むすんでひらいてまたあした



 月に一度だけ、氷室辰也は練習を早退する。
 決まって金曜日に。週はばらばら。
 コートに残る部員たちに指示を残して、陽泉高校男子バスケ部の主将は体育館を後にする。体育館の鍵を閉め職員室に返す役目を負うことの多い主将が、自主練習を行うどころか部活の途中で姿を消す。そしてそのまま月曜まで戻ってこない。
 春に入ってきた、主将としての氷室しか知らない後輩たちは声に出さずともみな疑問に思う。たった二日三日といえど、部活を犠牲にしてまで優先すべき事柄があるのかと。練習の鬼である主将が部活を休む、その理由とは。
 ほかの部員に尋ねても的を得た答えを出す者はいなかった。ただ、表立たなくとも監督が認めているという点で、外野が口を出すことではないだろうという判断だった。
 ややとっつきにくい、不動のスターティングメンバーに恐る恐る訊いてみたところ。

「んー家族との交流?」
「紫原にとっては都内・関東限定および東京駅限定菓子を買ってきてもらういいお使いアルな。特に駅限定モノはプレミアついてて入手困難なの知ってるアル? 通販じゃ扱ってないアルよ」
「だってー室ちんが買ってきてくれるっていうからー。俺じぶんから買ってほしーなんて言ってないしー」

 もはや存在こそが伝説ともいうべきエースの片割れは駄菓子をぽりぽりと齧りながら、いつもの調子で。とぼけた発言の多い彼にしてはまだまともな、手がかりらしきものを口にしたと思ったものの、いまだ輪郭は掴めない。お国柄ジョークを体現しているのか、アルを語尾に多用する最高学年といえば、主将と親しいにもかかわらず趣旨に沿う気もないらしい。

「もー俺あーゆーめんどくさいのやだからさあ。まさこちんもその辺わかったんじゃないの? だから月に一度のガス抜き。室ちんグレー企業のサビ残くらい自主練とバスケしてるから、三日ぐらい抜けてもどーってことないし。むしろもっと休めって感じ?」
「それでもほどほど心得てるから故障とは無縁アルな。監督がストップかけない限りは安泰ってことアルよ。部長職にしたって監督がいるし俺たちもいるアルし。そもそも氷室自身が指示飛ばしてから消えるからな、差しさわりのさの字すらないアル」

 いつになく饒舌な彼らの核心に触れることのない物言いは、部でしか関わり合いのない後輩たちを煙に巻くようだった。氷室がいなくとも部に影響はない。だから気にするな。そうした意図を彼らは言葉よりも態度で強く訴えていた。
 
 ただ、他人との交流には最も縁遠そうな彼が、偶然にもこぼしたことに。
 
「室ちんは弟と会ってるから」

 彼は残り三分の一ほどになった蛍光色の溶液を管の果てに溜めたまま、くわえたプラスチックの表面に深い噛み跡を残していた。くちびるから離れたために、吸い口である端に浮き出た彼の歯形が覗いたのだ。彼が歯ではさんでいたその管は初めから常温で、中身を吸い上げるために容器を噛む必要はなかった。

「そのときぐらい、あのひとの好きにさせてあげて」

 自身が吸う溶液に負けず劣らず、鮮やかな葡萄色に染まった長い髪の間から覗く彼の、幼さの消えた表情。ふたりきりの部室で彼が露わにした面立ちと言葉が、いつまでも頭に残った。
 主将の、氷室の足取りを想像する。
 時刻は午後五時。着替えもそこそこに急いで学校を飛び出して、最寄り駅までバスで移動する。ようやく車両に乗り込めば、小さな地方駅から関東への線路が敷かれている秋田駅まで、約一時間半の道のり。がたがたと車輪に揺られて駅に着けば、十分にも満たない時間のなかで乗り換えて、今度は新幹線で過ごす約四時間の陸路。
 一日の最終便で東京駅に着くころには日もとっぷり暮れて、日付が変わるまで一時間あるかないか。終電間近の電車に乗り、都内を横断したところで、ようやく弟の住む区域の最寄り駅に着く。
 そこから家に向かって歩くのだろうが、彼はきっと疲れてなどいないだろう。心を弾ませ一刻も早く扉を開けて弟と対峙するために、眠気を吹き飛ばし足を動かす。
 幾度も通った道筋の端に明かりのついた窓が見えてくれば、長い旅路も終わり。
 ドアが開けば弟が、彼を出迎え招き入れる。扉が最後の客を見送れば、廊下はようやく夜の静けさに包まれるだろう。
 そう、氷室辰也の休日は真夜中から始まる。



