ケージには鍵をかけて

青峰に人権がない



 棒の先についた飴を舌でぺろぺろ舐めながら、ふたりは店の中へ入った。ガラス張りの手押しのドアを開けると、取り付けられたベルがからんと来客を告げる。ふたりがこんにちはと店に向けて呼びかければ、待っていたかのように店主が顔を出した。
 仕立ての白いスーツに黒いシャツと、まるで映画に出てくるギャングのような格好をした中年の男性。この店のオーナーである景虎はふたりに向かってサングラスを額にあげると、にっと唇を持ち上げた。

「来たな坊主ども。一ヶ月ぶりか? 家抜けんのは初めてじゃねえのに、いつまで経っても進歩しねえな。いっそかあちゃんに連れてきてもらった方が早いんじゃねえのか」
「今回は誰にも見つからなかった! タツヤの作戦はいつでもバッチリだ!」
「そうかそうか。足繁く通ってくれンのは嬉しいが、そろそろどれか持って帰ってくれんと俺も商売上がったりだ。つっても坊主にはまだ見るだけで精一杯だな」

 見透かすような店主のまなざしに言葉が詰まる。街に来るたび景虎の店へと行きたがったが、この店で扱う商品を大我が買うことなどできないのだ。そのかたちや色やすがたなどを、たまに感嘆の声を上げながら檻の外から眺めるだけ。それを知っていて、景虎はふたりの相手をしている。
 客は客でも見物客でしかない大我を迎えて相手をするのは、景虎が少なからず彼を心憎く思っていないからだった。兄は景虎の思惑を知った上で、大我の望むまま店へ足を運んでいる。品物を見るのであればわざわざ街にまで降りてこなくとも、家に呼び寄せれば良い。そのための商人ならばいくらでもいるし、家が呼べば店一番の品を携えて我先にと門を叩くだろう。だが、大我は直接足を運んでまで、この店を好んだ。この店へ来るために家を抜け出していると言ってもいいくらいに。兄はそのために家を抜け出そうと画策してくれる。
 大我はいつも景虎に小突かれながら商品を楽しんだ。大我がこの店と店主を好いているのと同様に、景虎もまた大我をかわいがっているのだ。この店の品物を買えないことなどわかりきったことだというのに、わざと足下を見るようなことを口にするのは、ぐうの音も出ない大我の反応を楽しむためだ。景虎にとって大我はからかいがいのある子供なのだろう。もっとも大我も、景虎に二三つつかれたくらいでへこたれる性格はしていないが。

「いつか買うまでの練習だっ。なんでも小さい頃から慣れ親しんでおきなさいって、お母さんが言ってた!」
「そいつは金言だな。じゃ今日も見てくか坊主。ちょうど客が来ててな……坊主どもの知り合いだろ?」

 景虎が店の奥を親指で示せば、ケージの前に人影がある。大我が歩みを進めれば、景虎の後ろに隠れるようにして夏の日のような鮮やかな空色の瞳が姿を現わした。

「こんにちは氷室さん、火神君。奇遇ですね」

 大我よりも小さくて華奢な少年が握手のために手を伸ばす。目の前にいる自分ではなく兄に向けられたその手を取る者は誰もいない。

「こんにちは。黒子くん、どうしてここへ?」
「この街でいちばんいいお店ですからね。それに、あなたがよくいらっしゃると耳に挟んだものですから」

 用をなさなかった手を何事もなかったように引っ込めると、黒子はいつもの何を考えているのかまったくわからない顔で氷室に向き合っている。パーティでもオペラでも式典でも、ふたりの前に現れる黒子は大我などいないもののように氷室にだけ声をかけた。
 大我は自分と同い年のこの子供が苦手だった。どこから出てくるのか、いつでも突然おばけのように兄の隣に現れるし、羽根で耳をくすぐられるような丁寧なしゃべり方が好かなかった。何より、大我がいるというのに兄しか相手にしないのが嫌だ。黒子が現れたときだけ、大我は透明になってしまうのだから。今まで誰かにいじわるをされたことはあったけれど、こうしていないもののように扱われるのは彼が初めてだ。
 いくら大我が文句を言っても、黒子は一向に態度を改めようとしない。黒子は今日も兄とだけ話をしたいようで、あの平坦なぼそぼそとした声でなにやらしゃべり始めている。大我は胸のあたりがいやな感じに苦くなって、黒子のそばから離れた。目の前に広がるケージの群れに目を向ける。
 ペットショップである景虎の店の奥は、ペットを見せるための畜舎となっていた。動物の性質上、小さいものでも一匹を養うためにある程度の大きさのケージが必要となる。幼ければ幼いほどそれ相応の設備が必要になるが、さすがに景虎も乳児は扱っていないようだ。
 大我はここで沢山の動物を目にした。家にいる大人のような年若いものから、枯れ木のように老いたものまで。新しい飼い主にもらわれていくのを夢見るものもいれば、泥水のような濁った瞳でじっと大我を見つめるものもいた。大我は檻の向こうに収まったそれらを眺めるのが好きだ。動物がどういうものか、何度足を運んでも大我にはいまいち理解できなかったから。だからこそこの手で飼ってみたいと思うのだ。動物とは、何なのか。
 ひと月ぶりに来た畜舎だったが、ケージには空きが多かった。顔ぶれはすっかり変わっていて、空いたケージの間にぽつんと残っている姿があれば大我はじっと見つめた。動物の仕入れが途絶えることはないだろうから、きっといくつも貰われていったのだろう。空になったケージのむきだしのコンクリートの床に思いを馳せる。どれも飼い主にかわいがられてしあわせに過ごしていることだろう。兄がほとんどの動物はそうあるべきだと言っていたのだから、違いない。
 かつん、かつんとコンクリートの床に靴底が当たって響く。空のケージが並ぶと、どうにも物足りない。大我と遊んでくれるような元気のある動物はいないし、たまにいたと思えばうずくまって眠っているか、壁にひっついて目を背けてしまう。

(つまんない。)

