タツヤに抱かれてえ



「嘘、だろ……」

 授業で用いるノートよりも薄い冊子の奥付を前に、火神大我は呻いた。発行日とメールアドレスを記したページの隣は材質の異なる厚手の用紙で、表紙の裏に当たる無地のそれは物語の終わりを示している。
 昨夜届いたばかりの、初見の冊子を読み終えてしまっていた。台詞の少ない、コマの大きな三十ページたらずの漫画冊子なのだから、さほど時間を必要としないことは傍目にもわかる。火神もそれは承知していた。しかし、読者である火神を呆然とさせた理由は別にある。
 火神が開くフィルムコーティングされた表紙には年齢制限を示すR18の文字が愛らしく踊っている。だが、物語の終わりまでページをめくっても火神の期待した展開が描かれることはなかった。見えないインクで物語の続きが描かれているのではないかと受け入れがたい現実に一縷の望みを託すように、火神は何度も奥付のページと白紙のアートポストに目をこらした。それでも、確固とした事実を突きつける冊子を前に、とうとう悲痛な叫びを漏らす。
「タツヤのがっつり種付けセックスは……?」
 本を閉じ、表紙を見直せば間違いなくR18と記されている。ページをめくり、最初からぱらぱらと内容を追った。貼り付いていたり、重なっていたりして見落としたページはない。ハッピーエンドのラストを確かめて、ふたたび本を閉じた。大きな瞳にいくつもの星が輝いているふた割れ眉の愛らしそうな少年が、後ろからすらりとした美麗な男性に抱きしめられて恥ずかしそうに頬を染めている。料理の途中だったのか、短い赤毛の少年はフリルのついたピンクのエプロンをかけ、手におたまを携えていた。ふたりとも結婚指輪のように、銀の指輪を通した鎖を首にかけている。
 火神は本をひっくりかえして裏表紙を眺めた。そこには星をかたどったローマ字で【Himuro×Kagami】と記されている。火神はもういちど本を表にして表紙を見た。R18。つまり、性描写を含んでいる可能性があるということだ。だが、火神が待ち望んだ展開は本文に描かれていない。
「氷火本なのに、R18って書いてあんのに、俺らセックスしてねえ……えっ、これ全年齢? えっ、R18って書いてあっけど俺以外の目には全年齢って見えんのか? キス……はしてっけど、セックスよりすげえキスってことか……? 俺ら服すらまともに脱いでねえぞ……? 修正線も見えねえ。気づいたらふたりでベッドに入って朝を迎えて……どういうことだよ、キスしたら妊娠すんのか……? キスってそんなやべえもんだったのか……?」
 閉じた本をテーブルに置き、うなだれるようにソファへ寝転がった。首にかけたリングが重力に従って鎖を伴い、ちいさな音を立てた。床に転がっていたバスケットボールに手を伸ばし、ぬいぐるみを抱くようにぎゅっと胸へ閉じ込める。ハリのある胸筋がたやすくボールを弾くもいつものことだ。気にすることなく腕の力を強める。横向きにした身体から、テーブルに積んだ薄い冊子の山が見えた。
「タツヤと……セックスしてえ……タツヤ……」
 下腹部に溜まる疼きを感じて、声もなく熱い吐息を漏らす。放ったばかりの冊子がテーブルから消えていた。読書のために淹れた紅茶のマグが移動し、おやつに用意したチョコレートがけのクッキーがひと粒なくなる。
 幼い頃から抱いていた兄―――氷室辰也への思慕は望まない断絶によりふくれあがり、ふたたび日本で再会したことを契機にとうとう抑えのつかないものになった。氷室に抱いている感情の名前は知っている。異性に抱くものと何ら変わりない、恋。年上の同性への憧憬は性欲を伴い、競技で決着をつけるまでは気軽に声をかけられない環境が拍車をかける。仲違いをどうにかして解消した頃には、恋という名の欲望と氷室への思いはねじくれてしまって、手の施しようのないものに変わっていた。
 性欲と結びついた兄への恋心は火神に妄想の翼を与え、経験の外の事柄を生々しく脳裏に描かせる。都合の良い妄想の中の氷室は、決まって火神を抱いた。火神が抱かせたといってもいいのかもしれない。成長した氷室の裸を見たこともないというのに火神は氷室の姿を想像し、氷室に抱かれる己で性欲と満たされない思いを解消した。兄に思いを伝える日が来ることはないし、兄が同じように火神を好いているとは、とても考えられなかったから。