「……っ、あ、ああ、ア」

 己のなかに差し込まれていくそれを感じて氷室は喘いだ。男の手によってぐずぐずにとけた肉が男を受け入れるために、迎え入れたことによろこびを伝える。
 本来ひらかれるべきではないそこが貫かれ穿たれて感じるはずの痛みは、とうに快楽へと成り果てていた。痛みすら、氷室にはかけがえのないものだった。
 二年の空白を設けていても。互いにそこだけをすり寄せる場と定めていたのだろう。
 ひとつきの間溜めこんだ衝動と男によって煽られた熱が、ぞくぞくと氷室の雄にのぼりつめる。氷室は堪えることをしないまま、身体のさせるがままにした。その激しさに目をつむる。
 ひくんと大げさに揺れた先端から、どろりと熱が飛び出す。欲の求めるままに背を跳ね、腰を揺らし、声を上げれば、どっと全身に汗が噴き出す。
 どこか酸欠に似た息苦しさとめまいを思いながらゆるく目蓋を上げれば、かわらない男のすがた。
 硬くしならせたままのそれを氷室のなかに差し入れ、折り曲げた脚の間に腰を据えた、弟という名の氷室のおとこ。
 弟のゆびが氷室の額に触れる。汗を含んで散った前髪をゆっくりと払い、視界を鮮明にする。
 指がはなれなければいい、と思った。
 男を感じることのできるこの氷室の皮膚から、離れなければいいと。
 どうかもっと、こちらから跳ね除けるほど厭くまで、氷室の肌に触れ続けてほしい。なかで繋がっているだけでは、足りない。そんなもので足りるはずがないのだ。
 もっと、もっと。呪詛のように氷室の肌に、身体に、心に、その面影を残してくれなくては、次の逢瀬まで耐えきれない。
 おとうと。そんなものを定めているのは氷室と、この男だけだけれど。火神と身体を重ねるたびに思うことが、ひとつ。
 氷室は己の選択に疑いを抱かないようにしている。自分の選んできたそれぞれは正しくはなかっただろうが、悪くないものだった。現状に不満を抱くこともなく、むしろ今後の展開は楽しみでもある。それが苦い過去の上に成り立っていても。
 だからこそ、ありえない仮定を思わずにはいられない。
 転入先をより南に向けていたとしたら。
 もし、もっとこの男のちかくに居を築いていたとしたら。
 こうした、身を持ち崩してしまいそうな焦燥を抱かずにいられたのではないか、と。真夜中だというのに眠気さえ遠ざけ、狭い寝台で汗を散らす自分たちときたらまるで、獣のようではないか。
 火神の左の指が白く散った氷室の先端をゆるくぬぐう。
 とうに茜に露出したそこはへたることなく、一定の硬さを保っていた。
 かるく閉じた目蓋を、ひくっと揺らす。
 指が止まり、気遣うように火神の右手が氷室の頬に触れた。
 じわりと、目蓋の内側で涙が満ちる。
 弟はわかっている。氷室がなにを思っているか。氷室が何を求めているか。こうして互いに身体をつなげて欲を散らさなくてはならない理由。
 声を交わして文字を送って、それだけでは済まされない。深いところ、誰にも暴くことのできない底で、言葉にならないものを共有している。
 意思の疎通だけで、互いを思いやる気持ちだけで満たされなかった。そうある関係であればどれほど救われたことか。
 それこそ、白線で区切られたコートの中でボールだけを介したきょうだいでありたかった。
 どちらが悪いわけでもない。身体をつなげなくてはならない宿命だったのだ、おそらく、きっと。そうした熱に浮かされたような馬鹿げたことでも掲げなければ、やっていられない。
 火神の左手が氷室の先端から離れる。ひくつく小さな孔から、垂れた白い熱を拭い終えたのだろう。氷室の雄からわずかな精をぬぐったところで、火神も氷室も、氷室の放ったもので白く腹を汚しているのだけど。そうしたことは、弟は気にならないらしい。
 倒れこむように火神が、肌を寄せる。横隔膜がひくつくように心臓がひどく、跳ねた。
 一度達した氷室を味わった後でも硬さを失わないそれが熱い粘膜をやわらかく抉り、奥をひらく。いかつい先端のくびれが、氷室の指の届かないそこをこすってなおのこと居座るのが、たまらなくきもちがいい。
 脳の奥のどこかに電気が流れて、とろりと溶けてしまったようだった。火神に触れられるたび、火神におもく揺らされるたびに理性が使い物にならなくなる。とけて、とけてとけて、だいじなものがかたちをなくす。この男の前では不要なのだと身体が脳のうすい皮をとかしていく。
 腰は痺れてしまったようにあまく鈍く、ただ、内側だけが求めていた。
 自分でもわかる。己だからこそわかるのかもしれなかった。
 一度放ったそれは、ひとつきの間溜めこんだ熱だ。前座を終えてようやく、身体がしなやかに伸びていく。おとうとを求めようと肉が熱がしがみつく。
 互いに噴き出た汗が、互いの肌をくつけてしまうように吸い付けていた。
 おとこの身体は重かった。重くて、硬い。男なのだ、互いに。だから弟も下敷きにした氷室の身体を、石のように感じているかもしれない。
 その重みが、硬さが、一向に不快に思わなかった。まるで女のようだと思う。女のように弟を求めている。だがおそらくこの場合ただしいことばは、女では済まされない。
 首に鎖は、胸に指輪は、ない。ふたりでいるときにそれは、邪魔なものでしかなかった。
 ベッドサイドに置いたそれはふたつ一緒に重ねたから、もしかしたら鎖が絡んでしまっているかもしれなかった。からまって解けなくなってしまったら、鎖を切らなくてはいけない。だけれどいつだって、鎖はきれいに離れたのだった。絡まっていたことすらわからないほどに。