 これならアレックスのところに行って、相手をしてもらう方がずっといい。ふたりが遊びに行くといつだってアレックスは顔をほころばせて、大我を抱きかかえてくれるのだ。それに、アレックスのところには動物がいる。さらさらとした黒い髪の、アレックスよりも年上の雌だ。目つきがきっと鋭くて怖いし、ぶっきらぼうな口調で大我はあまり好きではないが、兄はその雌を好んでいるようだった。兄が好きなものならきっと、自分も好きになれると大我は思っている。だから、アレックスのペットと遊ぶのは嫌じゃない。
 アレックスはあの雌がものすごく好きらしくて、何かと愛の言葉を叫びながら抱きついている。雌はその度にアレックスのおっぱいに押しつぶされて文句を言うが、まんざらでもないようだった。予告もなしに遊びに行くとときどき、アレックスの部屋から雌がすすり泣く声が聞こえてくるけれど、そういうときは決まって兄が大我を庭へと連れ出すのだった。
 マサコと私は愛し合っているからな! 雌を小脇に抱えたアレックスは決まってそう胸を張った。大我もアレックスのように動物をかわいがりたくてたまらなかった。
 かつん、かつん。そろそろ兄のところへ戻ろうかと思い始めていたところだった。
 大我はあるケージの前で足を止めた。間近に迫った柵に爪を立てるようにして、動物が大我を見ている。それは、見る、という言葉で済ませてしまうにはひどく刺々しく鋭いまなざしだった。
 与えられたクッションなどはね除けて、直接地べたに足をついて座っている。コンクリートの床で固くて冷たいはずなのに、それはまったく平気な顔で大我を睨み付けていた。年は大我と同じくらいだろうか。他の動物たちが大我と距離を取るのに対して、それは柵にしがみついていた。柵が邪魔とでもいうように、柵など払いのけてお前の喉笛を噛み契ってやるとでもいうように、それは好戦的な態度であり続けた。
 ひりつくような殺意がびりびりと肌を粟立たせる。大我は唾を呑むのも忘れてその獣と向かい合った。
 おなかのあたりが、いやにぞわぞわする。それも、いつものぎゅるぎゅる虫が鳴るおなかの方じゃなくて、もっと下の、足の付け根のあたり。
 なんだかあつくて、むずむずする。へんなの、どうしてだろう。こういうの、なんていうんだっけ。でも、これ、俺……きらいじゃない。
 獣の毛は黒いような気がした。でも、兄のとは違う。いいやむしろこれは、藍に似た色をしている。深くて濃い青。どこまでも遠い海の底のような、日が昇る前の真夜中と明け方の間の空のような、青。
 前髪の間から覗く瞳も、同じ色をしていた。己がこの獣に見つめられていることに、ため息が漏れる。幼いくちびるから漏れたそれは湿り、熱く濡れていた。
 雄だ。全身を見てはいないけれど、大我はそう思った。雄の獣はふしぎな肌をしていた。キャラメル色とでもいうのだろうか。兄と比べると暗い大我の肌よりも濃く、みずみずしい。
 大我はいつか兄から聞いた砂漠を思い起こした。辺り一面どこまでも褐色の砂が広がっていて、日が出れば暑く、日が沈めば寒い。水を求めずにはいられない、乾いた砂地。獣は夜の砂漠だった。星空の夜空を冠した、熱い砂漠。あれは雪山と同じように人も獣もすべてを呑み込むのだそうだ。
 獣は一言も発しない。その代わり大我を責め続けるその瞳が、柵を握りつぶさんばかりにかけられた両手が、雄弁に主張していた。獣の本質と敵意を。
 大我は雷に打たれたように身震いした。だが、大我の変化に気づいたのはふたりだけだった。あまやかな唾が口の中に広がる。大我はその甘さを惜しむように舌で味わい続けた。手にしていた飴のことを忘れてしまうほど、それは大我を惹きつけた。
 吐息が漏れる。小刻みにふるえる睫毛を瞬かせた。潤んだ瞳から細かな滴が睫毛に移る。背中を舐められたように腰がわななく。膝のそばで指先が空を握った。手のひらは熱くしめっている。

(どうしようタツヤ。俺、これ。)

「タイガ?」

 兄がいぶかしむように声をかけた。いつまでも檻から離れない大我の様子を見に来たのだろう。いつの間にか兄が大我のすぐ隣に立っていた。

「ああ、それですか。僕もちょうど欲しいと思っていたところです。いいですよね、しつけのしがいがあって」

 歌うように黒子がしゃべる。大我は追い立てられるように口を開いた。しかし心とは裏腹に出てきた言葉は短く、落ち着いたものだった。大我は簡潔に心のままを兄に打ち明けた。

「タツヤ。これ、欲しい」

 兄は驚いていないようだった。大我の突然の申し出をわかっていたように受け止めて。

「タイガにはまだ早いよ」
「でも俺欲しい、これ。どうしても」
「どうしても?」

 くすぐるように辰也が尋ねた。力強くはっきりと、大我が答える。

「絶対に欲しい」

 その答えを待っていたとばかりに、兄がほころんだ。声には出さなかったけれど確かに兄は笑ったのだった。楽しそうに、それも心の底から。そうした兄の姿を見るのは初めてのことだ。
 兄は喜んでいる。根拠はひとつもなかったが、大我はそう思った。こうしたことはままあった。兄は、窘められるはずの大我の我儘をときどきひどく喜ぶのだ。兄はその理由を話そうとはしない。今回のこれも大我には教えてくれないのだろう。兄が大我のほかの誰にこうしたことを喋るのか、見当もつかなかったが。

「タイガ、まだお母さんに動物を飼ってもいいって言われてないだろう? せめてあと二年、我慢しないと。でも、タイガがひとりであの動物の世話を見られるまで待ってたら、あれはきっと他の人に取られちゃうね」

 当たり前のことを告げられて、息苦しい不安がぶわっと胸から迫り上がった。この獣を誰かにとられる。そんなことは絶対に嫌だった。
 だってこれはもう俺のだ。他の誰かの物になるなんてありえない。そう思わずにはいられなかった。誰の許可も貰っていないし、対価だって払っていないのに、大我は焼け付くような熱を帯びていた。
 なぜだかわからないけれど、この獣はどんなことがあろうとも自分の物にしたい。そうしたくてたまらない。
 どんなおもちゃを目にしたときとも違う、何か得体の知れない力が大我の背中を押していた。それが自分の意志なのかすら、大我にはわからなかった。
 誘われるように引きつけられるように、どうしてもこの獣が欲しいのだ。大我は駄々をこねた。だがその声はどこまでも己の意志を貫き通す決意に満ちたものだった。それは大我の宣言だった。

「やだ。絶対に俺が飼う。これは俺のだ。そう決めたんだ」
「どうしてもほしいんだ」

 兄が確かめるように問いを重ねる。大我は首を大きく縦に振った。指輪が揺れる。兄が大我の手を取った。

「じゃあ僕とはんぶんこしよう」

 湿った手を温めるように兄が手を重ねる。手を握るように指を通してきたので、大我はさせるがままにした。そんなことよりも、いま兄は何と言ったのだろう。大我は兄が言ったことばの意味を探るように、もう一度繰り返した。

「はんぶんこ?」
「うん。僕とタイガのものにすれば、お母さんもきっと許してくれると思うんだ。タイガだけの物にはならないけど、僕と一緒ならあれの世話もできるだろう? それじゃあ、だめ?」