 とはいえ、個人の想像力では限界がある。秋田に住まう氷室と頻繁に顔を合わすこともない。そこで手を出したのがDOJINSHIだった。初めは【氷室×火神】の全年齢健全らぶらぶDOJINSHIを一冊だけ購入し、本の中で描かれる幸せそうな自分たちに涙した。恋をしたように左胸の鼓動をとくとくと鳴らして手に入れたその本は、ページが跳ねるまでくりかえし読み耽った。本には描かれていないその後を考えながら下腹部に満ちた疼きを収めたこともあった。
 一冊、また一冊。様々な書き手の描いた薄い冊子を手に入れ読んでいくうちに、火神は年齢制限の壁を突破して、鮮烈な体験を味わった。R18と表紙に記されたその一冊で火神は腰が砕けるほどの悦びに浸った。とはいえ【氷室×火神】のDOJINSHIは少ない。読んでしまった本は火神にみずみずしい喜びを与えない。火神はその他のDOJINSHIにも手を出した。【氷室×】と記されたものであれば、内容を確かめずに購入した。そうして気がついた頃には氷室フェチがいきすぎて、氷室が誰かを抱いているものであればどんなものであろうと読むことができるようになっていた。性別や相手は関係ない。凜々しい兄が己の欲を注ぎ込む姿を見ることができるのであれば、火神はそれで興奮した。
 もっと、刺激のあるものを。もっと、好みに合ったものを。そうしてフローリングの床に冊子のタワーマンションをいくつも築いたが、本を重ねれば重ねるほど火神は満たされなくなっていった。
 火神は気付いてしまったのだ。理想の氷室辰也は、火神の頭の中にしかいないことに。いくらページを増やしても、現実の兄に勝るものなどない。
 それでも習慣付いてしまったものは変えられない。ゆえに火神はこうして、新たに届いた氷室攻めDOJINSHIの内容をチェックしている。下腹部がじぃんと痺れて自ら脚を開きたくなるほどの理想の氷室と出会うために。ベッドサイドにまで持ち込めるような、今晩のおかずになるシチュエーションを得るために。
 昨夜届いた本はひさしぶりの氷火新刊、それも新婚らぶらぶセックス本であると紹介文に書かれていたというのに、とんだ期待外れだった。年齢制限を設けるのであれば見合った性描写を描くべきだろう。本文は角砂糖を噛むような甘い新婚生活だった。だが、セックスを省略して翌朝にもっていくのはいただけない。火神が求めているのは、イケメンフェロモンに溢れたスタイリッシュな攻め氷室だ。少女漫画のプレイボーイに割り当てられるような、誘い上手な床上手。性格に難ありだろうと、むしろそれがそそる。
 兄が誰かをがっつり抱いている本が読みたい。射精しても抜かないで妊娠確実なセックスプレイが切実に読みたい。兄のそうした姿さえあれば、いくらでも頭の中で相手を火神に置き換えることができるのだから。
 氷室に抱かれて受けになる。それは火神の夢だった。
「いつものことですが火神君、きもちわるくてこわいです。君といるとブラコンの恐ろしさをひしひしと感じますよ」
 やわらかなソファの脚を背もたれにして、本を読んでいた黒子がくるりと振り返る。口をもごもごと動かしているのはクッキーをつまんだからだろう。紅茶で満たした黒子のマグが、いつの間にか彼の足下に移動していた。
 黒子も火神が積み上げたタワーマンションの愛読者だった。初めは火神の部屋で見つけた薄い冊子を本なのであればと興味本位で開いたが、今ではこうして新刊を読み合い感想を述べあう仲だ。こうして火神の趣味に減らず口をたたくも、相棒である黒子の言動は気心の知れたものとわかっているので気に障ることはない。気に入らないのであれば黒子の性格上、まずDOJINSHIを開かないであろうし。
 火神は感情を抑えるように、胸に押し当てたボールに力を込めた。そうしてぐずぐずと駄々をこねる。
「くろこお、だってよお……なにも俺は氷火のエロが読みたいって訳じゃないぜ。タツヤが誰かをかっこよく抱いてるところが見てえんだ。それなのにエロ同人がねえのはおかしくね。俺は! 男性向け並みにタツヤが男女を抱いてる話を読んで! ぐっちょぐちょになりてえ! ケツから生理が始まるくらいにな!」