「たいが」

 氷室は肩口に寄せられた頭に触れた。
 己とは異なる、だけれど親しんだその硬い髪を手のひら全体で味わった。手のひらを刺すその感触が、たまらなく愛おしい。

「……たいが」

 この気持ちを何と呼べばいいのだろう。
 一方的な快楽の道具に対して抱くには温かく、他者へ向ける愛にしては情が勝る。
 正体のわからない思いだからこそ、氷室はこうして繰り返しおとこを呼ぶ。
 いいや、本当はわかって。

「たい、が」
「……ああ」
「なかに、……おまえの、が、おまえ、が」

 ああ、ともう一度繰り返されて、身震いした。
 応答としての答えだったのに、この男に息をつかれただけで、身体がそうであるようにふるえた。
 なにか、もうだめなところにまで、自分はきているのかもしれない。

「……っ、たい、が」

 ん、と喉だけで尋ねられる、頷かれる。
 言葉を用いられなくとも、己に向けられる男の意識のなかみがわかった。
 おとうとはとうに言葉を用いることを放棄している。氷室もまた、とりつかれたように男の名前ばかり呼んでいる。
 まるで動物にでもなったようだ。
 切れ端のように母音しか出せない男と、男の名前しかことばを与えられていない自分。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 いくら早熟だったとはいえ、西のあの地ではまだ節度があった。いまよりももっとけものに近しい幼さで、狭い世界しか知らなかった。
 ふるさとであるはずの東のこの地は、まるで緑の檻で囲まれた亜熱帯のように、理性を常識を社会を灼き切ってしまう。檻のなかにはふたりしかいない。
 深く息を吸うために口を開いた。
 生きるために行うそうした動作ですら、なかでつながっている火神を、肌で触れている火神を感じる手段として働いてしまって。
 ふかい快楽の底に沈められるように、身体の至るところが悦びの連鎖でつながる。
 みな、こうあるものなのだろうか。
 身体の端々から染み出る快楽にぞくぞくとわななきながら、火神の背に腕を回す。己よりもたくましいその肉体を、男の腕でかき抱く。
 子を成すためにする行為にこれほどまでの快楽が必要なのだろうか。みな、この体験を経て子を世に送り出しているのだろうか。もちろん受け入れている箇所はことなるけれど、行為の本質として変わりはないはずだ。
 むしろ、本来ひらくべきではないところを無理やり拵えて代わりにしている。氷室の方がよほど、受け入れる側が得られるべき性感よりもちいさいというのに。
 こんなことを毎晩くりかえしていては、まともな生活など送れない。
 指で、手のひらで、広げた傘のように肉のついた男の背をたどる。
 弟を満たすためというよりは背中に張り付いた筋繊維の感触を味わうために、手を動かした。触れあうように重なった頬にくちびるを寄せる。氷室と同じように濡れて冷えた髪の先が肌をつめたく濡らそうと構わなかった。

「うごいて、くれ。もっと、おまえの好きなように」

 最後の方は鼻声になっていた。