 兄が手をきゅっと握る。途端に大我は胸のあたりがぱんっと弾けたような気がした。いてもたってもいられない。あまりのことに目の前がちかちか眩んだ。
 すごい。どうしよう。ほんとうにこれ、飼って良いんだ。しかもタツヤと一緒に!
 頭の中がそれだけでぐるぐると渦巻いている。大我はたまらず叫んだ。嬉しくてうれしくてたまらなかった。これを連れて帰れる。それも、タツヤと共に。しかし同時に不安もくっついていた。兄は大我のわがままに付き合ってくれている。動物を飼える許しを得たのは兄だけだ。兄ならばアレックスのところの雌のような動物を好むのではないだろうか。
 大我は喜びと不安がないまぜになって、ひどく興奮していた。辰也の手を強く握りながら、その場で一度地面を蹴った。

「そうする! いいの? 俺すごく嬉しいけど、タツヤは他にほしいのあったんじゃない……? だってタツヤは好きなの飼えるんだよ?」
「ううん、僕は動物にあんまり興味がないんだ。でもあれをタイガとはんぶんこできるなら、僕はあれを飼える。だってタイガのものでもあるんだからね」

 兄が穏やかに微笑む。やんわりと細められた右目と同じように、前髪に隠れた左目もまた笑みの形に細められているのだろう。大我は叫んだ。自分と同じ物を兄が共有してくれる。それはすごく嬉しくって、素敵なことだ。あの獣を兄もまた飼うのだと思うと、おなかがかあっと熱くなった。興奮しすぎて体中が茹だって、頬が真っ赤に染まっているのを大我は感じた。

「飼う。絶対に飼う! タツヤとはんぶんこするの、すごく、わくわくしてきた! タツヤとなら俺、ぜったいに世話するから! タツヤタツヤ、いますぐ買って帰ろうぜ!」
「待ってタイガ、僕たちだけじゃ決められないよ。ちゃんと聞かなきゃ。景虎さん、これ、今すぐ持って帰っていいですよね?」

 兄の視線の先には無精ひげをなで回す景虎がいた。大我は固唾を呑んで景虎の返事を待つ。景虎は兄としばし目を合わせると、大我が望んでいた言葉を返した。

「またここに戻さなきゃ、坊主共のモンだ」

 大我は思わず飛び上がった。その場でぴょんぴょん跳ねながら、兄に訊ねずにはいられなかった。
 夢にまで見た動物をようやく飼えるのだ。それも兄とふたりで。しかも、大我と兄の初めてのペットは、このすばらしい獣。これでどうして黙っていることができるだろうか。

「やったあ! 聞いた? タツヤ聞いた? これ俺とタツヤのだ!」
「そうだねタイガ、タイガと僕のものだ。いいよね、黒子くん」
「ええどうぞ構いませんよ。僕も愉快なものが見られて楽しいです。とてもね」

 兄のそばで立ったままの黒子は、かすかに唇を持ち上げてそう言った。この獣を飼えない黒子の何が楽しいのか大我にはわからなかったが、黒子の考えていることなどいつでもわからないので気にならなかった。
 それよりも獣だ。大我は興奮で瞳をまばゆく潤ませたまま、景虎にすがった。今日からこの獣を飼うのだ。よほど幼くない限り、動物にはおおよそ初めから名前がついている。この獣にはどんな名がついているのだろう。大我の胸は期待でいっぱいだった。

「カゲトラさん、これの名前なんて言うんだ? なまえ、ついてるんだろ?」
「青峰大輝だ。いい名前だろ?」

 知ったばかりの七文字を忘れないよう何度も口で繰り返す。あおみねだいき。あおみね、だいき。景虎の言う通りすごく良い名前だ。これからこの動物をその名前で呼ぶのかと思うと、世界が沢山の明かりで照らされたようにきらきらと輝いて見えた。
 兄も大我も青峰も、名前が「た」で始まる。それはすごく素敵なことだと思った。まるで初めから出会うべくして生まれ落ちたように思えてならなかった。でも、大我には『だいき』よりも『あおみね』の方がしっくりきた。どういった漢字を書くのか大我にはまだわからなかったが、『あおみね』という名前はこの獣にとてもぴったりだ。大我ははしゃいだ。はしゃぎすぎて息が苦しくなるほどに。

「あおみねかあ……かっこいい! あおみねだいき、あおみね、あおみねっ、俺はタイガ……! 火神大我っていうんだ。今日からよろしくな!」

 ケージの間から手を伸ばそうとする。指を青峰の鼻先に突き出そうとして、兄に腕を掴まれた。すぐに手を引っ込めさせられる。兄はいつもの調子で大我に言い聞かせた。

「こら、だめだよタイガ。むやみやたらに手を出しちゃ。噛まれて指を食い千切られるかもしれないだろう。これにはちゃんとした『しつけ』を施さなくちゃ」

 大我は兄を見上げた。兄が言う『しつけ』とは何のことだろう。そんな言葉を耳にしたのは初めてだ。兄は『しつけ』を知っているらしいが、大我にはそれが何を意味するのかとんと見当もつかない。どうやら動物を飼うときには、その『しつけ』とやらをしなくてはならないらしい。
 青峰に何を行えばいいのだろう。『しつけ』をしなくては、大我は青峰に触れることさえできないのだろうか。青峰は目の前に、すぐに手を伸ばせるところにいるというのに。
 大我は幼い子供のように兄に説明をせがんだ。『しつけ』という得体の知れない三文字が大我を不安にさせる。なんだかいやな言葉だ。大我は兄のシャツの袖をひっぱった。

「しつけって、なに? あおみねには、しつけが必要なの?」
「うん。どんな動物も、人が飼うとなれば『しつけ』が必要なんだ。この動物はタイガと僕の物になったけど、僕らを主人と思っていないし認めてもいないよね。この先、僕らがこれとうまく付き合っていくために、僕らはこれを『しつけ』なきゃ。自分が誰に飼われているのか、飼い主と動物の関係を明白にするんだ。自分がどういう存在なのか、これの立場をはっきりとわからせなきゃ、ワガママに育っちゃう」