 最後の方は黒子にしか明かせない主張になったために、身体を起こして力強く叫んでいた。ぎゅっと握りしめた火神の拳を前に、黒子が呆れる。
「それ氷室さんの前で言ったらいいじゃないですか」
「それとこれとは話が別だろ。2次元と2.5次元と3次元ばりの超えられねえ壁があるぜ」
「えっなにをいっているんですか君は。こじらせブラコンとても怖い」
 黒子が真顔で火神を凝視すると同時に、訪問者を知らせるチャイムが鳴った。勝手知ったる黒子はインターフォンに出て、画面に映る宅配業者の姿を見る。
「こんにちはー。とらのあなるさんからでーす」
「あ、ありがとうございます。ご苦労さまです」
 オートロックを開いた黒子は、ソファに腰掛けた火神を一瞥した。何が届いたのか、黒子に言われなくともわかっている。
「火神君、君が注文した暗黒の書が届きましたよ」
「色気ねえな、タツヤ総攻めボックスって言えよ」
 今度は部屋の扉の外側に設けられたチャイムが鳴り、黒子は「はい」と呼びかけながらぱたぱたと廊下を駆けていく。玄関の扉が開いて、やりとりをしている物音がソファにまで聞こえてきた。通販を利用しているために、頻繁に配送業者が部屋を訪ねる。新刊が届くたびに部屋でDOJINSHIを読む黒子には、印鑑の位置まで知られていることだろう。火神は手持ち無沙汰に抱えていたボールを指先でくるくると回した。
 段ボールを抱えた黒子がリビングに戻ってくる。虎の睾丸で飾られた馴染み深い外装は、確かに火神が注文した品だった。この箱でなくともこの部屋に済んでいるのは火神だけなのだから、何が届こうと火神が頼んだものに違いはない。
「相変わらず重いですね。再録本でも買ったんですか?」
「さあなー。NLBL百合関係なしにタツヤが左にいんの片っ端からカートに入れてっから。ダブってんのもあるのか?」
「いいえ、君が買った本はひととおり目を通しましたが、同じ本は二冊としてありませんでした。そういうところ、君はきっちりしていますから安心してください」
「すげーな。黒子も全部読んだのか」
「君の部屋は居心地がいいですから。それに、本を積まれるとつい手が伸びます。興味はありましたしね……」
 床に段ボールを置いた黒子に「開けてもいいですか」と尋ねられ、二つ返事でカッターを渡す。黒子は本を傷つけないように丁寧にカッターを使うので、箱を開けるのも本を読むのも安心して任せることができた。実を言うと火神は、DOJINSHIにそれほど執着を抱いていない。求めているのは新鮮な発想と疼くようなイラスト、それにみずみずしいストーリーだ。読み終わった本はよほど気に入ったもの以外は床に積んでいる。
 黒子がぱかりと段ボールを開く。箱に収まったままのビニールに包まれた表紙を前に、黒子の手が止まった。うすく開いた唇が、かすかにわなないている。
「これ、は……」
「タツヤ総攻め本くらいで驚きやがって、いつものことじゃねえか。つっても何頼んだかもう覚えてねえな……」
「火神君、君は……こんな世界にも足を踏み入れてしまったんですか……僕にも、この新しい扉を開けと……?」
「んだよいちいち大袈裟な……」
 黒子に誘われるようにして段ボールを覗き込む。ビニールで閉じられた表紙を前に目を見開いた。試しに本を取り出して床に広げてみるも、梱包された初めの一冊と同じカップリングのものばかりだ。B5サイズの表紙に閉じ込められた兄と、顔馴染みの相手を前に火神は武者震いを起こした。隣に膝をついた黒子は信じられない物を目の当たりにした面持ちで本を眺めている。どうやらどれから手をつけていいのかわからないようだった。それは火神も同じだ。
「……ッ、や、べえ……いつだかわかんねえけど過去の俺、最高じゃねえか……!」
 床に並べられたのは十数冊の氷青本。つまり、【氷室×青峰】本だった。それももれなく各表紙に【Adults ONLY】の文字が踊った、淫靡だったり耽美だったり猥雑さを感じさせる気合いの入ったイラスト。受けである青峰も攻めである氷室も、火神の好みの肉付きをしている。細すぎては感情移入できないからだ。
 火神は開かれることを待つ未知なる本を前にして、ごくりと唾を呑んだ。どの本からページをめくっても、鮮烈な喜びをもたらすに違いない。
 火神は黒子とともに新たな扉の前に立っていた。