 望みを伝えるだけだというのに、己の欲をことばとしてこの世に出すのがいけないことのように思えてしまう。おとこにそうあれと望むことがどちらの身にも余る罪深い行為のように思えて、ためらわずにはいられない。

「すきにして、いいんだ」

 それだけをやっとのことで伝える。
 泣きたくてたまらなかった。胸で激しく渦を巻くこの感情が何を意味するのか、何をもたらそうとしているのか氷室にはわからない。それを楽観的にも悲観的にもとれるだろうが、判断を下したくなかった。した時点でそれは価値をなくすだろう。
 この世で最も信用のならない生き物はこの己なのだから。
 背に回した腕の、背骨のかたちをひとつずつ辿る指の下で、弟が息づいている。
 火神は自身のすきにすることが、氷室を悦ばせるとわかっているから。
 ゆっくりと身体を離すと、氷室の眦に触れた。心配する必要はないのだと、思い詰める必要すらないのだと示すように、折り曲げた人差し指の背で氷室の右目の下を淵に沿ってゆっくりとなぞる。己と同じように涙の膜を湛えた、光彩の異なる瞳が重なる。交わしたまなざしが示す答えに、氷室は安堵して。
 中心に杭を打ち込まれたように、身体に重みが走った。もたらされた揺らぎはつながったそこから腰に強く響いて、振動とともに激しい悦びを身体中に散らしていく。
 開いた両脚の果て。ふたりの間で最も深く重なり合っているそこがこすれて、ふれて、音が生じる。水を跳ねたような、水をつぶしたような鋭くちいさな音。だけれど鼓膜に残って、いつまでも耳介をあかく熱らせつづけるそれ。
 息をつく間もなく男は望み通りに腰を動かし続ける。押して引いて、また押し入って。男のきもちいいように動くことこそが、氷室にもまばゆい恍惚をもたらした。
 許しを得た火神の雄が氷室をひらき、暴く。しなった茎。かたい雁首。火神が腰を寄せるたびに奥が拓かれ、己の尻に火神の腰がぶつかってまた別の音を立てる。
 皮膚を通じて肉と肉がはじけるそのあからさまな音は、氷室をじっとりと濡らしていく。
 男の身体全体を使って深く重く揺すぶられるのがたまらなくいい。まわりというものを考えず、ただ欲と心と身体の赴くままに動く弟がひどく好ましかった。
 眠りにしては派手な音を立ててベッドが揺れる。新たに流れた汗で濡れた髪が望むままに散らばる。ふたりを受け止めているシーツはとうに熱くしめって、使い物にならなくなっている。
 こうして身体を、恥もなく弟に明け渡すことで得られる充足感を、氷室はこのときに最も強く感じた。小手先の遊戯では満たされない。自我を置き去りにし、思考することさえ忘れてしまうような苛烈さでなければ弟とはつながれない。それが好いのだと互いに知ってしまったから。
 熟した氷室の内側でとうに張り詰めたものが、重くしなやかに終わりに向けて準備を始めている。弟が氷室を揺らし、つながった箇所をひらくたびに、氷室もまた今度こそ弟だけの熱によって果てを目指すことができそうだった。
 それでもまだ、終わることはない。
 夜はまだ始まったばかりで、陽があたりを白く染め上げるまでには、たっぷりの時間が残されていた。
 ふたりにとっては千夜と見間違うほどの、焦がれた一夜なのだから。