 兄ははっきりと『しつけ』が必要だと説いたが、大我は青峰がわがままでもいいと思った。迂闊に触れれば怪我をしてしまいそうな、敵意に彩られた青峰のまなざし。大我は張り巡らされた有刺鉄線のようなその刺々しさに惹かれたのだ。兄の言葉が正しければ、『しつけ』はきっと青峰の姿を変えるだろう。誰も傷つけないよう鋭い棘は丸くやすりがけされ、媚びを覚えた瞳は指にべたべたとくっつくわたあめのように、どこへ行ってもついて回る。
 この獣がどこにでもいる愛玩動物に成り下がってしまうのならば、『しつけ』などいらない。ずっとこのまま、油断のならない相手として見られていたい。このちっぽけな獣に自分以外はすべて敵だと言わんばかりの態度を保ち続けさせて、そのひりつくまなざしを味わい続けたかった。
 大我は青峰に夢中だった。青峰が放つ殺意に近しい敵意を浴びることなど大我には縁のないことだったから、とても珍しかったのだ。
 この動物を獣のまま打ち負かしたらどうなるだろう。
 折れることなどないと思い上がっている矜恃をずたずたに引き裂いて、その様を見てみたい。
 自我がこわれるか、従うという術を身につけるか。それとも諦め悪く抗い続けるか。どこに転ぼうと大我には楽しみにしかならなかった。
 いまの青峰はまだ振られていないサイコロのようなものだ。この娯楽を楽しむには余計な手を加えることなく、青峰を獣のままでいさせなければ。
 大我は歯切れ悪く聞き返した。

「それは、俺とタツヤでやらなきゃいけないのか? 俺は、このままでもいいけど……」
「このままじゃ駄目だよタイガ。遊んでいて、指や耳を噛みちぎられたくはないだろう? 僕もタイガのそんな姿は見たくない。だいじょうぶ、僕とタイガならできるよ。僕らならやり遂げられる。どんなことがあろうともね」

 堂々と言い切る兄は絶対的な自信に満ちていた。どうやら何があっても青峰を『しつけ』るつもりらしい。
 青峰になら指や耳くらいかじられてもよかったのだけれど、それでは兄が悲しんでしまう。兄のつらい姿を見るくらいならば、大我の望みなど捨て置かなくては。大我は兄に悲しんでほしくなどないのだ。兄にはいつだって楽しく過ごしてもらいたい。大我は兄が喜んでいる姿を見るのがいちばんなのだ。
 それに兄ができるというのであれば、絶対に出来るのであろう。兄は一度やると決めたことは必ず貫き通すのだ。どんな手を使ってでも。
 大我は『しつけ』というものすら知らなかった。兄は動物を飼ったこともないのに、『しつけ』とやらを知っている。兄のいう『しつけ』は正しいのだ。間違っていたら景虎が一言三言口を挟むはずである。それなのに景虎は顎に手を当てたまま、じっとふたりと一匹の様子を見守っているだけだ。
 やっぱり兄は物知りで、ちっぽけな大我とは比べものにならなくらいすごい。いつだってこの手を引いてくれるのは兄なのだ。兄か獣かを選べと言われたら、大我は迷うことなく兄を選ぶ。大我はようやく、青峰という獣を諦めた。

「……わかった! 俺、あおみねの『しつけ』、頑張る。タツヤも一緒にやってこうぜ!」

 大我の胸に、兄と行う青峰の『しつけ』への好奇心が宿り初めた。兄の瞳が星くずを散らしたようにきらきらと輝いている。兄もまた大我と同じように、青峰の『しつけ』を心待ちにしているようだった。

「もちろん!」

 頬を上気させて、兄が力強く同意した。
 ここまで感情を露わにして張り切っている兄を見るのは久しぶりだ。大我は兄の姿に心が温かく満たされ始めた。兄を喜ばせたのは自分だ。大我は兄に楽しみを与えることができたのだ。
 大我はケージに戻った。ケージの中では兄と話してばかりで置いてきぼりをくらっている獣が、眼光鋭くぎっと睨みつけていた。どうやらふたりの会話を聞いていたらしい。己の運命を知った青峰はより強い敵意を大我に向け始めたようだった。大我は青峰の手の届かないところからその姿をうっとりと見つめた。眼球の目前にまで刃の切っ先を突きつけられている気分だ。
 これからこの獣は兄と大我のふたりのものだ。ふたりでこの獣を育てていくのだ。大我の下腹がまたあつく泡立った。この獣のすべてを兄とふたりで握っているのだと思うと、どうしようもなく瞳が潤んだ。
 ケージを食い入るように眺める大我をよそに、兄は景虎となにやら話をしていた。会話の切れ端を拾っていけば、どうやら青峰を家に連れて帰る手筈を相談している。聞き取った景虎の声は、なんだか自棄になっているようだった。自分の力ではどうにもならないことに対して匙を投げてしまったような、どこか気落ちした気配を漂わせている。

「で、どうするんだ坊ちゃん。弟のお眼鏡通り、こいつは掘り出し物だ。よくある理由でこっちに送られたにしちゃ、どこもかしこも真っ白な新品。性格には大分難ありだが……お前ら相手なら心配する方が野暮だわな。こいつは俺の方で引き取ろうかと思ってたが、坊ちゃんふたりに目ぇつけられちゃあ、どうしようもねえ。その代わり足下見てふんだくるぜ?」

 景虎はやれやれと後頭部を掻きながらも、せめてもの悪あがきとばかりに言い放つ。兄は景虎の態度など気にも留めていないようだった。もしくは、初めから景虎がそう言うであろうとわかっていたかのようだった。兄は顔なじみの大人と話すのではなく、買い手として一個の商人と品物の交渉を行っていた。

「家に連絡して迎えに来させます。どうせバレてますから。一人前ではないという点では、僕らもこれも同じでしょう? いくら姿を隠そうと僕らがどこにいるかなんて、リアルタイムで常に更新されますからね。この会話だって。……聞いていたでしょう、お母さん。僕の誕生祝い、これに決まりだからね」

 兄がこの場にいない第三者に向かってしゃべりかけた。それはおねだりというには冷たい響きに満ちていて、相手に有無を言わせることのない強い口調のものだった。
 家に戻るのがもどかしいのか、兄は体内に貼られた極小の位置情報マーカーを通じて母にこの動物を飼うと言い切ってしまった。景虎は母と兄との簡潔な会話を耳にして、付き合っていられないとばかりに額をこする。

「弟のお守りも大変だな」
「いいえ? これが僕の当たり前ですよ。ご心配ありがとうございます」

 景虎がため息をつくのが聞こえた。兄は買い物をするときや目下の人間を相手にするとき、ひどく冷淡な態度を取るのだ。兄はそれが当たり前のことだという。いつかきっと大我もわかる日が来ると、いつもの穏やかな表情で諭すのだけれど。
 知らない人のように非情な姿もまた兄なのだとわかってはいるが、辰也のそれは側にいる大我がはらはらしてしまうくらいに露骨で他人の気持ちを逆撫でさせる。兄は特に大我を、自分の弟のことを誰かにとやかく言われるのを嫌った。そういったことをされたときには、兄は居心地の悪い敵意をむき出しにして相手が入り込んでこないようにと壁を巡らせる。
 兄の機嫌は最悪に近いというのに、鈍感なのか気にしない質なのか、黒子が割って入ってきた。まだ兄は景虎と話をしているはずなのだが、そうしたことも黒子の頭にはないのかもしれない。ふたりのやり取りを見守っていた黒子もこの動物を飼うことを祝福しているようで、賛辞と共に兄に話しかけている。大我には白々しいお世辞にしか聞こえなかった。

