小休止。急き立てられるばかりの鼓動は激しく、吐き出す息は落ち着かない。吸って吐いて吸って、もっと空気がほしい。そうしなければ身体がこのあとに応じてくれない。
 扉を閉じたせまい玄関で、靴を脱ぐことすら面倒で貪り合った。つながるために露わにしたそこは互いを受け入れ、なじむために深い刺激で求めようとする。
 ひらいた兄のそこはやけどをしそうなほどの熱で潤んでいた。上り框を背にして火神を受け入れた兄は苦しみとは無縁の声をとぎれとぎれに漏らす。
 ながい口吻の間に火神は腰を動かし、兄は靴を履いたままの脚を絡めて衝動のよろこびに浸る。そうして示し合わせたように唇を離した。身体中から汗が噴き出して、服にしみこんでいる。
「タイガ」
 兄が背にまわした腕に力を込める。せわしなく音を立てる呼吸の合間、火神は胸元にうずもれる兄が笑んだような気がした。
「いまのお前はあの頃と似ていないよ。俺の知らない男だ」
「似てないだけ?」
 兄は火神を引き寄せると首を伸ばして耳元でささやく。うすくなった珈琲の薫りが鼻先をくすぐった。
「死ぬほどタイプ」
 ふたりしかいない室内で火神だけに聞かせるためにひそめた声の、ひとつひとつが耳介にあたって弾けた。兄の寄せた左耳だけがじんわりと熱を持っていく。髪のかからない、むきだしの耳があつい。
「お前のせいでバッシュに集中できなかった。合わなかったらどうするんだ」
 本心ではない軽口をたたきながら、火神の背中を靴を履いたままのかかとで小突く。買ったばかりの靴は袋から出されることなく玄関に横たわったままだ。
「もっかい買いに行こうぜ」
「脱ぐまで付き合うか?」
「ガラスの靴は脱がすまでがセットだろ」
 火神の答えに兄が吹き出す。ふるふると笑いを堪える腕がはやくと背中をかき抱いた。
 靴を脱ぐのはまだ、先になりそうだ。

カッフェで茶をしばく兄弟の図



(2016/8/11)
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