 氷室は重い身体のまま目を覚ました。
 流した涙の跡がいくつも睫毛に残っている。そうした額で縁取られた視界をうまく働かない頭で確かめようとした。
 うすぐらい室内。閉じたカーテンの隙間からはまだ明るい日差しがこぼれていない。開いていたはずの窓は閉じていたようで、そこから風が通っている様子はなかった。
 思うさま身体をつなげた余韻が空気に混じっているのを感じる。いくらシーツを替えようと行為の後のあおくさい匂いは残るものだ。
 膝がしらをぶつけそうな近さで寝台を分け合った弟がいなかった。己の傍らにあるべきはずの身体は消え、皺の残った空白だけが氷室の前にある。
 ゆっくりと身体を起こした。身体のあちこちがぎしぎしと音を立てるように違和でもって氷室の行動を非難する。腹から下、特に腰に重いだるさが残っている。両脚の間になにかが未だ這入り込んでいるかのように、自分のものとは思えない。
 声を出そうとして、喉にひりっと痛みが走った。己はなにをしたのだっけ。ああそうだ、最後の方は覚えているだけでも、ひどく叫んでいた。
 よく隣から壁を叩かれなかったものだ。意味をなさない音、それこそただの声と化したものばかりを、長くながく。
 かけられたタオルケットを皺にして、ベッドから降りようと腰を動かそうとする。
 すこし、身体を動かしただけであまい痺れが走り、それだけで身体の奥の熱がちり、とまたたいた。その熱のかたちと意味するものなどわかりきったもので。
 ああいけない。散々身体をいたぶったはずなのに、欲が尽きないなど。あさましい。あさましいべきであるはずなのだ。だけれど。
 氷室はその熱を、行為の代償として生じた違和を、心地よく思わずにはいられなかった。ひとりでにくちびるが喜びのかたちを描く。氷室ひとりのためだけの感情の発露としてあらわれた微かなえくぼに、指を伸ばした。
 だって、仕方ないではないか。まるで、あの男がまだ己のなかに入っているかのように思えて、ならないのだから。
 欲は頭からもたらされるのか、身体からもたらされるのか。そのどちらもあるだろうが、いま氷室の身を再び苛もうとしているのは、確実に後者だ。
 そうした些末なことを思いながらも、それだけのことを考えてしまうだけの余裕と理性を伴ったままの己を呪う。
 知っているのだ。こうした細かな戯言を考えるだけの余力を持った思考に嫌気がさしていることを。結局は外界の尺度を気にかけてしまう自我とやらを粉塵に帰してしまいたいのに。
 だけれどきっとしばらくは、こうあり続けるのだろう。社会から逸脱しない程度のおままごとを何度でも繰り返す。すべてをかなぐり捨てるにはふたりはまだ若く、世間がもたらすものに未練を持っている。お互い俗世とやらに別れを告げる気がないからこそ、こうして氷室は線路をたどって月に一度だけ火神のもとへ会いにくる。
 そうした数々の制約を果たしていくのも、嫌いではないけれど。
 自分のものではないような足で床の上に立って、寝室を抜け出す。ぎこちない歩き方で廊下からリビングへ入れば、弟が台所で裸のまま、なにかを切っていた。弟の住むこの部屋の間取りは、廊下を抜けてリビングの戸を開ければすぐにキッチンが見渡せるので、足を踏み入れた途端肌をあらわにしたままカウンターの向こうに立つ弟の姿を目にするのは、すこしおかしかった。おそらく下も穿いていない。裸体にまとうタオルですら。そういう氷室はといえば、弟と寸分もたがわない姿をしている。おかしいのは弟ではなく己をも含めた自分たちだというのに。
 なぜだか、いつからそうなったのかもうわからないのだけど。火神と氷室の間ではとうに恥じらいなど意味をなくしていた。己の姿を晒すことで恥じらうよりもその先の行為に優先順位を立てることを望んでいたし、衣服があろうとなかろうと構いやしなかった。それはこうした行為の後だと、顕著に。