「おめでとうございます氷室さん。これでとうとうあなたもペットデビューですね。お披露目の際には真っ先に駆けつけます」
「勘違いしているようだね黒子くん。これはタイガと俺のものだよ。俺だけのものじゃない」

 兄が訂正すると黒子は驚いたとばかりに、おや、と小さく声を出した。
 大我には黒子のやることなすことが全てわざとらしく思えて仕方がなかった。わざと大仰な態度を取ることで兄の関心を引こうとしている。まるで褒められたがりの使用人のようだ。黒子がなぜ兄にこだわるのか、大我にはさっぱりわからなかったけれど。

「これはとんだ見当違いを。どうも失礼しました。今回は手を引きましたが、僕もこれの行方は気になります。たまに、お邪魔して様子を伺ってもいいですか? これが成長していく過程を見ていきたいんです」
「そんなことならいくらでも。僕もタイガも動物を飼うのは初めてなんだ、アドバイスをもらえたら嬉しいな。タイガには気軽に話せる友達が少ないからね」
「すみません僕もまだ、動物を飼ったことはないんです。どうしても欲しいものがありまして、それが手に入るまでは他のものを飼う気はないんです」

 くすり、と可笑しそうに黒子が笑みを漏らした。
 大我はそれだけでげんなりした。黒子は何かいやなことを考えている。それも兄に対して。気づいているだろうに、兄は黒子に対して親しげな態度を崩さない。何も知らずに端から見ていれば、兄と黒子は親しい間柄に見えるだろう。
 笑みを浮かべて足を踏み合う。兄も黒子も裏で牽制し合うのが得意だった。

「そうなんだ。それは手に入りそうなの?」
「ええ。時間はかかりそうですけれどきっといつか、この手で首輪をつけてやろうと思います。そうしたらまずはこのケージに入れて、思う存分かわいがってみたいですね。考えるだけでとても、きもちがいいですよ」

 内緒話をするように声を絞って、熱意を吐き出している。ぼそぼそと吐き出される平坦な声に感情がこもっているのを聞いたのはこれが初めてだ。
 黒子はそこに求める動物がいるかのように、空のケージを見やった。黒子の目には空のケージに何かが映っているのだろう。いつかそこに押し込めてやりたい何かが。
 兄は動じることなく和やかに感想を述べた。

「すてきな考えだね、君すごく生き生きしてる。そんな日は未来永劫ないだろうけどね」
「それはそれは。望みは必ず叶うものだと、その日に教えて差し上げますね」

 談笑の下で兄と黒子が睨み合っている。大我は決して立ち入ってはいけない両者の関係を思いながら飴をしゃぶり、ひとり青峰を眺めていた。
 兄がケージの前にやってくる。兄は大我に笑みを向けると、こうやるんだよ、と大我の口からキャンディを外した。
 唾液で濡れた細長いワイン色の棒が兄の手に移る。蛍光灯の下でてかてかと光って、血でも流れているようだった。大我が舐めていたのはあまったるいイチゴ味だったのだけれど、兄が手にすると飴はまったく別の物に見えた。
 兄は指揮棒のようにそれを指先で弄ぶと。

「青峰大輝、僕とタイガが今からお前の飼い主だ」

 溶けたキャンディを檻の間から突き出して。

「舐めろ」

 青い獣は果たして、与えられた餌に向けて唇を開いた。
 キャンディの先端へ舌を伸ばす。紅の器官が甘美な棒を味わおうと姿を現わした。甘い餌に食いつけば、それは獣がふたりに示す恭順の印に違いなかった。
 あちこちを舐めたせいでくぼみやらへこみができた、崩れたキャンディ。そのいびつなかたちが青峰の唇に迎え入れられる。大我はそのときを固唾を呑んで見守った。
 濡れた舌が棒の表面に触れるその刹那、白く並んだ平らな牙が飴細工を噛み砕いた。かたちの崩れた大我の飴は欠片を散らしながら真っ二つに割れた。
 ひとつは青峰の口に、もうひとつは兄の手に。
 がりっと固い物を割る音がいつまでも大我の耳から離れなかった。
 それが兄と大我が青峰に行った、初めての躾だ。今となっては懐かしい或る日の思い出として、すり切れたアルバムに収められている。だがページを捲れば、まるで目前のことのように思い返すことができた。それほどまでにあの日の出来事は、青峰は、強烈に大我にその存在を刻みつけたのだ。
 あれからもう幾年も経つ。歯を立てることしか知らなかった口は、その使い方を覚えてふたりのためによく働いている。あの日の荒々しい獣は躾けられ、今では上質な猫のようだ。だがその本質は揺らいでいないことを大我はきちんと知っている。
 雫がしたたり落ち続けるかのような連続した濡れた音が、さっきからずっと大我の鼓膜を揺らしていた。猫がミルクを飲んでいる。平皿に注がれたものだから、顔を近づけ舌を使って、啜らなくてはならない。目前の光景を見下ろしていると、そうした情景が浮かばずにはいられなかった。事実口を開いて受け入れているそれは猫にはかけがえのないものだ。そうあるように兄と大我が躾けたのだから。
 寛げられた下腹部から覗く、透き通るように白い肌。ひときわ繊細な皮膚が続くそのあたりの茂みから、鼓舞するように己のかたちを硬く保った陰茎が猫のくちびるを受けている。命じられるままに、求めるままに、己の両手で取り出した桃色の屹立に、猫は奉仕し続けた。
 幾度肉を抉っても生まれたときのままの色を保つ、兄のかたちのよい屹立。かつての飴よりも親しみやすい色をしたそれは、青峰の唾液に濡れて直立し続けている。大我の飴を砕いた歯と同じ口についている飼い猫の舌は、今や舐めるという動作を当たり前のようにこなしていた。
 くっと喉で低く笑った。抑えたと思ったら漏れていたようで、机の上で身体を伸ばした青い猫が耳ざとく唇を持ち上げる。
 猫は帽子を頭に乗せていた。行儀のなっていない動物のように机の上に身体を四つん這いにさせられた猫は、仕返しとばかりに兄の頭から帽子を奪ったのだ。
 斜めにかぶった帽子のつばの影から、声変わりした低い猫の声が笑みのためのため息を漏らす。この猫はどうしたことか、いつでも不遜な表情を浮かべてばかりいる。そうあれと兄も大我も望んだわけではなかったのだが、今ではこの猫のチャームポイントのひとつだ。

「なぁに笑ってんだよ。まさかイったわけじゃねえだろ」
「まさか。お前こそくたばってねえだろうな。ねんねにはまだ早いぜ」

 高価な筆記用具がどうなろうとこの猫の知ったことではない。すでに広げられたいくつもの書類は撚れて、おまけに不規則な折り目がついていた。先ほど記したサインが潰れて台無しになっていないか気になるところだが、目の前のお楽しみを辞める契機にはならない。
 それは向かい合う兄も同じようで。

「お前たちは下品だな。大輝がこのくらいで参るはずないじゃないか。まだ俺を相手にしていないんだし、お前だって半分も腰を振っていないだろう?」

 悠々と猫の後頭部を掴んで、突き出た自身を咥えさせている。ベルトをゆるめ留め金を外し腰の辺りで開かれた黒い制服、兄の両足の間に頭を埋めている青峰は、萎えるどころかぴんと張り詰めたままのそれに舌を絡ませながら、些細なこととばかりに悪態をついた。

「兄貴様は口がお綺麗で嫌になるぜ。聞こえがいいと思ったら、兄弟揃って礼儀のなった飼い主様に十年も挟まれ続けてこの有様ってか。道理で俺の耳も通りがよくなるわけだわ。やってらんねえ」
「へえ、お前そっちの穴も綺麗だったのか。俺は頭と尻についているものしか知らなかったからさ。タイガ、知ってた?」

 今初めて耳にした、とばかりに兄は真顔で首を傾げている。大我は笑みを漏らすと、示すように腰を打ち付けた。両手で掴み続けるむきだしになった褐色の腰はうっすらと汗の玉を浮かばせ、艶めいている。
 熱い内側を抉っても、かわいげのないことに猫は声一つ漏らさなかった。その代わり、わかっているとばかりに大我を包み込む。大我は慣れきったその態度に、兄へ返す台詞を思いついた。

「青峰に空いてる穴はどれもキレーに開いてんだよ。俺らで埋めなきゃなんねえから」
「かはっ! そうだぜ、わざわざテメエらの為に開けてやってんだ。存分に感謝しやがれクソ野郎ども」

 青峰が掲げた腕の先で一本だけ伸ばした中指をふたりに向けて突き立てた。自身の飼い猫が示した素直な態度に、大我はあーあと心の中で肩をすくめた。青峰の対岸に位置する兄をちらと伺うと、唇をきゅっと結んで物言いたげに股下の猫を見下ろしている。過去の経験から推測しなくとも、兄は青峰の態度を窘めると決めたようだ。
 兄は大雑把で何かとゆるいくせに、この猫にだけは些細なことで目くじらを立てるのだ。大我には青峰の指が掲げる『くたばれ』も、青峰なりの愛情表現として受け止めることができるのだが、兄はそうもいかないらしい。事実いまのは、大我の台詞に気をよくした青峰が勢いのままに本音をもらしただけだ。自分たちは青峰の飼い主であるのだからこれくらいのおふざけは逆に愛らしいと思って、受け止めてやるくらいの度量を持つべきだ。そう大我が思ったところで、案外兄は気が短いものだから、どうすることもできないのだけれど。

「大輝、俺はそんな言葉遣いを教えた覚えはないな。指だってそうして使うものじゃないだろう? 素直になるまで俺で塞いでおこうか」

 兄は訳も聞かず後頭部を引き寄せると、青峰の喉を突き始めた。前触れもなく口内いっぱいに与えられた質量のあるそれに青峰は目を見開いたが、理性の伴った瞳はすぐに快楽へと惚けた。歯を立てずに兄を迎え入れながらも、兄から与えられる熱を貪っている。その様子に大我はまた冗談を思い浮かべた。
 先は中指を振り上げたくせに、いまはこうして甘い鳴き声を上げながら兄の陰茎に吸い付いている。喉の奥まで屹立を埋め込まれて苦しいだろうに、青峰の体内は一層大我を迎え入れた。こすれて熔けた粘膜は締め付ける一方だ。大我は持って行かれないよう気をやりながら、奥をついてやった。こうすると青峰は喜ぶのだ。その証拠に青峰はびくんと身体をふるわせて、口を塞がれたまま鳴いた。普段の声からは想像もつかないくらい高い声域であげたそれは、もっと、の合図である。
 大我は青峰の望み通り、深く腰を打ち付けながら兄との会話を再開した。もちろん、さっき浮かんだ冗談を口にして。

「タツヤ、頭に血ぃ昇んの早すぎ。血の巡りがいいのはソコだけにしとけよ」
「それなら一番血行が良いのは大輝ってことになるな。異論はないだろ?」
「そりゃそうだろ。青峰だぜ? 俺らが叶うはずねえよ」

 ふたりと一匹だけがわかるジョークに、兄と笑みを交わす。ふたりの間に挟まれた青峰はいつだって誰よりもはやく達し、多く精を散らすのだ。空になろうと、精を伴わずとも絶頂を覚えた身体は陰茎を揺らし貪欲に快楽を得るのだから、青峰の性器に休みはない。三人の中で誰よりも働き者であることは確かだった。

「で、お前さっき何考えてたんだ? 楽しそうだったじゃないか、俺にも聞かせろよ」
「ん、大したことねえんだけど……青峰と初めて会った日のこと、思い出してさ。俺たちもすっかりこのザマだぜ、ガキの頃が懐かしいって、ちょっとな」
「お前、すっかり夢中になっていたからな。大輝を連れて帰らない限りテコでも動かないって感じだった。そうか、あれからもうそんなに経つか……よく保ったな」

 過去に耽りしみじみと青峰を見下ろすその手の力は、依然として変わりない。汗に濡れた深い藍の髪に、兄の整った指が差し込まれてる。
 青峰はろくに息をすることができないのか、その頬に赤みを増していた。兄の台詞に大我はあわてて反論する。この状況でもたらされた兄の言葉は、洒落にならない。

「保たせたんだろ! 誰がすぐ死なせるかっての。青峰はこの世に一匹しかいないんだぜ、俺が死ぬまで絶対に生かすからな。つうか、タツヤのでもあるんだぜ? ……タツヤー、飼い主の自覚もっと持とうぜ。青峰だってタツヤのこと大好きなんだから」

 そう声高に主張すれば、兄は大我をからかうように。

「つっかかるなよ。俺だって大輝のことは嫌いじゃないんだ、むしろ好きな部類だよ。だからこうして面倒を見ているじゃないか」
「っつたく昔っからこうだもんなあ。たまには素直になろうぜ。口で言う割に青峰のこと気にいってんだろ? じゃなきゃ名前で呼ばねえもんな。ほら言ってみろよ、『大好きな大輝の側で、いつまでも遊んでいたいな……たいが、だめ?』って。おねだりなんだから、とびきりかわいく頼むぜおにーちゃんよ」
「っ、あぁああうっぜぇええっ!! うるせえんだよテメエら! ヤんのかくっちゃべんのかどっちかにしろ! ヤってんのかヤってねえんだかわかりゃあしねえ!」