「起きたのか?」

 たったそれだけの言葉で、氷室の内側に穏やかな感情の波が寄せる。
 ああ、弟だ、と。
 その声。そのことば。氷室の知る弟がそこにいる。
 弟もすこし、いつもより声が低いような気がした。氷室のように叫びはしなかったけれど、数時間交わったことで弟もまた行為の余韻を身体に残している。
 時が経てば、終わってしまえば夢のように跡形もなく消えてしまうものだけれど、こうして互いが行為の証明を果たしていることに、わけのわからない喜びが足下からせり上がってくる。
 また氷室の内側で火が、灯ったような気がした。

「まだ寝てていいんだぜ。日が昇るまで時間あるし。……身体、つらくないか」
「いつも通りだよ。たいしたことない」

 目の前で一糸まとわぬ肢体を晒す兄に、火神はただ気遣うだけだ。それは平時の感情そのもので。
 弟はすこし、困ったような顔をした。心から氷室の身体を気遣っているからこそ、不安なのだと思う。明かりがついていない、置かれた家電の通電を示すちいさなランプしか目印のない広いリビングの中。カーテンを開けた窓から外の街灯がうっすらと差し込んで、それだけしかなかったけれど。暗闇に慣れた目では、それだけで事足りた。
 火神のもとへ近づいていく。身体のあちこちのねじが弛んだりきつく締まったりしていたが、気にしていられなかった。
 カウンターキッチンを挟んで弟の向かいに立つ。弟は果実の皮を剥いていた。何にでも使える大ぶりの刃先を器用につかって、繊細そうな皮をするすると。
 白と薄紅とくれないと。さまざまな白と赤がふくざつに絡んでいるひとつの実。
 刃を通した先から果汁を滴らせる熟れた水蜜桃が、夜明け前の流し台で実を晒して剥かれている。

「喉、あんま無理して使うなって。もっかい寝て起きたら、はちみつ生姜つくるから」

 ばれている。この調子では身体がいつも通りではないこともお見通しだろう。
 弟と身体を重ねて眠りから覚めたその朝はこうして喉を痛めることが多い。だから火神はその対処法も慣れていた。
 だけれど、こうして夜と朝の間に果物を剥いていたことはない。

「桃?」
「水戸部先輩が親戚からたくさんもらったって。水戸部先輩んとこ大家族なんだけど、それでも食べきれないからって分けてもらった」
「ああ、いいフックシュートをする……」

 火神の手によって桃がその実を露わにしていく。
 それが、先まで己の身体のいたるところを愛でていた、ボールを手繰るために厚くかたくなった手のひらなのだと思うと、背と腰におぞけを伴ったあまい痺れが生じた。その手がやわらかく、ボールを満足に掴むことのできなかったかつてをも思い出せば、いやでも内側が熱を持った。
 弟に桃を渡したチームメイトのその大家族とやらが何人を指すのかわからなかったが、なんとなしに氷室は、他者から寄せられた恵みを誰かに分け与えるために彼が果実を譲ったのではないかと思った。根拠などなかったけれど、弟のひとり暮らしという配慮を抜きにしても、そう思えてならなかった。
 弟の手に果実を乗せた彼の心根の清らかさ。己にはほど遠い。
 おそらく氷室の浮かべた相手は間違っていなかったのだろう。火神は訂正こそしなかったものの、からかいと感心を込めて、ほんのすこしの揶揄を含ませる。

「タツヤはいっつもそれだな。なんでもバスケで覚えてる」
「そうじゃない奴もいる」

 深い意味を込めたわけではなかった。
 だけれど火神は答えぬまま、返答の代わりに果実の切れ端を差し出した。
 指でつまんだ、ひとくちというには大きな、先まで弟の手の内に収まっていた水蜜桃のかけら。言葉がなくとも己のために差し出されたとわかるので、氷室は口を開いて弟のなすがままに果実の切れ端を含んだ。
 みずみずしく、甘い。
 噛んでもいないのにじゅわりと溢れるほどの果汁がいっぱいに広がった。大きく開いてすべてを受け入れたのだけど、呑み込めなかったしずくが唇を伝って顎に垂れていく。右の足の甲にしずくが落ちたのが、わかった。
 氷室の口に果実を差し入れた弟の指は、したたるほどのあまいそれで濡れていた。
 視界から生じた熱いものが氷室の下肢をふるわせる。目で確かめずともそこはすでにゆるくたちあがっていて、次の熱を、ともしびを訴えている。弟からは見えていない。身体の奥ですこしずつた溜まっていた欲が、またどろりとふくれあがっていくのが手に取るようにわかる。
 いけない。まだ夜も明けていないというのに。けれど、そうあるよう望んだのは。
 あまい果実に歯を立てる。刃を立てられた断面のなめらかさを舌で辿る。つめたい果汁が喉を満たして内側へと落ちていく。
 火神が頬に触れた。寝台で折り重なっていた時と同じように。
 ぬれた唇の輪郭を親指でなぞり始める。
 果実を剥いたままのその手は、つめたい蜜で濡れている。氷室の口内を満たしているものと同じ、糖を含んだ甘露。
 火神の冷えた指が、内から熱を発し続ける氷室の肌に重なる。一度達して白く染まった氷室の孔を拭うように、火神の分け与えた果実を味わうそのかたちをすぼまりを、親指で味わっている。
 男の意図もまた、そのときと同じ。
 自分はいまどういった顔をして、弟の前に立っているのだろう。
 噛みつぶした果実を呑み込む。喉を通ってひしゃげたそれが、胃の淵へと落ちていく。
 氷室のくちのなかには、あまい果汁しか残っていない。

「……っ」

 火神がかすかに身体をこわばらせる。氷室は物足りなく果実を乞うようにくちびるに舌を伸ばした。己のくちびるを愛でる火神の親指にも、触れる。
 弟の身体の一部のように、滴る果汁を求めて舌を這わす。
 ちいさな亀裂のような爪と肉の境目、やぶれたところのない甘皮。すこしざらつく指のはら。

「タツヤ……」

 のみこんだばかりの桃のように熟した弟の声が、氷室の名を呼ぶ。弟の唇が己を求めるため、ふるえるように揺れた。なかでふくれあがる熱は氷室が抱えているそれと同じものに違いない。
 いつしか欲によって熱く濡れたまなざしを向けられていた。目の前の相手を求める、物欲しそうなその顔。おそらくきっと氷室も同じ面立ちをして火神の前に立っている。
 火神の指がくちびるから離れた。氷室のあつい唾液を足跡のように残し、添えられていなかった親指が他の指とともに頬へと収まる。いまの火神にとっては自らの指に滴る氷室のそれこそが、何よりもあまいものに映っているに違いなかった。
 ことばなどいらない。ふたりは互いに身体を伸ばして、カウンター越しにくちびるを重ねた。