 じゅぽんっと兄のものを吐き出した青峰が、こめかみに青筋を立てて交互にふたりを睨んだ。兄の手によって後頭部を抑えつけられていたはずなのに、どうやって口を離すことができたのだろう。青峰は喉が許す限り叫ぶと、何か文句あるかとふたりを伺う。
 大我と辰也は顔を見合わせた。青峰を迎えてからというもの、ふたりはこうして互いの反応を伺うように顔を合わせてばかりだ。どうやら此度も、大我と兄の考えは一致したようで。
 せっかく楽しく会話をしていたというのに、青峰によって邪魔が入ってしまった。特に大我は裏声を使って兄の真似までしたのだ。それを台無しにされてはこちらの態度も決まるというもの。

「そりゃあ勿論ヤってるに決まってってけど」
「俺達の話に割って入るのはよくないな」
「つーわけで青峰」
「躾の時間だ」

 ふたりは示し合わせたように腰を動かした。肉と肉がぶつかる音が辺りに響く。ふたつの粘膜を同時にこすられて、雷にでも打たれたように褐色の肢体が跳ねた。大我によってもたらされる震動に身体が揺れて、しまりのない鳴き声があがり続ける。 

「あんっヒ……ぃ! ら、ぁ、や、んん、っは、ア、おく、や、かがあっ!」

 何かおかしいと思えば、青峰の口は自由になっていて。濡れた鼻先には抜き身の屹立がそびえ立っているのだった。兄の行動に大我が首をかしげる。

「タツヤ、それでいいのか? 勃起ちんこぼっちじゃね」
「いかに自分がどうあるべきか、鳴き声を聞かせることでわからせてやろうと思って。そのためならこれを放っておくことなんか安いものさ」

 青峰の向こうに見える、雄々しくもいきり立ったそれを見つめる。青峰が丹念に育てていたおかげで、兄の桃色の陰茎は達する手前に留まっていた。甘皮がめくれ、太い幹はたくましく漲り、まるみを帯びた先端は真ん中のくぼみからつやつやと涙を溜めている。そうした兄のものを眺めていると、どうにも口の中がさみしくなった。大我も兄のそれを口にしたいと思ったが、今はそのときではないと我慢した。夜にでも寝室でねだることにしよう。
 まずはこちらを満たしてやらなければ。

「も、らぁ、で、ぅあ、でっる……! あ、かが、ひぁ、イ、いい、ひっ!」

 大我の行為に脚をがくがくと揺らす青峰の、肉付きの良い頬に桃色の先端がすりつけられている。大我は兄の右手が自身の根元を握っていることに小さく笑った。ついさっきまで格好のいいことを口にしていても、結局我慢できていない。そもそも魅力的な青峰を前にして我慢できる方が人間としておかしいのだが。
 頬の肉を先端で感じながら、兄が疑問を口にする。

「飼って十年も経つのに、どうして学ぼうとしないんだろう」
「俺達に構ってもらいたいからだろ」
「お前天才」

 ぱちんと兄が指を鳴らした。
 発情した青峰の鳴き声と、ぐちゅぐちゅと結合部から濡れる音、荒く漏れる大我の呼吸で満ちた室内に一筋の乾いた音がかぶさる。手袋越しでしかも左手だというのに、兄は器用にもよく響かせた。
 どこもかしこも熱く、息が上がってきた。身体は達するための準備を整え、いまかいまかとその時を待ちわびている。大我としてもそろそろ青峰の中にぶちまけたい。
 大我は兄に許可を求めた。青峰はふたりで飼っているのだ、勝手にひとりの判断で躾をやめてはいけない。大我は兄の返事が色よいものだと願わずにはいられなかった。しゃべるために開いた口が息を吸うために切り替わっている。

「タツヤ、俺、そろそろ青峰許してやりてえんだけどっ……!」
「……まったく。だらしがないなあお前は。仕方ない、このあたりにしておこう。俺の職場お出かけデビューにしては、まあよく頑張った方か」
「はじめてでこれなら上出来だろッ……つくづく鬼だぜアンタ」
「慣れない大輝を職員が大勢いる仕事部屋に連れ込んで、見せびらかしながらヤりまくったどこかの犬に比べれば、十分な処置だろう。初めてのお出かけだったというのに大輝を危険に晒すような真似をして……なあタイガ、鬼はどっちだ?」

 わかっているだろう、とまなざしを向けられる。いつかのことを掘り返されて言葉がつまった。あれは若気の至りだったのだと反論のために口を開いたが、大我は言うべき機会を失った。青峰がほとんど叫ぶようにしてふたりに訴えかけたのだ。

「おま、んぁ、イっ、いいかげ、んにぃ……ッ! し、ろ……やぁ、アッ、いく、イき、でる、でちま……ンン!」

 気がつけば大我は口元をゆるませていた。様子をうかがえば兄もやれやれといった体で、表情を和らげている。ふたりの気を引こうとかわいらしく藻掻く青峰を前に、躾などもうどうでもよくなっていた。結局のところふたりはこの獣に甘いのだ。
 大我は汗で濡れる引き締まった腰に指を食い込ませた。

「一緒に、いこうな、あおみねっ……!」
「大輝、きちんと俺のを受け止めるんだよ。言いつけ通り、ひとしずく残さず、だ」

 兄があえぐ青峰の鼻先に自身を掲げる。わななく唇を指でなぞってやると、心得たように青峰は口を広げようとした。
 身体の奥までねじ込まれた大我によって、こりかたまったあたりを押しつぶされる。ようやく与えられたご褒美に青峰は弓なりに身体を反らして、ひときわ甲高く鳴いた。

「ふにゃ、ぁあ……ンンっ!」

 自身も溜め込んでいた熱を吐き出しながらも、青峰は大きく開いた口で兄の精を受け止める。あまりに溢れすぎて唇の端についてしまった分も舌で舐め取った。
 兄は己の熱を受け止めきった口を閉じさせると人差し指を振って合図し、喉の奥へと流し込ませる。ごくんと喉仏が上下に動いて無事に嚥下したことを確かめて、兄が唇を合わせた。唾液のしたたる唇を舌でこじ開け、労るように熱いそれと絡ませる。青峰の口内は他ならぬ己の放ったもので苦いだろうが、兄は気にならない。この行為こそが時折兄が見せる青峰への愛情だからだ。そんなことは青峰が一番よくわかっていて、だからこそにゃあなどとあまく鳴いて応える。
 大我が熱の落ち着かない身体から陰茎を引き抜く。
 腰を引くと、青峰がびくびくと小刻みにふるえた。まだ大我のそれは硬さを保っている。敏感な粘膜をこすられれば震えもするだろう。
 さほど時間をかけず引き抜いてやると、大我が拓いた窄まりから白濁がだらぁとこぼれた。普段はせいぜいひとしずく垂らすくらいで括約筋がきっちりと働いているのだが、好くなりすぎるとこうして締まりがなくなる。
 大我は己の放った精で青峰の尻が汚れている様をじっくり見やると、熱い汚れをあえて拭わずそのままにした。いつもであればもう一度その蕾をこじ開け泡立つまで穿つのだが、青峰はくたびれてしまっていた。兄の職場へ初めて足を運んだせいか、疲れ果ててすっかり眠っているのだ。
 かわいらしい寝顔からすうすうと気持ちの良さそうな寝息が聞こえてくる。大我は兄を見やった。兄もまた、大我に目を向けたところだった。
 ノックが鳴らされる。
 三度繰り返されたそれは部屋の持ち主に入室の伺いを立てるには、ひどく大きなものだった。扉に拳を思い切りたたきつけるそれである。さっさと出てこい、近所迷惑だとでも言わんばかりに。兄が軽口を叩いた。

「おい党首呼ばれてるぞ。打てないバッドなら仕舞って、退場すべきなんじゃないか?」
「うるせえよ三流指揮官。現場に出ない将校はデスクワークやってろ」
「ここはまさに俺の部屋で、俺は机に着いているんだが」

 などと下着も上げずに平然と返してくるので、大我はたまらず声を荒げた。

「っおい、なら呼ばれてんのタツヤじゃねえか。とっとと出て部下を休ませてやれよ。仕事抱えたまんまでドアの外で待たせるとか、マジで鬼だな」
「用があるのはお前ら二人だバカ共。その粗末な飛び道具を片付けるなり仕舞うなり千切るなりしてとっとと出てこい」

 扉の外から不作法に呼びかけられて、ふたりは顔を見合わせた。それはここにはいないはずの人間の声だった。幼い頃からふたりが親しんだ、良き好敵手ともいえる屋敷の使用人。

「千尋だった」
「千尋だな」
「え、じゃあ普通に入ってくればよくね? いつもそうしてんじゃん」
「一応ここ俺の職場だから。俺の許可があるまでたぶん部下に足止めされてる。家と違うんだよ」

 眠っている青峰の頭から制帽を取ると、兄は本来あるべき自身の頭へと深くかぶり直した。帽子にはこの国の軍を示す印が金によって縁取られて掲げられている。
 大我は改めて兄の属している世界の煩雑さに呆れた。許可も何も、お互い気心の知れた人間だ。この部屋の扉の前まで来ることだって、ふたりの屋敷の使用人だと証明された上でここにいるのだ。それだのに更に許可が必要とは。大我が兄の職場へ訪れたのはいくつもの書類の確認とサインを求められたからだったが、その煩雑さを示すように用意された紙束の前に、大我の右手は幾度も己の名前を記さなければならなかった。

「めんどくせえな、ここ」
「そういう場所なんだよ。それが居心地良い奴もいるけどな」
「やっぱ外でヤんないでいつもみたいに家でしようぜ。落ち着かねえ」
「そうだな、続きは家でやるか。せっかく外に連れ出したのに、意味なかったかな……。慣れない所に来たせいか、もう寝てる。俺としてはたまに遊びに来させたいんだけど」

 兄が汗ばんだ青峰の頭を労るように撫でる。仕事ばかりでろくに構っていられないのだ、職場で遊んでやらなくていつ触れ合えるというのだろう。そうした事情を鑑みてか、管理職に就いている人間には職場へのペットの携帯が許されていた。大我も兄もそうした位置についている。

「辛抱強く慣らしてけばよくね。俺もそうしたし、タツヤだってできるに決まってんだろ」
「お前に言われると心強いよ。まずは第一歩を喜ぶべきか」
「何ならまた付き合うからさ。地道にいこうぜ」

 机の上に放られた印章を拝借すると、大我は机の上で腰を掲げたまま眠りについた青峰の、精を垂れ流す窄まりに栓をした。職場でのペットとのひとときが認められているとはいえ、仕事着を汚してしまっては部下に示しがつかない。大我は青峰を抱きかかえると肩に担いだ。今日は初めてのお出かけで疲れているのだ、家に帰ってゆっくり休ませてやるべきだろう。

「俺、青峰連れてくな。千尋に預けて先に帰らせる」
「頼むよ。じゃあな党首、仕事しろよ」
「あー青峰と一緒に直帰してえ」
「ばかやろう、それは俺も同じだ。俺より先に家着いてたら殴るからな」
「あー……帰りてえ………」
「おい書類! 大輝だけじゃなくて仕事も持ち帰れ」

 兄がいくつもの紙束をひらひらと掲げた。すっかり忘れてしまっていたが、これがなければまたここに来なくてはならないのだ。大我はペンを持つことで右手を痛めるのはご免だ。どうせ痛めるなら兄と青峰のために酷使したい。
 様々な書類はすっかり皺になって、ものによってはところどころインクがにじんでいた。兄が連れてきた青峰にちょっと構うはずが、つい遊んでしまった。
 職場に戻ればまた仕事だ。こなすことはいくらでもある。なにせ大統領選まで、もう半年しかないのだ。
 このごろ、困ったことに市民と一部の上級職の間で、ある不穏な考えが蔓延している。我々と同じ姿をした動物を人間として扱うべき、という考えが。
 少数であれば気の毒な戯言と黙殺しているが、どうやらこの考えは市民の間に根を張り、憲法まで変えようとしているらしい。一世紀前の世代が立ち上げた偉業だというのに、恩知らずにも程がある。大我にできることは、所属する党の議席をひとつでも多く勝ち取り、この伝統を後世まで末永く伝えていくことだ。そのためには広く民衆の心を掴まなければ。
 大我は動物、もとい青峰から多くのことを学んだ。熱心な動物愛護家である大我には、今さら青峰を野良に返すことなど耐えられない。姿形が似ていようと、体内に刻まれた螺旋状の情報の構造が同じであろうと、動物は動物で人間は人間だ。区別ははっきりとつけなくてはならない。それが動物の幸せだからだ。
 それは兄も同じこと。
 リベラルなどと自身の知識を驕る連中が同じ議会に着く大我の職場と違って、兄の職場では動物との触れ合いに積極的な者が多い。飼育者がほとんどを占める兄の職場を訪ねると、慣れ親しんだ当たり前の気配に落ち着くと共に闘志が沸き上がった。青峰はもちろんのこと、兄も大我もこの状況を人間が受けるべき最低限度の幸福として受け止めている。これが破られた日には、動物たちはみな路頭に迷うだろう。
 ふたりは闘わなければならない。
 青峰と一緒にいられる未来を築き上げるために。